泰緬鉄道 タンビュッザヤ
以前紹介した、第二次世界大戦中に日本が建設し、タイとビルマ(ミャンマー)を結んでいた泰緬(たいめん)鉄道。別名、死の鉄道。ミャンマー側の起点となったのは、モン州のタンビュッザヤという町です。タンビュッザヤには、以前は「死の鉄道博物館」があったそうですが、現在建て直し中みたい。博物館跡地には、日本から運ばれて使用されていた蒸気機関車の一部が放置されていました。この町には、ジャパン・パヤーと呼ばれる、日本軍が建てた仏塔と慰霊碑があります。日本人兵士の戦没者のための慰霊碑だと思っていたら、戦争や鉄道の建設で犠牲になったミャンマー人を祀ったものでした。連合軍兵士の合同墓地(War Cemetery)にも行きました。よく手入れされており、墓石の脇には所々きれいな花が植えられている。何かの英語のホームページに書いてあったとおり、ここで人に会うことはめったになさそう。誰もいない墓地で、ゆっくり墓石を見ながら少し歩いてみました。墓石には、戦没者の名前と亡くなった時の年齢が書かれている。イギリス人とオランダ人が多かった。私はオランダ人もこの地で亡くなっていたことを知りませんでした。20代半ばから30代前半の人が多かった。私が見た限り、全ての人が私より若くして亡くなっている。神のご加護をというような、短いメッセージが書かれている墓石もあった。誰それの夫とか、誰それの父とか、とても愛されていた、などの文が刻まれていると、その人が戦争で亡くなった多くの兵士のうちの一人ではなく、イギリス人で27歳のJ.H.スミスという、愛する家族を残して死んだ一人の人間という印象を与える。母国には、彼らが生きて帰って来ることを望んでいた、家族や友人や恋人がいたはずだ。日本人兵士と同じように。バイクタクシーの後ろに乗って見る、静かでのんびりした小さな町タンビュッザヤの景色。この同じ景色を、戦争中に日本人兵士も見ていた。彼らはこの土地で、毎日何を考え、どのように感じていたのだろう。私の悩みなんて、きっと彼らからしたらばかみたいだろう。私が今うんざりしている事なんて、戦争中にミャンマーにいた日本人兵士からしたら、本当にくだらないに違いない。時を経て、同じ場所にいる同じ日本人として、自分が少し恥ずかしく思えた。にほんブログ村