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テーマ:東京(30)
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江戸時代には病気を治すことは大変なことであったろう。老婆が失明し、自殺まで考えたが仏様の使者,閻魔大王にすがれば直るかもしれない、願を掛け、その甲斐あって目が見えるようになったという話。今でも信心する人が絶えぬと言う。
![]() むかし、緑におおわれた小石川の白山台地と本郷向ケ丘台地にはさまれた細長 い谷間の中ほどに、源覚寺という寺があった。この寺は伝通院第三世定誉随波 上人が建てたものだ。上人は高齢になったので、静かに余生を送ろうと考え、徳 川二代将軍秀忠に、そのむねを願い出た。さっそく許されて、伝通院からほど遠 からぬこの谷間の一角を拝領した。当時は閑静な、禄の濃い美しい谷だった。そ こに寛永元年(一六二四年)寺を建立し、落成した。 その後、いつのことかわからないが、近くの半井和州侯の別荘の池から、閻魔 大王の像がすくい上げられた。像はこの寺に安置された。 閻魔大王にお参りすると、幸運が舞い込むということから「小石川の闘魔さ まといって江戸中に知れ渡った。閻魔さまにお参リする人は、一月と七月の十六日 つまり薮入の日に多くこの両日がにぎわった。 宝暦年間(一七五一― 一七六四年) のある晩春の日のことである。参拝者が閻魔さまを拝もうと顔をみると、あの恐い眼の片方がつぶれている。さらに不思議なことに、閻魔 さまにはおよそ縁のない、こんにやくが供えてあった。 「閻魔さまの片目がつぶれている」と、参拝客の間で大騒ぎとなった。 ところが、それから何日か過ぎたある日、こんにやくを供え、閻魔様の前で 一心に祈っている一人の老婆の姿を住職が見つけた。 「閻魔さまにこんにやくをお供えしたのは、お婆さんだったのかね」この私 しですが・・・」「この間から、こんにやくをどうしてお供えしているのか、参拝 する人からたずねられるが、返事ができないので、そのわけをたづねたいのだが 「上人さま、それには深いわけがございまして・・・ 」と、老婆は、閻魔 さまにこんにやくを供えるようになったいきさつについて語りだした。 老婆はしだいに視力が衰えていくことに気がついた時、「これも年のせいかな」 と、こう思った。だが、朝、両眼に目やにがたくさんつく。これは年による視力 の衰えではなく、眼の病気に違いない、と考えるようになった。それからという ものは、老婆は眼病によくきく薬を求めて江戸中を歩いた。しかし、どの薬も老 婆の眼には効き目がなかった。お医者さんにも診察してもらったが、結果は同じ で、病は悪化しっいに失明してしまった。 これまでは他人の世話にならずに生きてきたのに、これからはいちいち手を引いてもらわなければならない。老婆は、みじめな気持になってしまった。 「こんなことなら、いっそ・・・と、何度か絶望のあまリ自殺を考えたという。 こんな苦悩に沈んでいる時、ふと頭に浮かんだのが、「そうだ、小石川の閻魔さ まに願を掛けてみよう」 ということだった。 閻魔さまは仏法を守護し、衆生の幸福をはかるために、仏がこの世につかわし た使者だ、と、老婆は誰かに聞いたことを思い出したからである。 さっそく老婆は閻魔堂の前に立った。そして「眼をなおして下さい」と、願をかけた。二十一日間というものは、すべてを忘れて、ひたすら閻魔さまの慈悲にすがった。そして満願の夜、老婆は閻魔さまの像の前にひれ伏した。そのままいつ眠るともなく、老婆は深い眠りに落ちていた。すると夢の中に閻魔さまが姿をあらわし「われ、日月にもひとしい両眼のうち一つをえぐリ取ってなんじに授くべし」と、いかめしい表情でいったかと思うと、忽然と姿を消した。そこで夢からさめた老婆はおどリ上がって喜んだ。両眼がもと通りに見えるようになったのである。老婆は、ぽろぽろ涙を流しながら閻魔さまの像を見ると、なんと片眼がつぶれていた。老婆は、食べ物のうち、最も好きなこんにやくを自分で食べず、閻魔さまに供えることにした。 ″こんにやく閻魔〃 と呼ばれるようになったのは、このことがあって後のことだという。この寺は、文京区小石川二丁目にある源覚寺だといわれ、いまでも独眼の閻魔大王の像がこわい顔をして立っている。そして、むかしほどではないが、目の病人がお参りに来るという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.10.19 10:25:25
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