第4章:触れてはいけない話
翌朝、敏昌はほとんど眠れないまま目を覚ました。 障子越しに朝の光が差し込んでいたが、山間の村特有の濃い霧のせいで外は白く霞んでいる。空気は湿って重く、夜の冷気がまだ家の中に残っていた。 昨夜の出来事は夢ではなかった。 窓ガラスに張りついていた白い指。耳元で囁く声。庭の奥に立っていた細長い人影。それらを思い出した瞬間、敏昌の背筋に冷たいものが走る。 顔を洗うため鏡を見ると、自分でも驚くほど顔色が悪かった。目の下には濃い隈が浮かび、唇の色も悪い。まともに眠れなかったせいだけではない気がした。 一階へ降りると、台所では母と叔母が朝食の準備をしていた。味噌汁の湯気が漂い、焼き魚の匂いが狭い居間に広がっている。普通なら落ち着くはずの家庭の匂いだったが、この家では妙に息苦しく感じられた。 母は振り返らないまま言った。 「ちゃんと寝れた?」 「……あんまり」 敏昌が答えると、母はそれ以上何も聞かなかった。 食卓には親族たちも集まり始めていた。年配の男たちは無言で新聞を広げ、女たちは小声で通夜の準備について話している。しかし、その声量は必要以上に抑えられており、誰も大きな音を立てようとしない。 敏昌は席につきながら周囲を見回した。 皆、妙に顔色が悪い。 特に老人たちの表情は異様だった。深い皺の刻まれた顔には疲労とも恐怖ともつかない陰が浮かび、濁った目だけが落ち着きなく動いている。歯を見せて笑う者は一人もいない。 昨夜のことを聞くなら今しかない。 そう思い、敏昌は箸を置いた。 「昨日の夜、外に誰かいましたよね」 その瞬間、食卓の空気が変わった。 味噌汁を注いでいた叔母の手が止まり、新聞を読んでいた男たちも動きを止める。だが誰一人として敏昌の顔を見ようとしない。 沈黙だけが広がった。 やがて、向かい側に座っていた老人がゆっくり口を開く。 「夜は外を見るな」 掠れた声だった。喉が潰れているような、不自然な響きだった。 敏昌は老人を見た。 痩せた顔だった。皮膚が骨に貼りつくように窪み、白く濁った目がじっとこちらを見ている。半開きの口から黄ばんだ歯が覗いていた。 「見たなら、忘れろ」 老人は低く言った。 「忘れろって、何なんですか」 敏昌は思わず声を強めた。 「二階の窓を叩かれたんです。庭の奥には変な人影までいた。どう考えてもおかしいでしょう」 その時、不意に叔母が茶碗を取り落とした。 がしゃん、と陶器の割れる音が響く。 叔母は怯えたように肩を震わせ、慌てて破片を拾い始めた。 母が鋭い声を出す。 「やめなさい」 敏昌は言葉を止めた。 母はゆっくり顔を上げる。その表情を見て、敏昌は違和感を覚えた。 怒っているのではない。 怯えている。 まるで、その話題自体が何かを呼び寄せるとでも思っているような顔だった。 「この村では、夜のことを話すもんじゃないの」 「意味がわからない」 「わからなくていいから、もう言わないで」 母はそれ以上何も説明しなかった。 食卓には再び重い沈黙が落ちる。壁に掛かった古い時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てていた。 昼過ぎ、敏昌は気分転換も兼ねて村を歩いた。 空は曇っており、山際にはまだ霧が残っている。古い木造家屋が並ぶ道には人影が少なく、たまに見かける村人たちも敏昌と目を合わせようとしなかった。 畑仕事をしている老人に挨拶しても、相手は曖昧に会釈するだけで会話を続けようとしない。 異様なのは、その視線だった。 皆、一瞬だけ敏昌を見る。そしてすぐに目を逸らす。その動きに共通した怯えがあった。 村の中央には古びた集会所があり、その脇に掲示板が立っていた。色褪せた行事予定や訃報の紙が貼られている中、一枚だけ新しい紙が目につく。 『夜間外出禁止』 赤い文字でそう書かれていた。 敏昌が眉をひそめながら眺めていると、後ろから声がした。 「見ん方がいい」 振り返ると、杖をついた老人が立っていた。 小柄な男だったが、背中が異様に曲がっている。顔中に深い皺が刻まれ、唇は乾いてひび割れていた。濁った目だけが湿ったような光を帯びている。 「この村、昔からこうなんですか」 敏昌が訊ねると、老人はすぐには答えなかった。 周囲を警戒するように視線を巡らせ、それから小さく口を開く。 「夜に呼ばれても、返事するな」 敏昌の表情が固まる。 老人はさらに声を潜めた。 「聞こえても外を見るな。山へ行くな」 「何の話ですか」 その問いに対し、老人は口を閉ざした。 まるで自分が余計なことを言ったと後悔しているようだった。 「……知らん方が長生きできる」 掠れた声だけを残し、老人は足早に去っていく。 敏昌はその背中を見送りながら、胸の奥に嫌な感覚が広がっていくのを感じていた。 誰も説明しない。 だが、誰も否定もしない。 この村の人間は全員、同じ“何か”を知っている。 そして、それを口にすること自体を恐れていた。