ラッコの映画生活

2009/03/11(水)00:05

『BOY A』ジョン・クローリー監督(2007イギリス)その3

BOY A John Crowley 108min(1:1.85) (桜坂劇場 ホールAにて) (つづき) ここに二重のメタファーがある。一つは親に適切な愛情を示されないために歪んでしまう子供の姿。フィリップやジャックの子供時代と重なる。もう一つは「やり直しの人生」だ。出所したジャックの状況は、過去に罪を犯した者のやり直しの人生。テリーが躍起になってジャックの面倒を見るのは、実は実の息子の父親として失敗を、ジャックでやり直そうとするからなのだ。 そういう意味で、テリーがジャックの社会復帰でやろうとした計画、つまりとにかく、恋人にさえ過去をひた隠しにさせること、それは必ず破綻するということだ。テリーはジャックに対して親身になっているようでありながら、その実父親としての自分の失敗の帳消し、自分に対する誤魔化しでしかない。 だからこの映画は、そういう心的構造が背後にある物語であり、ジャックのような青年(少年)の更生、あるいは世間がどう彼を受け入れるか拒絶するかだけの物語ではない。テリーがどんなにジャックの更生に成功してもしなくても、息子に対する罪が帳消しになるわけではない。単にジャックの素性をバラしたのがテリーの息子のだったのではない。イギリスを離れて遠く国外ででも再出発するのでなければ、遅かれ早かれジャックの過去は明るみに出ただろう。ジャックは恋人に真実を語りたくて悩むけれど、それは当然であって、恋人にであれ世間一般にであれ、過去の真実を知らせた上で自分を受け入れて貰うのでなければ、真の解決はない。仮に秘密を一生隠しておおせたとしても、テリーには成功でもジャックには欺瞞の人生でしかない。そして父親として欺瞞の人生に逃げたのがテリーだ。 この物語からはその点を読み取るべきだ。真実を曝した上で、そういうジャックを世間が受け入れるかどうかであり、そのとき初めて今度はボール我々世間の側に投げられる。 最初の方で、まずは現在のジャックを提示して、段々に彼の過去がわかるような構成であると書いた。そのためではあろうが、過去の回想部分がやや長すぎた感じだ。その割にジャックの詳細はあまり浮き上がってこない。最近こういう言葉足らずの作品が多い気がするが、この映画には抽象化より具象化の方が良かったと思う。それをきっちりと出来ないのは一つの逃げであり、そこがこの作品の弱さだ。 -

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