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ラッコの映画生活

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2008.07.11
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カテゴリ:日本映画
PALE FLOWER
Masahiro Shinoda
白黒96min(1:2.35、日本語)
(桜坂劇場 ホールCにて)

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1964年3月1日に公開されヒットした作品だけれど、映画の完成はその8ヶ月ぐらい前だったらしい。非合法の賭博の世界をリアルに描いたことで検閲の問題もあったらしいし、映画会社の松竹にもこの作品の是非の迷いがあったのでしょう。つまりは1963年夏頃に撮られたということか。まあいずれにしても日本(日本人)にとって一大イベントだった東京オリンピックを前にした時期であり、高度経済成長が始まろうという頃だ。そんな時代に、生きることの価値や感動を見出せないような人物たちを描いた作品が作られていた。石原の同名の原作短編小説(読んでいない)が書かれたのはもっと前かも知れないけれど、篠田は1963年にこの映画を作ったのだ。でもなんとなく時代のこういう気分、心性ってわからないでもない。そしてそういう気分がいわば当たり前になって、その上で一種享楽的にそれを忘れようとしている状態、それが今日現代かも知れない。その意味では非常に現代性のある映画だ。自分は普段、仁侠映画というのは見ない。だから北野武の映画は避けてしまうことが多い。しかしこの作品は篠田正浩の作品だし、そして何よりも若い頃の加賀まり子が出ているのだから、一も二もなく(休みの日に早起きしなければならなかったが)映画館におもむいた。結果は正解。ヤクザの世界を使ってはいたけれど仁侠映画ではなかったし、若い加賀まり子はやはりとっても魅力的だった。

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船田組の村木(池部良)は3年前に敵対していた安岡組の男を刺して刑務所に入っていた。出所して東京に戻ってきた村木だけれど、大阪の今井組の関東進出もあって、今では船田組と安岡組は手討ちをしていた。表面的には何も変わっていない世界ではあるけれど、村木は状況に馴染めなかった。で賭博場に行く村木なのだけれど、そこで見知らぬ、誰も素性を知らない若い娘が豪快に賭をしていた。撮影当時加賀はまだ19才だから、そんな年齢の女だ。村木はそんな彼女に興味をひかれる。倒産寸前の古い時計店の2階に病気の父が寝たきりの昔の女(原知佐子)を訪ねると、彼女は今も村木にぞっこんだけれど、抱いてはみるものの賭博場の謎の娘が気になって燃え上がることはない。

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ある晩屋台のおでん屋で謎の娘と村木は一緒になる。「わたし冴子」と名乗った彼女は村木に、もっと賭金の大きな賭博をしたいと言う。そんな冴子を突き動かしているのは、まあ青春のエネルギーなのだろうけれど、ケタケタと笑う彼女は生の燃焼を感じる強い感覚を得たい。一方「殺しをしたときだけは生の実感があった」と語る村木だ。どちらも生の実感を求めるということで何かが通じ合ったと言える。そんな欲求に貪欲に突き進もうという若い冴子の姿に、燃焼できない状態に停滞にある村木は魅力を感じたのだろう。ヤクザ仲間のつてでそんな賭金の大きな賭博場を紹介すると村木は約束した。

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ネタバレにならないこの時点でちょっと深読み、裏読みをしてみよう。1960年代米ソ冷戦下で、何も自主的なことの出来ない日本(日本人)の無力感のようなものを象徴して描いたと篠田監督は語っている。そういう枠組でこの映画を見ると、船田組とは日本で、安岡組がアメリカ(及び西側世界)、そして更に今井組はソ連(及び中国)であるとは言えないだろうか。刑務所から出てきてみたら、もともと仲の悪かった安岡組(アメリカ)と村木(日本人)の属する船田組(日本)は仲良くしていた。そして共通の敵は今井組(ソ連)なのだ。戦前と戦後の価値観の一大転換について行けない日本人の象徴が村木かも知れない。船田と安岡の主張するのは暴力団の近代化であり、その象徴と言えるのか、そして戦後の日本の欧米化の象徴でもあろうが、親分2人(宮口精二・東野英治郎)はモナリザの複製の飾られた高級レストランで慣れないナイフとフォークで会食をしている。親分2人は競馬場で双眼鏡を手に観戦しているけれど、レストランの2人といい、この競馬場の2人といい、何か滑稽さを感じさせる。村木は離れた場所にいる姿として望遠レンズで写される。この世界の中ではなく外にいる感じだ。作中の役の年齢が示されないので演じる役者の年齢で考えると、加賀は1943年、池部が1918年の生まれ。終戦時に加賀はまだ誕生日前だから1才。池部は27才。2人が1963年の同じ無力感の中に生きていると言っても、27才で既に戦前の価値観を自分のものとしていた村木に対して、まったく戦前の価値観と無関係に育ったのが冴子だ。また仁侠の世界を使ったのは、我々の通常の社会よりも、その社会への帰属や従属が明確だからだろう。世界の国々の力関係など、ヤクザの抗争と同じだという含みもあるかもしれない。そしてもう一つ感じたのは賭博の宗教性・儀式性だ。最初に引用した写真のように左右対称の賭博場の構図は教会をも思わせるし、声の出し方や、花札を鳴らす音などには様式があり、儀式的なのだ。賭博が生の実感を与えてくれるとするならば、従来の価値観のなくなった人々にとって、賭博(場)とは生に意味を与えてくれる宗教(教会)なのかも知れない。

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(そろそろ少しネタバレ)
村木は弟分・相川(杉浦直樹)の仕切る連込み旅館で催されている賭博に冴子を連れていく。豪快に勝負する冴子だけれど、そこにはそんな彼女を秘かに見つめ、一方村木を監視するような無気味な男・葉(ヨウ)が片隅にいた。船田の親分が客人としている香港人とのハーフで、麻薬中毒の殺し屋だ。何度かこの賭博場に通うある夜、警察の手入れがあった。(場所は連込み宿だから)とっさに村木は冴子を連れて一室に逃げ、ふとんにもぐり込み単なる情事客を装って警察を逃れる。騙されて去っていった警察官。そんな状況を冴子はいつもの調子でケタケタと笑った。ふとんの中の2人はいっときじっと見つめ合うが、村木は冴子を抱こうとはしなかった。結局この世界に自分に居場所はないと感じている村木が、この世界に執着するものを持ちたくなかったのかもしれないし、そんな自分に冴子を巻き込みたくなかったのかも知れない。さっきのメタファーとして言えば自分が過去の日本人であるのに対して、冴子は現在の日本人だ。そんな現在の日本人の将来に対する希望なのかも知れない。

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ある晩村木は葉に襲われる。葉の投げるナイフからは逃れたが、夜悪夢を見る。葉に麻薬を打たれ、麻薬中毒にされている冴子の夢だ。この映画の制作は1963年。『仮面ペルソナ』や『狼の時刻』はまだ作られていないが、『第七の封印』『野いちご』『鏡の中にある如く』は既に公開されている。この夢のシーン、ソラリゼーションまで使った幻想的な白黒映像なのだけれど、その筆致が実にベルイマンなのだ。手法の引用、パクりとも言えるけれど、時代的な雰囲気を表現するのに有効な表現法だったのかも知れない。

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(以下ネタバレ)
安岡組の者が今井組に殺され、船田親分は子分を集めて今井殺しの刺客を募るけれど適当な志願者はいない。そこで「自分が」と言ったのは村木だった。それは自分の居場所のないこの世界からの(刑務所への)逃避でもあったろうが、冴子への愛でもあった。葉とつきあい、麻薬も始めたらしい冴子に、村木は「賭博よりも、麻薬よりもいいものを見せてやる」と言う。自分が今井を殺すのを見せようというのだ。今井がいる名曲喫茶に冴子を連れて向かうシーンは4~5分の長回しだ。セリフをうろ覚えでやや自信な気の池部良にテストと言って篠田が撮影したのは実は本番だった。そんなちょっとおどおどしたような演技を監督は利用したのだ。この映画は仁侠の世界の映画でありながら、暴力シーンはほとんどない。村木を殺そうとした安岡組の若いチンピラは指を詰めるけれど、そんなシーンや詰めた後の手が写されることもない。そして唯一仁侠映画的この最後の殺人シーン。それも名曲喫茶の洋館的インテリア、音楽はオペラがバックに流れる中、リアリティーではなくいわばオペラチックな演出で描写される。まったくの反仁侠映画と言えるかも知れない。そして2年後刑務所の中庭で散歩の運動をしていて、入所してきた相川と出会う。相川は冴子が薬中にされた挙げ句、葉に殺されたことをを村木に教える。「それで彼女の素性がわかったんです。」と相川が言ったとき、看守が「村木、時間だ。」と言うが、村木はあえて相川に彼女の素性を尋ねようとはしなかった。

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今回は「池部良特集」ということで『現代人』と2本が上映されたが、50年代、60年代の古い白黒日本映画を、先の小津の『東京物語』ともども、堪能させてもらった。45年前に篠田監督が、希望を含むものとして村木に深い関心・共感・反発・愛情を与えた冴子は、結局殺され、生きていくことはなかった。そのなれの果てが現代の日本であり、冴子と同じように生の実感を強く感じることのできない現代の我々かも知れない。その意味では現代的心性で共感して観られる映画だ。

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Last updated  2008.08.01 02:11:50
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