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呼ばれた者は戻らない|川平敏昌のホラー小説

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2026.05.15
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カテゴリ:小説



 夜は、想像していた以上に早く村を覆った。

 都市部なら、窓の外には街灯があり、遠くを走る車の音がある。人の生活音が夜を押し返している。しかし、この村にはそれがなかった。日が沈むにつれて景色は黒く潰れ、周囲から音が消えていく。

 母の実家は古い木造家屋だった。黒ずんだ柱、擦り減った畳、低い天井。湿気を吸った木材はじっとりと冷たく、時折、家そのものが軋むような音を立てる。

 通夜の準備が終わる頃には、親族たちもそれぞれ別室へ引き上げていた。

 敏昌は二階の一室を使うことになった。幼い頃にも泊まったことのある部屋だが、今見ると妙に狭い。壁紙は薄く変色し、隅には黒い染みが浮いている。机の上には小さな照明が置かれていたが、光は弱く、部屋の四隅までは届いていなかった。

 窓の外を見ても、山の輪郭すら闇に溶けている。

 静かだった。

 静かすぎた。

 虫の声がない。風の音もない。田舎の夜にあるはずの気配が、まるごと抜け落ちている。

 敏昌はスマートフォンを確認した。

 圏外。

 昼間はかろうじて繋がっていたはずだが、今は完全に途切れている。画面の右上に表示された無機質な文字が、妙に不安を煽った。

 時刻は二十三時過ぎだった。

 眠気はある。しかし神経が落ち着かない。横になっても、古い家特有の音ばかりが耳についた。

 ぱき、と柱が鳴る。

 みし、と廊下が軋む。

 最初は気にしていなかった。古い家なら当然の音だと思っていた。しかし、しばらくして違和感に気づく。

 音が一定の間隔で鳴っている。

 まるで誰かが廊下を歩いているようだった。

 敏昌はゆっくり身体を起こした。

 耳を澄ませる。

 みし。

 少し間を置いて、また。

 みし。

 二階の廊下だった。

 誰か起きているのかと思い、襖の方を見る。しかし人の気配はない。

 その時、窓を叩く音がした。

 とん。

 敏昌の身体が強張る。

 視線だけをゆっくり窓へ向けた。

 外は暗く、何も見えない。だが確かに、外側からガラスを叩く音がした。

 ここは二階である。

 人が立てる高さではない。

 しばらく待ったが、何も起きない。

 気のせいかと思い始めた頃、再び音が鳴った。

 とん。

 今度は少し強く、ガラスが微かに震えた。

 敏昌は息を潜めながら立ち上がった。照明の光が背後から伸び、床に細長い影を作る。その影が窓際へ近づくにつれ、不自然に歪んで見えた。

 窓の前まで来る。

 ガラスには、自分の顔だけがぼんやり映っていた。疲労のせいか顔色が悪い。その背後の暗闇が、異様に濃く見える。

 敏昌は慎重に窓へ手を伸ばした。

 古い木枠の窓だった。長年湿気を吸った木材は黒ずみ、表面がざらついている。指先が鍵に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが皮膚に貼りついた。

 無意識に唾を飲み込む。

 ゆっくり力を込めると、錆びた金具が乾いた音を立てた。

 かち。

 敏昌は両手を窓枠にかけ、慎重に横へ引いた。

 最初、窓はほとんど動かなかった。建て付けが悪く、木枠が固着している。

 さらに力を入れる。

 み……、と鈍い音がして、わずかに隙間が開いた。

 その瞬間、冷たい空気が細く流れ込んできた。

 湿った山の匂いだった。土と苔、それに獣じみた臭いが混じっている。

 敏昌は顔をしかめながら、さらに窓を開けた。

 ぎぃ……、と戸車が軋み、窓がゆっくり横へ滑った。

 人が顔を出せる程度まで開いたところで、冷気が一気に室内へ流れ込んでくる。カーテンが微かに揺れた。

 どこかで、水滴の落ちる音がした。

 ぽたり。

 敏昌は窓枠に手を置いたまま、外を見た。

 庭先には誰もいない。古びた石灯籠と、背の低い木々が並んでいるだけだった。

 「……としまさ」

 声がした。

 耳元で囁かれたような距離だった。

 敏昌は反射的に振り返る。しかし部屋には誰もいない。

 だが確かに、自分の名前を呼ばれた。

 男とも女とも判別できない声だった。湿って掠れており、喉の奥に泥でも詰まっているような響きだった。

 「……敏昌」

 今度は窓の外から聞こえた。

 敏昌は勢いよく視線を向ける。

 庭の奥、木々の隙間に人影が立っていた。

 異様に細長い体だった。白っぽい何かを着ている。顔は暗闇に潰れて見えないが、こちらを見ていることだけはわかる。

 目だけが濡れたように光っていた。

 人影は動かない。ただじっと立ったまま、敏昌を見ている。

 その沈黙が異様だった。

 やがて、闇の中で口元だけがゆっくり動いた。

 裂けるような笑みだった。

 黄ばんだ歯が見える。

 その瞬間、敏昌は勢いよく窓を閉めた。

 ぎぃっ、と木枠が大きく軋む。湿った窓枠で指が滑ったが、構わず力任せに閉じる。

 ばん、と鈍い音が部屋に響いた。

 すぐに鍵を掛けようとする。しかし震える指がうまく動かず、何度も金具を外した。

 呼吸が浅い。

 ようやく鍵が噛み合い、かち、と乾いた音が鳴る。

 それでも安心感はなかった。

 むしろ、窓一枚隔てた向こう側に“何か”がいる感覚だけが強くなる。

 その直後、また窓が鳴った。

 とん。

 数秒後、もう一度。

 とん。

 一定の間隔だった。

 まるで中へ入れてほしいと訴えているようだった。

 敏昌は動けなかった。

 窓ガラスに白いものが浮かぶ。

 細長い指だった。

 湿った指先が、ゆっくり窓枠をなぞっている。爪だけが異様に黒い。

 「おいで」

 低く掠れた声が聞こえた。

 一人ではなかった。

 男の声、女の声、老人の声、子供の声。複数の声が重なり合い、同時に囁いている。

 「おいで」

 敏昌は呼吸を止めた。

 あり得なかった。

 ここは二階だ。

 窓の外に立てる場所などない。

 しかも、さっきまで人影は庭の奥にいた。窓のすぐ外へ移動してくるには距離がありすぎる。

 なのに、指は窓ガラスに張りついている。

 ぺたり。

 また一本、別の指が浮かぶ。

 白く湿った指先だった。水死体のようにふやけて見える。爪は黒ずみ、先端が割れていた。

 ぎり。

 爪がガラスを引っ掻く。

 その音を聞いた瞬間、敏昌は自分の理解が崩れ始めていることを悟った。

 距離が合わない。

 時間も合わない。

 人が立てる場所ではない。

 それなのに、“いる”。

 窓の向こう側に、確かに何かがいる。

 しかも一つではない。

 ガラスの外に浮かぶ指は、いつの間にか何本にも増えていた。細長い指先が窓枠を掴むように張りつき、じわじわと広がっていく。

 敏昌は目を逸らせなかった。

 もし視線を切れば、その瞬間に窓の向こう側のものが部屋へ入り込んでくる。

 そんな確信に近い恐怖があった。

 「おいで」

 声が近い。

 窓の外ではない。

 すぐ耳元で囁かれているような距離だった。

 背後に誰かが立っている気配すらある。

 しかし振り返れない。

 首が動かなかった。

 身体の感覚が、ゆっくり冷えていく。

 気づけば敏昌は、呼吸の仕方すらわからなくなっていた。





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最終更新日  2026.05.15 15:45:39
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