第8章 逃げ場のない村
「今年は、お前だったか」 老人に告げられたその一言は、村を離れようと歩き始めた後も川平敏昌の頭から消えなかった。祖父の家へ戻る途中、彼は昨夜から起きた出来事を一つずつ思い返す。夜ごとに聞こえる自分の名を呼ぶ声、資料室で見つけた不自然に消された記録、誰もが口を閉ざす村の風習、そして「呼ばれる者は戻らない」という言葉。それらは最初こそ無関係な出来事に思えたが、今ではすべてが自分へ向かって収束しているようにしか感じられなかった。 もし村人たちの言葉が本当なら、このまま村に留まること自体が危険なのではないか。そう考えた敏昌は、祖父の家へ戻るのをやめ、そのまま駅のある町へ続く一本道へ向かうことにした。村を出てしまえば、いくら不可解な風習があろうと関係なくなる。迷信に振り回される必要もない。その考えだけを支えに、彼は歩幅を速めた。 村外れへ続く舗装路には人影がなく、道路脇の用水路を流れる水音だけが静かに響いていた。両脇には田畑が広がり、その向こうには低い山並みが黒く横たわっている。昼間のはずなのに厚い雲が空を覆い、景色全体が夕暮れ前のように色を失っていた。 十分ほど歩いたところで、敏昌は足を止める。 目の前に立っていたのは、表面の塗装が剥げ、根元を雑草に囲まれた古い円柱形の郵便ポストだった。向かいには瓦屋根の空き家があり、折れた雨樋が垂れ下がっている。その隣には朽ちかけた納屋まで建っていた。 どこかで見た景色だった。 いや、見覚えがあるどころではない。商店へ向かう途中、確かに通り過ぎた場所そのものだった。 道を間違えたのだろうかと思い、敏昌はスマートフォンで地図を開こうとした。しかし画面には相変わらず「圏外」の表示があるだけで、地図は読み込まれない。仕方なく、今度は分かれ道のたびに周囲の景色を確認しながら慎重に歩き直した。橋を渡り、神社の脇を抜け、竹林へ続く細い農道へ入り、さっきとは違う道を選んでいることを何度も確かめる。 それでも十五分ほど歩き続けた末に現れたのは、先ほどと寸分違わぬ赤い郵便ポストだった。 敏昌は立ち尽くしたまま周囲を見回す。雑草の生え方も、空き家の傾き具合も、納屋の壊れた戸板まで何一つ変わらない。一本道を進んでいたはずなのに、出発した場所へ戻ってきてしまったとしか考えられなかった。 冷静になろうと深呼吸を繰り返し、歩いてきた道順を頭の中で整理する。しかし何度思い返しても、同じ場所へ戻るような歩き方はしていない。橋も神社も竹林も、間違いなく別々の場所を通ってきたはずだった。 偶然だと言い聞かせながら、敏昌はさらに歩き続けた。 今度は細い農道を抜けて小川に架かる木橋を渡り、その先の坂道を登る。途中で見つけた脇道にも入り、目につく道を片端から進んだが、景色は少しずつ見覚えのあるものへ変わっていく。そして最後には決まって、あの郵便ポストの前へ戻ってしまう。 三度目に同じ場所へ辿り着いた頃には、額から流れた汗が首筋を伝い、息もすっかり乱れていた。足には疲労が溜まっている。それだけ歩いたにもかかわらず、村の外へは一歩も近づけていない。 敏昌は郵便ポストへ手をついた。掌に伝わる冷たい鉄の感触だけが現実だった。 夢ではない。 幻覚でもない。 その時、不意に背後から落ち着いた男の声が聞こえた。 「出られんよ」 振り返ると、畑の畦道に七十代ほどの老人が立っていた。藍色の作業着に鍬を担ぎ、日に焼けた顔には深い皺が幾重にも刻まれている。畑仕事の途中だったのだろうが、その視線は最初から敏昌がここへ戻って来ることを知っていたように静かだった。 「あなたは……何を知っているんですか」 敏昌が問い掛けると、老人は鍬を肩から下ろし、静かに首を横へ振った。 「みんな最初は逃げようとする。わしも何度も見てきた」 「どういう意味です」 「呼ばれた者は、村から出られん」 老人は当たり前の事実を語るような口調で続けた。 「道は繋がらなくなる。どこへ向かって歩いても、結局は村へ戻される。それが昔から続いとる」 敏昌は思わず声を荒らげた。 「そんな馬鹿な話、信じられるわけがないでしょう」 老人は怒るでも笑うでもなく、小さく頷いただけだった。 「最初は皆そう言う」 その短い返事には、不思議な説得力があった。同じ言葉を何度も繰り返してきた人間だけが持つ諦めが滲んでいたのである。 敏昌は老人の脇をすり抜けるように走り出した。もう誰の話も聞きたくなかった。自分の足で確かめなければ納得できない。 だが結果は変わらない。 舗装路を走れば竹林へ入り、竹林を抜ければ田畑へ出る。田畑を抜ければ見覚えのある民家が現れ、その先には祖父の家へ続く坂道が待っている。道順は違うのに、辿り着く場所だけは毎回同じだった。 何度目かの繰り返しの末、敏昌は坂道の途中で立ち止まり、肩で荒い息をついた。 もう道がおかしいのではない。 閉じ込められているのは、自分だけなのだ。 そう認めた瞬間、山の方から冷たい風が吹き下ろしてきた。森の木々が一斉にざわめき、その奥から誰かが静かに息を吐いたような音が聞こえた気がして、敏昌は反射的に山を見上げる。 鬱蒼とした木立の間に人影はない。 それでも、誰かがこちらを見つめているという感覚だけは消えなかった。 村全体が、自分を山へ向かわせようとしている。 そんな考えが頭をよぎった瞬間、敏昌は初めて、自分にはもう逃げ場が残されていないのではないかという現実を、はっきりと恐れるようになった。