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呼ばれた者は戻らない|川平敏昌のホラー小説

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2026.07.08
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カテゴリ:小説



第7章 次はお前だ

老婆と別れた後も、敏昌の胸には嫌なざわつきが残っていた。

 「呼ばれる者」という言葉と、耳元で囁かれた自分の名前。その二つが頭の中で何度も繰り返され、足取りは自然と重くなる。

 村へ戻る道は静かだった。昼間にもかかわらず人影は少なく、畑で農作業をしていた者たちも、どこか落ち着かない様子で空や山の方角を気にしている。曇天に覆われた空はさらに暗さを増し、吹き抜ける風が稲を揺らすたび、葉が擦れ合う乾いた音だけが耳に残った。

 祖父の家へ戻る途中、敏昌は村で唯一と思われる小さな商店の前で足を止めた。色褪せた看板を掲げた木造の店は、壁板のあちこちが日に焼け、軒先には野菜や缶詰が無造作に並べられている。営業している気配はあるものの、客の姿はなく、店内からも生活音らしいものは聞こえてこない。

 引き戸を開けると、頭上の小さな鈴が乾いた音を鳴らした。その音に応えるように店の奥から現れたのは、六十代半ばほどの店主だった。痩せ細った身体に色褪せた作業着をまとい、頬はこけ、白く伸びた無精髭が口元を覆っている。細い目は穏やかそうに見えたが、その奥には寝不足が続いた人間のような暗い疲労が滲んでいた。

 敏昌が飲み物を手に取って会計へ向かうと、店主は釣り銭を用意しながら「見ない顔だな。帰省かい」と何気なく尋ねた。

 「祖父が亡くなりまして」

 その一言を聞いた途端、店主の手がぴたりと止まった。わずかに目を見開いたあと、「……そうか」とだけ返し、それ以上の言葉は続かない。重苦しい沈黙の中で会計を済ませようと財布を取り出した時、店主は敏昌の顔をじっと見つめながら、低い声で呟いた。

 「川平さんの家か」

 「ええ」

 返事をすると、店主は釣り銭を渡す手を止めたまま、まるで何かを見極めるような目で敏昌を見つめ続けた。その視線には好奇心はなく、覚悟を決めかねているような迷いだけが浮かんでいる。やがて小さく息を吐き、「そうか……」と独り言のように漏らしたが、それ以上は何も語らなかった。

 店を出ようとした敏昌の背中へ、「夜は出歩かん方がええ」と低い声が投げ掛けられる。振り返ると、店主は帳簿へ目を落としたままで視線を合わせようとしない。

 「昨日も同じことを言われました。何があるんです」

 敏昌が尋ねても、店主はしばらく黙ったまま動かなかった。やがてゆっくり首を横へ振ると、「知る必要はない」と静かに答える。

 「でも……」

 食い下がろうとした敏昌の言葉を遮るように、店主は苦々しく呟いた。

 「知らん方が長生きできる」

 その声音には冗談めいた軽さは一切なく、本気で忠告していることだけが伝わってきた。敏昌はそれ以上問い詰めることができず、礼だけ言って店を後にする。

 数十メートルほど歩いたところで、背中に視線を感じて振り返ると、店主は店先へ出たまま、まだこちらを見送っていた。先ほどまでの無表情は消え、そこには死人を見送る者だけが浮かべる、諦めと憐憫の入り混じった暗い表情があった。

 嫌な胸騒ぎを抱えたまま歩いていると、道端で三人の村人が立ち話をしているのが目に入った。七十代ほどの老人と、五十代くらいの夫婦らしき男女である。敏昌が近づいた瞬間、それまで交わしていた会話は不自然なほどきれいに途切れ、三人の視線が一斉にこちらへ向けられた。

 老人は深い皺に覆われた顔をゆっくり持ち上げ、濁った瞳で敏昌を見つめる。その眼差しには敵意も警戒もなく、長年どうにもならない現実を見続けてきた人間だけが持つ諦めが宿っていた。

 「こんにちは」

 敏昌が挨拶をしても返事はない。三人は互いに顔を見合わせ、小さく頷き合うだけだった。その様子は、言葉にしなくても同じ結論へ辿り着いている者同士のように見えた。

 やがて老人が口を開く。

 「川平さんとこの孫か」

 「はい」

 老人は敏昌の返事を聞くと、小さく目を伏せ、「帰って来ん方が良かった」と静かに言った。

 責めるような言い方ではない。むしろ、本気でそう願っていた人間が漏らした言葉だった。

 「どういう意味ですか」

 敏昌が問い返しても老人は答えず、代わりに隣に立つ女性が青ざめた顔で敏昌の左手首を見つめていた。何かが見えているような目だった。

 敏昌も思わず自分の腕を見る。しかし袖口から覗く手首には傷一つなく、変わった様子は何もない。

 「……もう見えとる」

 女性は唇を震わせながら呟いた。

 「何が見えているんですか」

 問い掛けた途端、女性は口元を押さえ、それ以上何も言えなくなる。隣の男は慌てて女性の肩を抱き寄せ、「言うな」と低く制した。その短い一言だけで、女性は怯え切った表情のまま俯いてしまった。

 老人はゆっくり敏昌へ歩み寄る。節くれ立った指先を伸ばしかけたが、何かを恐れるように途中で止め、そのまま静かに手を下ろした。

 「まだ間に合うと思っとったんだがな」

 独り言のようなその呟きに、敏昌は思わず聞き返した。

 「何が間に合うんです」

 老人は答えず、黒く沈んだ山並みへ目を向ける。敏昌もつられて視線を向けると、風もないはずなのに森の梢だけがゆっくりと揺れ、不気味な波のように暗い緑がうねっていた。

 老人はその山を見据えたまま、小さく息を吐く。

 「今年は別の者だと思っとった」

 その言葉に敏昌の胸がざわつく。

 「別の者?」

 老人は首を横に振るだけで説明はしなかった。そして再び敏昌へ視線を戻すと、諦め切ったような顔で静かに告げる。

 「今年は、お前だったか」

 その一言を境に、三人は申し合わせたように敏昌から一歩距離を取った。女性は俯いたまま肩を震わせ、男も目を合わせようとしない。老人だけが静かに頭を下げ、「すまん」と短く告げると、三人は振り返ることなく足早に去っていった。

 取り残された敏昌は、その場でしばらく動くことができなかった。吹き抜けた風が枯れ葉を転がしていく音だけが、やけに大きく耳へ届く。

 村へ来てから出会った人々は皆、同じような反応を見せていた。何かを知っているにもかかわらず口を閉ざし、自分を見るたび恐れと憐れみを浮かべる。そして今、初めて「今年は、お前だったか」と明確に告げられた。

 昨夜から続く出来事は、もはや偶然では説明できない。夜毎に聞こえる名前を呼ぶ声も、村人たちの異様な態度も、「呼ばれる者」という風習も、すべてが一つの方向を指し示している。

 ――呼ばれる者は、自分なのではないか。

 その考えが頭に浮かんだ瞬間、敏昌は無意識に山を見上げた。曇天の下、深い森は昼間とは思えないほど黒く沈み、何も語ることなく村を見下ろしている。しかし、その奥の誰も踏み込めない闇の中には、自分を待ち続けている何かが確かに息を潜めているような気がしてならなかった。





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最終更新日  2026.07.08 16:00:47
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