|
カテゴリ:小説
![]() 集会所で老人と別れた後も、川平敏昌の胸には重苦しい違和感が残り続けていた。 夜に呼ばれても返事をするな。外を見るな。山へ行くな。 老人は確かにそう言った。しかし、その理由だけは決して語ろうとしなかった。 村へ戻ってからというもの、誰に話を聞いても反応は同じだった。口を閉ざすか、話題そのものを避けるかのどちらかである。まるで全員が同じ秘密を共有し、それを外へ漏らさないよう監視し合っているようにも見えた。 敏昌は再び集会所の前で足を止めた。古びた木造建築の外壁は長年の風雨によって黒ずみ、窓枠には薄く苔が張りついている。軒下には燕の巣がいくつも残っていたが、今はどれも空だった。 入口脇に目を向けると、小さな木札が掛けられている。 『村史資料室』 色褪せた文字を見つめながら、敏昌はしばらく考えた。村人が何も話してくれないのなら、自分で調べるしかない。昨夜の出来事も、村人たちの異様な態度も、この村に何かがあることだけは確かだった。 引き戸に手を掛ける。 戸は重かった。開いた瞬間、長い年月閉じ込められていたような埃の匂いが鼻を突く。 室内は薄暗かった。天井の蛍光灯は一本だけで、その光も弱々しい。窓から差し込む光も曇天に遮られ、書棚の間には昼間だというのに薄い影が溜まっている。 棚には村史、郷土資料、祭礼記録、戸籍の写し、古いアルバムなどが整然と並べられていた。予想していたよりも資料は多い。 敏昌は手近な資料を取り出し、閲覧机に腰を下ろした。 最初のうちは特に異常は見つからなかった。人口推移、農業の歴史、河川工事の記録。どれも地方の村なら珍しくない内容ばかりである。しかし一時間ほど読み進めた頃、妙な違和感を覚えた。 ある年代だけ、人名が不自然に少ないのだ。 昭和五十年代から平成初期にかけての記録である。人口統計の数字は残っている。ところが個人名になると、ところどころ不自然な欠落が見られた。 最初から空欄になっているわけではない。 むしろ、何かを消した痕跡だけが残っている。 敏昌は眉をひそめた。 別の資料を開く。 古い広報誌だった。 祭りの集合写真が載っている。写っている人数は十人以上いるのに、説明文に記載された名前は八人しかない。別の年度の運動会の記事でも同じだった。写真には明らかに複数の人間がいるのに、名前だけが欠けている。 偶然とは思えなかった。 さらに調べると、古い新聞記事の切り抜きが綴じられたファイルが見つかった。 敏昌は新聞記事の切り抜きが綴じられたファイルを手に取り、慎重にページをめくっていった。古い紙は湿気を吸って波打っており、指先にざらついた感触が伝わる。 最初に目に入った記事の見出しには、『村内で行方不明者』と書かれていた。 思わず身を乗り出した敏昌だったが、次の瞬間、眉をひそめる。 肝心の記事本文が途中から切り取られていたのだ。 紙が破れたのではない。定規でも当てたかのように真っ直ぐ切り抜かれている。 別の記事も同じだった。 『山中で――』 見出しだけが残り、その先は不自然に欠けている。 さらに別の切り抜きには『捜索――』という文字だけが残されていたが、その後に続く内容は跡形もなく消えていた。 敏昌は無意識にページをめくる手を止めた。 偶然とは思えない。 誰かが必要な部分だけを意図的に抜き取ったようにしか見えなかった。 資料室の静けさが急に気になり始める。 先ほどまでは気にも留めていなかったが、この建物の中は妙なほど音がない。外から聞こえてくるはずの鳥の声も風の音もほとんど届かず、聞こえるのは古い蛍光灯の微かな唸りだけだった。 敏昌はゆっくり顔を上げた。 薄暗い室内には自分しかいない。 それは目で見れば確かな事実だった。 だが、それにもかかわらず、背後に誰かが立っているような感覚が消えない。 視線を感じる。 首筋の産毛が逆立つような、不快な気配だった。 敏昌は意を決して振り返った。 そこには誰もいなかった。 古びた書棚が並び、その奥に薄暗い壁が見えているだけである。人の姿はもちろん、動いた形跡すらない。 自分が神経質になっているだけだ。 そう言い聞かせながら再び資料へ視線を戻した。 次に手に取ったのは住民台帳の写しだった。年代ごとに整理された分厚い冊子で、紙は茶色く変色し、角は何度もめくられたせいで丸く擦り減っている。 敏昌は一ページずつ確認していった。 その途中で、ある名前が目に留まる。 川平宗一。 祖父の名前だった。 思わず指先が止まった。 死亡記録や家族構成が記載されている欄に目を通していく。しかし読み進めるうちに、何とも言えない違和感が胸の奥に生まれた。 母の名前がある。 祖母の名前もある。 ところが、その並び方が妙だった。 文字の配置が不自然なのである。 本来ならもう一人名前が入っていてもおかしくない余白が存在していた。 空欄ではない。 最初から記載されていなかったとも思えない。 まるで誰か一人だけが後から消されたような違和感だった。 敏昌は冊子を持ち上げ、窓から差し込む薄い光にかざした。 すると、その部分だけ紙の繊維が僅かに荒れていることに気づく。 削られている。 そうとしか思えなかった。 誰かの名前が、意図的に消されている。 その事実に気づいた瞬間だった。 「何を調べとる」 突然、背後から声が響いた。 敏昌は思わず肩を跳ね上げた。勢いよく振り返った拍子に椅子の脚が床を擦り、不快な音を立てる。 入口のところに老人が立っていた。 昨日から何度も見かけている老人だった。 痩せ細った身体を杖で支え、深い皺に覆われた顔でこちらを見つめている。濁った瞳には妙な光沢があり、薄く開いた口の奥から黄ばんだ歯が覗いていた。 敏昌は戸口へ目を向けた。 引き戸は閉まったままだった。 開く音など聞こえなかった。 それなのに、老人はいつの間にかそこに立っている。 「少し昔のことを調べているだけです」 そう答えると、老人は何も言わずゆっくり歩み寄ってきた。 不思議なほど足音がしない。 古い床板なら多少は軋むはずなのに、老人の歩みだけが音を立てない。まるで人間ではなく、影そのものが床の上を滑ってくるようだった。 「昔のことは掘り返さん方がいい」 やがて老人は低い声で言った。 「どうしてです」 敏昌が問い返すと、老人は少しの間黙り込んだ後、小さく息を吐いた。 「消えたものには理由がある」 その言葉にははっきりと震えが混じっていた。 怯えている。 敏昌にはそう見えた。 名簿を指差しながら尋ねる。 「これ、誰か消されてませんか」 老人はすぐには答えなかった。 ただ名簿を見つめている。 その表情が徐々に強張っていくのがわかった。 血の気が引き、深い皺の刻まれた頬が微かに痙攣している。濁った瞳は名簿の一点に釘付けになり、まるで見てはいけないものを見てしまったような顔だった。 やがて老人は唇を震わせながら呟く。 「……まだ残っとったか」 その声はほとんど独り言だった。 敏昌が聞き返そうとした時には、老人はすでに口を閉ざしていた。 代わりに節くれ立った手を伸ばし、名簿の上へ静かに置く。 骨ばった指先は青白く、血の気がない。その手は触れなくても冷たさが伝わってくるようだった。 「帰れ」 老人は短く言った。 「暗くなる前に帰れ」 敏昌は反射的に窓の外へ目を向ける。 まだ昼過ぎのはずだった。 しかし空はいつの間にか厚い雲に覆われている。山の向こうから伸びた影が少しずつ村を飲み込み始め、景色全体が灰色に沈みつつあった。 老人もまた窓の外を見ていた。 その目には、ただ天気を気にしているだけでは説明できない緊張が浮かんでいる。 何かを警戒している。 それだけははっきりと伝わってきた。 敏昌は再び名簿へ視線を落とした。 消された名前。 切り取られた新聞記事。 記録から消された人々。 それらは単なる偶然ではない。誰かが意図的に痕跡を消し去り、その事実を村人たち全員が知っている。 だが、なぜ消したのか。 何を隠そうとしているのか。 その答えだけは、まだ闇の中だった。 その時、不意に昨夜聞いた声が脳裏によみがえる。 ――おいで。 湿った囁きが耳の奥で再生された気がして、敏昌は無意識に窓の外へ目を向けた。 曇天の下、遠くの山々は黒い影のように沈んでいる。 その稜線のどこかから、誰かがこちらを見ているような気がした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.06.11 15:52:23
コメント(0) | コメントを書く
[小説] カテゴリの最新記事
|