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カテゴリ:小説
![]() 夜は、想像していた以上に早く村を覆った。 都市部なら、窓の外には街灯があり、遠くを走る車の音がある。人の生活音が夜を押し返している。しかし、この村にはそれがなかった。日が沈むにつれて景色は黒く潰れ、周囲から音が消えていく。 母の実家は古い木造家屋だった。黒ずんだ柱、擦り減った畳、低い天井。湿気を吸った木材はじっとりと冷たく、時折、家そのものが軋むような音を立てる。 通夜の準備が終わる頃には、親族たちもそれぞれ別室へ引き上げていた。 敏昌は二階の一室を使うことになった。幼い頃にも泊まったことのある部屋だが、今見ると妙に狭い。壁紙は薄く変色し、隅には黒い染みが浮いている。机の上には小さな照明が置かれていたが、光は弱く、部屋の四隅までは届いていなかった。 窓の外を見ても、山の輪郭すら闇に溶けている。 静かだった。 静かすぎた。 虫の声がない。風の音もない。田舎の夜にあるはずの気配が、まるごと抜け落ちている。 敏昌はスマートフォンを確認した。 圏外。 昼間はかろうじて繋がっていたはずだが、今は完全に途切れている。画面の右上に表示された無機質な文字が、妙に不安を煽った。 時刻は二十三時過ぎだった。 眠気はある。しかし神経が落ち着かない。横になっても、古い家特有の音ばかりが耳についた。 ぱき、と柱が鳴る。 みし、と廊下が軋む。 最初は気にしていなかった。古い家なら当然の音だと思っていた。しかし、しばらくして違和感に気づく。 音が一定の間隔で鳴っている。 まるで誰かが廊下を歩いているようだった。 敏昌はゆっくり身体を起こした。 耳を澄ませる。 みし。 少し間を置いて、また。 みし。 二階の廊下だった。 誰か起きているのかと思い、襖の方を見る。しかし人の気配はない。 その時、窓を叩く音がした。 とん。 敏昌の身体が強張る。 視線だけをゆっくり窓へ向けた。 外は暗く、何も見えない。だが確かに、外側からガラスを叩く音がした。 ここは二階である。 人が立てる高さではない。 しばらく待ったが、何も起きない。 気のせいかと思い始めた頃、再び音が鳴った。 とん。 今度は少し強く、ガラスが微かに震えた。 敏昌は息を潜めながら立ち上がった。照明の光が背後から伸び、床に細長い影を作る。その影が窓際へ近づくにつれ、不自然に歪んで見えた。 窓の前まで来る。 ガラスには、自分の顔だけがぼんやり映っていた。疲労のせいか顔色が悪い。その背後の暗闇が、異様に濃く見える。 敏昌は慎重に窓へ手を伸ばした。 古い木枠の窓だった。長年湿気を吸った木材は黒ずみ、表面がざらついている。指先が鍵に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが皮膚に貼りついた。 無意識に唾を飲み込む。 ゆっくり力を込めると、錆びた金具が乾いた音を立てた。 かち。 敏昌は両手を窓枠にかけ、慎重に横へ引いた。 最初、窓はほとんど動かなかった。建て付けが悪く、木枠が固着している。 さらに力を入れる。 み……、と鈍い音がして、わずかに隙間が開いた。 その瞬間、冷たい空気が細く流れ込んできた。 湿った山の匂いだった。土と苔、それに獣じみた臭いが混じっている。 敏昌は顔をしかめながら、さらに窓を開けた。 ぎぃ……、と戸車が軋み、窓がゆっくり横へ滑った。 人が顔を出せる程度まで開いたところで、冷気が一気に室内へ流れ込んでくる。カーテンが微かに揺れた。 どこかで、水滴の落ちる音がした。 ぽたり。 敏昌は窓枠に手を置いたまま、外を見た。 庭先には誰もいない。古びた石灯籠と、背の低い木々が並んでいるだけだった。 「……としまさ」 声がした。 耳元で囁かれたような距離だった。 敏昌は反射的に振り返る。しかし部屋には誰もいない。 だが確かに、自分の名前を呼ばれた。 男とも女とも判別できない声だった。湿って掠れており、喉の奥に泥でも詰まっているような響きだった。 「……敏昌」 今度は窓の外から聞こえた。 敏昌は勢いよく視線を向ける。 庭の奥、木々の隙間に人影が立っていた。 異様に細長い体だった。白っぽい何かを着ている。顔は暗闇に潰れて見えないが、こちらを見ていることだけはわかる。 目だけが濡れたように光っていた。 人影は動かない。ただじっと立ったまま、敏昌を見ている。 その沈黙が異様だった。 やがて、闇の中で口元だけがゆっくり動いた。 裂けるような笑みだった。 黄ばんだ歯が見える。 その瞬間、敏昌は勢いよく窓を閉めた。 ぎぃっ、と木枠が大きく軋む。湿った窓枠で指が滑ったが、構わず力任せに閉じる。 ばん、と鈍い音が部屋に響いた。 すぐに鍵を掛けようとする。しかし震える指がうまく動かず、何度も金具を外した。 呼吸が浅い。 ようやく鍵が噛み合い、かち、と乾いた音が鳴る。 それでも安心感はなかった。 むしろ、窓一枚隔てた向こう側に“何か”がいる感覚だけが強くなる。 その直後、また窓が鳴った。 とん。 数秒後、もう一度。 とん。 一定の間隔だった。 まるで中へ入れてほしいと訴えているようだった。 敏昌は動けなかった。 窓ガラスに白いものが浮かぶ。 細長い指だった。 湿った指先が、ゆっくり窓枠をなぞっている。爪だけが異様に黒い。 「おいで」 低く掠れた声が聞こえた。 一人ではなかった。 男の声、女の声、老人の声、子供の声。複数の声が重なり合い、同時に囁いている。 「おいで」 敏昌は呼吸を止めた。 あり得なかった。 ここは二階だ。 窓の外に立てる場所などない。 しかも、さっきまで人影は庭の奥にいた。窓のすぐ外へ移動してくるには距離がありすぎる。 なのに、指は窓ガラスに張りついている。 ぺたり。 また一本、別の指が浮かぶ。 白く湿った指先だった。水死体のようにふやけて見える。爪は黒ずみ、先端が割れていた。 ぎり。 爪がガラスを引っ掻く。 その音を聞いた瞬間、敏昌は自分の理解が崩れ始めていることを悟った。 距離が合わない。 時間も合わない。 人が立てる場所ではない。 それなのに、“いる”。 窓の向こう側に、確かに何かがいる。 しかも一つではない。 ガラスの外に浮かぶ指は、いつの間にか何本にも増えていた。細長い指先が窓枠を掴むように張りつき、じわじわと広がっていく。 敏昌は目を逸らせなかった。 もし視線を切れば、その瞬間に窓の向こう側のものが部屋へ入り込んでくる。 そんな確信に近い恐怖があった。 「おいで」 声が近い。 窓の外ではない。 すぐ耳元で囁かれているような距離だった。 背後に誰かが立っている気配すらある。 しかし振り返れない。 首が動かなかった。 身体の感覚が、ゆっくり冷えていく。 気づけば敏昌は、呼吸の仕方すらわからなくなっていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.05.15 15:45:39
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