『散り行く花』D・W・グリフィス監督(米1919)
BROKEN BLOSSOMS or THE YELLOW MAN AND THE GIRLDavid Wark Griffith90min(所有DVD)まあ主にアメリカ映画界での話かも知れないけれど、このグリフィス監督は「映画の父」なんても呼ばれるようです。1915年の『國民の創生』は3時間近くあって、アメリカ初の本格的長編作品。翌1916年の『イントレランス』はもっと規模が大きい。映画というものを芸術の一つとして認めさせた人とも言われますね。カットバックや、後にエイゼンシュテインが理論化するモンタージュ手法等も使っていて、この映画も特に後半は無声であることや、稚拙な画面のことなど忘れさせてくれて、いつの間にか物語に引き込まれてしまいます。恐怖を表すリリアン・ギッシュの演技が大写しで映され、見ている者を映画に引き込む力があります。「彼女を助けてあげた~い!」って心理です。カットバックで助けに向かう中国人青年と交互に映されるサスペンス。約90年前の映画ですが、既に今日の映画技法を完成していると言えるのでしょう。『國民の創生』は南北戦争を南部側からの視点で描いているので北部では不評で、また人種差別的KKKを美化して描いているという批判があるようですが、この映画では差別主義者の父親を悪、黄色人種の中国人青年を善として描いています。暴力的な西洋人に仏教の教えを広めようという志を持ったチェン青年はロンドンに向かうけれど、現実は厳しくロンドンの貧困地区で細々と商店を営み、阿片や賭博に明け暮れる日々。そのスラム街に住む少女ルーシー(リリアン・ギッシュ)。母は彼女がまだ幼い頃に死に、今は暴力的で差別主義者のボクサーの父に毎日虐待されている。そんな純情で可憐なルーシーを街で見かけて、チェンはもともとの純な気持ちを思い出し、心安らぐのだった。ある日父親に折檻された少女は家を抜け出し、偶然チェンの店の中に行き倒れる。チェンは2階の住居のベッドに彼女を寝かせ、介抱する。彼はどう自分の気持ちを彼女に表現して良いかもわからない。しかし2人の気持ちは通じ合い、純な恋心が。そしてほんの一時の幸せな時間が。しかしそれもつかの間。事態を知らされた父親はチェンの留守に部屋をめちゃくちゃに壊し、ルーシーを家に連れ帰って激しく折檻する。彼女は小部屋に逃げ込み、事情を知った青年は助けに向かうが、既に時遅し。チェンが着いた時にはルーシーは父親の激しい暴力に息絶えていた。チェンは持参したピストルで父親を撃ち、自らも命を絶つのだった。まあ、本当に暗い暗いお話。リリアン・ギッシュの演技は見事です。父親に「笑え」と言われて、指で口の両端を広げて無理に笑い顔を作る彼女は痛々しい。でもその笑顔は美しいですね。(以下は発展的考察で、映画には直接関係ないかも知れません。)人種差別というのは自分のアイデンティティーを得るための最も簡単で、最も卑怯なやり方ですね。例えばアーリア人でありさえすれば、何のトリエもなく自己嫌悪に落ち入るような人でも、アーリア人であるだけでどんなに優れたユダヤ人よりも自分は偉いと思えるわけです。でも多かれ少なかれ、本質的に同じような心の傾向は誰にでもあるんですね。それを認めた上で、それが発現しないように、そうあらないように努力しなければならないと思います。もう一つは男による娘(や妻)の虐待。こういうのは何故かイギリス映画に多いでしょうか。(ちなみにこの映画は舞台がロンドンなだけでアメリカ映画です。)男っていうのは一方では女を必要として求めるのだけれど、他方女っていうのは男を見透かしている感じがある。と言うか女は男にとって自分を映す鏡のようなものであるのかも知れない。だから欲求不満やコンプレックスを持ったとき、そんな女を屈服させること、鏡を壊す衝動を持つのではないでしょうか。まあとにかく男っていうのはそういうどうしようもない生き物です。それを自らに認めるところから始めないといけませんね。監督別作品リストはここからアイウエオ順作品リストはここから映画に関する雑文リストはここから