|
カテゴリ:小説
![]() 第6章:呼ばれる者 資料室を出た時には、空はすっかり曇っていた。 昼過ぎのはずだったが、頭上には重たい雲が垂れ込め、山々の稜線は黒く沈み込んでいる。村全体が灰色の膜に覆われたようで、わずか数時間前まで感じていた生活の気配も薄れていた。農道には人影がなく、遠くの田畑にも作業をしている姿はほとんど見えない。 敏昌は歩きながら何度も資料室で見つけた記録を思い返していた。 切り取られた新聞記事。 削り取られた名前。 そして祖父の家族構成に残されていた不自然な空白。 どれも単なる経年劣化では説明できない。誰かが意図的に痕跡を消したとしか思えなかった。 問題は、その理由だった。 過去の事件を隠したいのか。 失踪者の存在をなかったことにしたいのか。 あるいは、この村には外部の人間に知られてはならない何かがあるのか。 考えれば考えるほど昨夜の出来事が脳裏に浮かぶ。 窓の外から聞こえた声。 森の奥に立っていた人影。 そして、窓を閉めた後に現れた白い指。 あの時は恐怖で頭が回らなかった。しかし冷静になって振り返れば振り返るほど、不自然な点ばかりが増えていく。 人影は森の奥にいた。 それなのに、なぜ窓ガラスを叩けたのか。 どう考えても距離が合わない。 現実ならあり得ない。 だからこそ不気味だった。 敏昌は理屈を重んじる人間だった。職業柄、原因のない現象など存在しないと考えている。だが、この村へ来てから目にするものは、その考え方を少しずつ侵食していた。 説明できないものが確かに存在している。 認めたくはなかったが、その感覚だけは日に日に強くなっていた。 農道へ差しかかった時だった。 畑の中で作業をしている老婆の姿が目に入る。 小柄な身体を折り曲げるようにして鍬を握っている。腰は大きく曲がり、背中は丸く盛り上がり、白髪は風に乱れていた。日に焼けた首筋には幾重にも皺が刻まれ、その顔は古い木の皮のように乾いて見える。 敏昌が近づくと、老婆はゆっくりと顔を上げた。 その瞬間、敏昌は足を止める。 また同じだった。 村へ来てから何度も向けられている視線。 恐怖。 憐れみ。 そして諦め。 まるで死刑を宣告された人間を見るような目だった。 敏昌は胸の奥に冷たいものが落ちていくのを感じながら声を掛けた。 「すみません。少し聞きたいことがあるんですが」 老婆はすぐには返事をしなかった。 皺だらけの顔を微かに強張らせたまま、敏昌の顔を見つめている。その濁った瞳には警戒と怯えが入り混じっていた。 畑の脇では竹林が風に揺れ、乾いた葉が擦れ合う音を立てている。 しゃり、しゃり、と何かを削るような音だった。 敏昌は周囲を見回した。 誰もいない。 だが、誰かに見られているような落ち着かない感覚だけが消えなかった。 「この村で、人がいなくなることがあるんですか」 その言葉を聞いた瞬間だった。 老婆の表情がはっきりと変わった。 鍬を握る指に力が入り、節くれ立った関節が白く浮かび上がる。乾いた唇が微かに震え、濁った瞳が周囲を忙しなく見回した。 まるで誰かに聞かれることを恐れているようだった。 やがて老婆は小さく呟く。 「消えるんじゃない」 「え?」 「呼ばれるんだ」 敏昌の背筋を冷たいものが走った。 昨夜、祖父の家で聞いた声が鮮明に脳裏へ蘇る。暗闇の向こうから聞こえてきた自分の名を呼ぶ囁きは、今思い返しても不自然なほど近かった。窓の外から聞こえたはずなのに、まるで耳元へ直接吹き込まれたような生々しさがあり、その記憶を思い出しただけで首筋の産毛が逆立つ。 老婆はそんな敏昌の反応に気づいているのかいないのか、視線を落としたまま低い声で続けた。 「昔からだ。この村には呼ばれる者が出る」 「誰に呼ばれるんです」 敏昌が問い返すと、老婆はすぐには答えなかった。一度だけ周囲へ目を向け、それから慎重に言葉を選ぶような間を置いた後、小さく首を横へ振る。 「知らん」 あまりにも素早い否定だった。 本当に知らない人間ならば、そこまで即座に答えるだろうか。むしろ何かを知っているからこそ、それ以上話したくないように見える。 敏昌は胸の内に生まれた違和感を押し殺しながら、さらに踏み込んだ。 「呼ばれた人は、どうなるんですか」 老婆は返事をしなかった。 畑の上を吹き抜ける風が稲穂を揺らし、竹林の葉が擦れ合う音だけが二人の間を満たしている。その沈黙は数秒だったはずだが、敏昌にはひどく長く感じられた。 やがて老婆は遠くの山へ目を向けた。 曇天の下に黒く沈む稜線は、この村のどこからでも見える。密集した木々が斜面を覆い、その奥には昼間でも光の届かない闇が広がっているように見えた。 老婆はその山を見つめたまま、絞り出すような声で言った。 「戻らん」 たった一言だった。 だが、その言葉には妙な重みがあった。単なる噂話や迷信を語る調子ではない。何十年も積み重ねられた事実を、諦めと共に受け入れている人間の声だった。 「失踪するということですか」 敏昌が問い返すと、老婆はゆっくり首を振る。 「違う」 掠れた声だった。 「失踪じゃない」 老婆の目は山から離れない。 黒く沈む森を見つめながら、まるで思い出したくない記憶を無理やり口にしているような表情を浮かべていた。 「連れて行かれるんだ」 敏昌は言葉を失った。 理屈では否定したかった。そんな話があるはずがない。だが昨夜、自分が体験した出来事を思い出すと、簡単に笑い飛ばすこともできない。 老婆は鍬を握る手を震わせながら続けた。 「わしが子供の頃もおった。隣の家の兄ちゃんだった」 遠い記憶を辿るような声だった。 「夜になると名前を呼ぶ声が聞こえるようになった」 敏昌の胸が大きく脈打つ。 まるで自分の話を聞かされているようだった。 「最初は誰も信じんかった。夢だろうと言われたし、気のせいだとも言われた」 老婆は一度言葉を切り、乾いた唇を舌で湿らせた。 「だが毎晩聞こえるようになった。昼間でも山ばかり見るようになってな。話をしていても急に黙るし、誰かの声に耳を澄ませているような顔をするようになった」 そこまで話した時、老婆の声には今も消えていない恐怖が滲んでいた。 何十年も前の出来事であるはずなのに、その記憶だけは風化していないらしい。 「そしてある朝、いなくなった」 敏昌は無意識に拳を握り締めていた。 「見つからなかったんですか」 「見つからん」 老婆は首を振る。 「服も骨も何もなかった」 その答えを聞いた瞬間、敏昌の胸の奥へ重い石を落とされたような感覚が広がった。 これは怪談ではない。 少なくとも、この村の人間たちは本気で信じている。 しかも一人や二人の話ではなく、何十年も前から繰り返されてきた出来事として受け入れている。 その事実こそが、敏昌には何より恐ろしく思えた。 その時だった。 山の方角から、腹の底へ沈み込むような重い鐘の音が響いた。 ――ごうん。 寺の鐘にも似ていたが、どこか違う。金属音というより巨大な空洞そのものが唸っているような、不気味な響きだった。音は山肌にぶつかって反響しながら村全体へ広がり、曇天の下に沈んでいた空気を震わせていく。 敏昌は思わず山の方へ目を向けた。 すると異変は、鐘の音そのものではなく、それを聞いた村人たちの反応にあった。 農道の向こうを歩いていた中年の男が足を止める。遠くの軒先で農具を手入れしていた老人も作業の手を止め、ゆっくりと顔を上げた。畑の向こうで立ち話をしていた二人の女性も会話を途中で切り上げ、同じ方向を見つめている。 誰も喋らない。 誰一人として。 まるで村全体が示し合わせたように沈黙し、黒く沈む山を見上げていた。 その光景に、敏昌は言いようのない不気味さを覚えた。 もし鐘が火事や災害を知らせる合図なら、誰かが理由を口にするはずだ。しかし誰も何も説明しない。ただ鐘の音を聞き、そして諦めたような顔で山を見つめている。 それは警戒というより、覚悟に近い表情だった。 まるで避けられない何かが始まったことを悟った人間たちの顔だった。 敏昌が再び隣の老婆へ視線を戻すと、その顔は先ほどまでとは比べ物にならないほど青ざめていた。 深い皺の刻まれた頬から血の気が失せ、濁った瞳は怯えたように揺れている。鍬を握る節くれ立った指先にも力が入らなくなっているのか、小刻みに震えていた。 老婆は山を見たまま、誰に聞かせるでもなく呟いた。 「今年だったか……」 その声はひどく弱々しかった。 敏昌は眉をひそめる。 「何がです」 問い掛けても、老婆はすぐには答えなかった。 まるで言葉にすること自体が禁忌であるかのように唇を閉ざし、長い時間を掛けて呼吸を整えている。 やがて、ゆっくりと敏昌へ顔を向けた。 その瞳には、隠そうとしても隠し切れない恐怖が浮かんでいた。 そして震える唇がようやく動く。 「次の呼ばれる者が――」 その瞬間だった。 ――敏昌。 耳元で声がした。 あまりにも近かった。 風に乗って聞こえたのではない。 遠くから響いたのでもない。 まるで真後ろに立った誰かが、耳に口を寄せて囁いたとしか思えない距離だった。 湿った喉の奥から無理やり絞り出したような声。 男とも女ともつかない掠れた響き。 昨夜、祖父の家で聞いたものとまったく同じだった。 敏昌の全身から一気に血の気が引いた。 反射的に振り返る。 だが、そこには誰もいなかった。 農道が真っ直ぐ続いているだけだった。 風に揺れる田んぼ。 灰色の空。 電線に並ぶ数羽の烏。 遠くに見える民家。 人影はどこにもない。 それでも敏昌の心臓は激しく脈打っていた。 聞き間違いではない。 昨夜と同じ声だった。 しかも昨夜より鮮明だった。 声の質も、湿った息遣いのような気配も、そのすべてが生々しく耳に残っている。 理屈では説明できなかった。 幻聴だと言い聞かせようとしても、自分自身が納得できない。 あまりにもはっきり聞こえすぎていた。 敏昌はゆっくりと老婆へ視線を戻した。 すると老婆は山を見つめたまま、まるで何かを確信したような顔をしていた。 皺の奥には汗が滲み、青白い頬が小刻みに震えている。 その様子は、敏昌よりもむしろ老婆自身の方が強い恐怖を感じているように見えた。 「どうしたんですか」 敏昌が声を掛けると、老婆はしばらく口を開かなかった。 やがて乾いた唇を震わせながら、小さく呟く。 「もう聞こえ始めたんか……」 敏昌の胸が大きく脈打った。 昨夜の出来事は誰にも話していない。 窓の外から名前を呼ばれたことも。 森の中に立つ人影を見たことも。 何一つ口にしていない。 それなのに、この老婆は知っている。 自分が何を聞いたのかを。 そして、その声が何を意味するのかも。 「何のことです」 敏昌は思わず問い詰めた。 しかし老婆は首を振るだけだった。 濁った瞳を伏せ、これ以上は何も話すまいとするように。 「帰れ」 掠れた声が漏れる。 「今夜は外を見るな」 それだけだった。 だが、その言葉には切実な恐怖が込められていた。 敏昌は気付く。 怯えているのは自分だけではない。 目の前の老婆もまた、本気で何かを恐れているのだ。 長年この村で生きてきた人間が、今なお震えるほどの何かを。 その事実が、どんな怪談よりも不気味だった。 敏昌は無意識のうちに山を見上げる。 曇天の下、深い森が黒い塊となって横たわっている。 もちろん人影など見えない。 だが、それでも視線だけは感じた。 木々の奥の見えない闇の中から、誰かがじっとこちらを見下ろしているような感覚が消えない。 錯覚だと思いたかった。 しかし振り払おうとするほど、その感覚は濃くなっていく。 その時、再び鐘が鳴った。 ――ごうん。 重たい音が山々を渡り、曇った空の下へゆっくりと広がっていく。 敏昌は思わず身を強張らせた。 理由は分からない。 だが、その音を聞いた瞬間、胸の奥に説明のつかない恐怖が込み上げてきた。 まるであの鐘が村全体へ向けて鳴らされているのではなく、自分一人へ向けて鳴らされているかのように思えたのである。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026.06.26 14:44:06
コメント(0) | コメントを書く
[小説] カテゴリの最新記事
|