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テーマ:東京(30)
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今も昔も変わらないものに嫁と姑との関係でしょう。自分が虐めれたから
今度は自分がその番だ。そのようには考えないでしようが、若い人と年寄りとは 考え方は異なります。そこをお互いに相手の立場に立って発言や指示をしてみてはどうでしょうか。 ![]() 足立(足立区)一帯の豪族、宮城宰相には子供がなかった。彼にとっては子供 のないことが大きな悩みだった。「子供が生まれないものか」ー いつもこのこ とが、彼の脳裏から消えたことはなかった。そこで、「子供をぜひ授けて下さい」 と、彼は紀州の熊野権現に願をかけた。数年後、女の子が生まれた。年ごろにな った一人娘は、美しく気立てのやさしい女性に育った。手塩にかけて育てたかい があったわけである。そして誰いうともなく、この一人娘を足立姫と呼ぶように なった。美しい娘となった足立姫の婿には、いったい誰が選ばれるのか、この近 郷近在の若い人たちの関心はこのことに集まったのである。 足立姫が十七歳を迎えたとき、 豊島左衛門尉との婚約が整った。左衛門尉は、 入間川(現在の荒川)をへだてた向う側、つまり現在の北、板橋区あたりを領有 していた豪族の長男で、武勇に秀でた美丈夫だった。 「足立姫が豊島の総領息子のところへ嫁入りするそうだ。どうりで、立派な嫁 入道具が毎日のように足立の御館が運ばれると思っていたが・・・「似合いの夫婦になるだろう」などと、村人たちはささやきあっていた。 やがて輿入れの日が来た。 ある晴れわたった日、足立姫を乗せた輿は入間川の流れを舟で渡り、左衛門尉 の館へ入った。こうして、村人たちの祝福を受けながら嫁入りはとどこおりなく 終ったが、足立姫に悲しい運命が待ち受けていようとは、神ならぬ身の誰一人と して想像もしなかった。 数か月がまたたく間にたった。 左衛門尉の母親が、このころから嫁をいじめはじめた。 「なんです。花嫁のくせに大またで座敷を歩いたりして・・・」 足立姫の一挙一動に姑は、なんくせをつけた。 それでも姫は従順だった。 そしてよく仕えた。左衛門尉は、足立姫をかわいそうに思ったが、慰めの言葉で もかけようものなら、「嫁を増長させる」といって、母親がますます猛り立つの で、黙ってしまうほかなかった。親に従順でなければ″親不孝者″と指弾される 世の中であった。左衛門尉は、はらはらしながらも、どうすることもできない。 姑の嫁いじめは徹底的だった。足立姫の忍耐にも限度があった。それは、「お前には、いやしいみそかお(秘密の男)がいるというではないか」と、姑 がありもしない作り話をぶっつけてきた時である。 足立姫は思った。妻としてこのような侮辱に耐えることはできない。だが、実 家に帰ろうかと思った時、「一度お嫁入りしたら、実家はないものと思え」と、 嫁ぐ日にこんこんとさとされたことを思い出した。 帰る家がないのも同然の足立姫は、ついに死を覚悟した。その夜そっと家を出 た。暗い道をひとりで歩いて、入間川べりにでた。誰も知らないと思ったのに、 豊島家の女中五人が跡をつけていた。日ごろから足立姫に同情的だった五人の女 中は、一緒に死ぬといってきかない。泣けるだけ泣いた後、六人は流れに身を投げた。 翌朝、入間川の土手に六人の遺体が流れ着いた。村人たちは「あれほど人のう らやむ嫁入りをした足立姫が、どうしたことだろう。お気の毒に……」といって 袖を濡したという。 身投げの原因を知った足立姫の父親は、娘の薄幸を悲しんで、以前に願をかけ たことのある熊野権現にはるばる出かけてお参りし、娘たちの冥福を祈った。すると、ある夜、一黒い衣をまとった坊さんが夢枕に立って、入間川に浮いた大木で 阿弥陀様を彫ってまつれ、と告げた。宮城宰相が帰ってみると、入間川に一本の 大木が浮んでいた。そこで、坊さんにいわれた通り、六体の阿弥陀様を彫って、 それぞれ死んだ娘たちの出身地の寺にまつり、長く冥福を祈ったという。 この話は、およそ五百年前のものといわれ、それ以来、春秋の彼岸には″六阿弥陀詣で…といって、六つの寺を巡拝する人が跡を絶たず、この巡拝は昭和の初め ころまでさかんだったといわれている。 六阿弥陀の寺は、足立区江北二丁目にあった恵明寺、北区西ヶ原一丁目無量 寺、同区田端一丁目与楽寺、台東区上野常楽寺、江東区亀戸四丁目常光寺、北区 豊島二丁目西福寺の六寺だったが、いまでは無量寺、与楽寺、西福寺、常光寺の 四寺が残っているだけである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.10.24 07:38:30
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