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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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説教「よき世界」

「よき世界」(学生寮説教)


創世記1章
1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。
  見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

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 日が沈み、静かな夜となりました。夜は、暗い。暗さは、視界を遮るものです。人は、視界を遮られると、却って何かが見えてくるもの。目をつぶり、心を静めると、思索は深いところへと進み行く。自分自身の本当の姿、あるいは、今日起こった事柄の本当の意味、あるいは、今生きているということの不思議さ。そうした事柄は、静かな夜にこそ、あるいは闇の中にこそ、見えてくるものだと思います。

 中世のヨーロッパで、修道院が盛んであったころ、夜を徹して神を賛美する歌が流れたと言います。夜は、神秘ということを思い出す時でもある。今、私たちは静かな時間に、何を、思いましょうか。

 今日は、旧約聖書の最初の箇所を開きました。「初めに、神は天地を創造された。」天地創造の神話物語の冒頭、有名な一節です。そして、今日は特別に、創世記一章の最後の箇所をお読みいただきました。作られたすべてのもの、すなわち「天地」は、「極めて良かった」と、あります。

 私たちは、ここで立ち止まります。静かに闇の中に眼を凝らす私たちは、この言葉とは正反対の世界の姿を、思い出すのではないでしょうか。今日も、世界には餓死する人がいる。一日に四万人が、食べ物がないために死んでゆく。今日も、戦争で殺される人がいる。統計が取れないほどに、深刻な現実。そして、今日も、自ら命を絶つ人が、この国、私たちの国に、いる。日本では、一日に100人ほどの人が、自殺しているのだそうです。そして、今日、私はどれだけ理不尽な目にあったか。あるいは、今日、どれだけ私は人を憎んだか。

 静かな闇の中で思いを巡らすとき、“この世界は「極めて良かった」”と言われても、ほんとかな?と思います。この神話物語は、少々、楽観的過ぎはしないか、と。

 でも、少し丁寧にこの神話物語を読んでみましょう。少し、様子が変わってくるかも知れません。

 この世界を創り出す、という神話物語。その最初は、何であるか。神様が最初に創ったものは、何であったか。聖書(創世記1章3節)によると、それは「光」であると言います。

 ということは、最初、「光」はなかったのです。世界の最初、そこには「闇」しかなかった。そこに、新しく、「光」が作られた。そして、聖書は語ります。「神は光を見て、良しとされた。」

 世界は最初から「良い」ものではなかった、ということでしょうか。とにかく、「この世界は極めて良かった」という結論に辿りつく最初の一歩は、「闇の中の光」の創造であった。このことは覚えておいてよいことだと思います。

 「光」ができたことで、世界には「時」あるいは「時間」が生まれます。つまり、「夕べがあり、朝があった」ということです(5節)。ここで、重要なのは、「時」「時間」を刻むものの順番です。「夕べがあり、朝があった」。まず夜があり、そして昼間がある。最初に夕方があり、そのあとに朝が来る。これが、古代の時間の感覚だったということです。最初に闇があった。そこに光が作られて、時間が生まれた。だから、一日は夜に始まり、朝へと進む。

 天地創造の神話物語は、「闇の中の光」を語った後に、次の段階へと進みます。最初、「光」によって「時間」が生まれる。そして、この「時間」の流れの中に、「空間」が形作られる。「天」が切り分けられ、「場所」というものが生まれる。それが、天地創造における、二番目の出来事です。

 でも、ここで注目しておきたいことがあります。空間、あるいは場所が生まれたとき、神はそれを見て「よい」と言わなかった、ということです。これは、特別なことです。

 通常、神話は、リズムをもって語られます。天地創造の神話物語も、リズムを持っている。(1)神が言葉を発し、(2)何かが生れ、そして、(3)神がそれを「よい」と宣言する。そして、(4)「こうして、夕べがあり、朝があった」。これが、一つのリズムになっています。そしてその集大成として、1章の最後の言葉、「それ(つまりこの世界)は極めて良かった」というクライマックスへと至る。そういうリズムが、聖書の創聖物語のリズムなのです。

 しかし、第二の創造、空間の誕生という場面で、このリズムは壊されている。神は、「天」を切り分け、「空間」を作り出しますが、それを「よい」とは言わない。ただ、それはそこにあって、時間が流れて行くだけ。8節に、「夕べがあり、朝があった。第二の日である」と語られるとおりです。
神は、自分で作り出した「空間」を指して、よいとも悪いとも語らない。ただ、「その空間」に、様々なものを創り出す。そして、そのたびに「神はこれを見て良しとされた」と語られる。ここには、深い意味が読み取れます。

 時間は、常に、よいものだということ。私たちは、しばしば、時間を敵に回し、時間を憎んで過ごします。いついつまでにコレコレをしなくては・・・もうこんな時間だ・・・ああ忙しい、うまくいかない、悔しい・・・こうして、時間と戦い、時間を敵に回し、時間を憎んで暮らしがちです。そして、私たちは疲れてしまう。

 でも、聖書はその冒頭で語ります。時間は、良いものだ。時間は、よいものだ。聖書は語るのです。「よいもの」としての時間が、ただそこにある空間を、満たしている。 
そして、聖書の神様は、この「空間」に命をあふれさせます。溢れるようにいのちに賑わう世界を見て、神様は結論付ける――「それは極めて良かった!」

 最初に、闇がある。でも、闇は光の前に姿を消す。時間は、常に、私たちの味方です。どんな苦しい状況も、永遠には続かない。どんな深い闇も、いつか、朝焼けと共に消え去って行く。「時間」は、私たちの希望です。

 その「時間」の中で、私たちは何をするのでしょうか。私たちも、神様と一緒に、この空間に命を賑わせること。私たちには、それができる。そう思います。なぜでしょうか?聖書は、こう語るのです。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(27節)人間は、神のカタチである!そのことを、聖書は強調している。このことを覚えましょう。

 人間は、皆、泣きながら生まれ出てきます。しかし、人間はみな、親や周囲の人に笑顔を教わる。笑顔を、与えられる。そして、人間の命は輝きだします。最初に涙がありますが、あとには笑顔がある。そして、私たちは、その笑顔、人に与えられた笑顔を、今度は、隣人に分け与えることができる。そうやって、私たちは、この世界に命の賑わいを与えることができる。時間を味方にして。

 静かな夜、ひと時、世の初めの物語について、思いを寄せました。また朝が来ます。その時、私たちは挨拶をする。おはよう。今日もあなたに会えてうれしい。その言葉が、世界を輝かせます。この寮を、輝かせます。私たちの生きる世間の空気を、輝かせます。その輝きの先にだけ、この世界という空間は、よいものとなり得る。そのことを覚えて、ひとつ、讃美歌を歌いたいと思います。夜を徹して神への賛美を響かせた、中世の修道会。その夜の味わいを、思い出しながら。

         世のはじめ さしいでし みひかりを あびつつ
         あたらしき あめつちの いとなみに あずからん。


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