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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

説教「正義」

8月17日 仙台市民教会説教 「正義」

詩篇94編

主よ、報復の神として
報復の神として顕現し
全地の裁き手として立ち上がり
誇る者を罰してください。
主よ、逆らう者はいつまで
逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。
彼らは驕った言葉を吐き続け
悪を行う者は皆、傲慢に語ります。
主よ、彼らはあなたの民を砕き
あなたの嗣業を苦しめています。
やもめや寄留の民を殺し
みなしごを虐殺します。
そして、彼らは言います
「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。
民の愚かな者よ、気づくがよい。
無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
目を造った方に見えないとでもいうのか。
人間に知識を与え、国々を諭す方に
論じることができないとでもいうのか。
主は知っておられる、人間の計らいを
それがいかに空しいかを。

いかに幸いなことでしょう
主よ、あなたに諭され あなたの律法を教えていただく人は。
その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。
神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。
主は御自分の民を決しておろそかになさらず
御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。
正しい裁きは再び確立し
心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。
災いをもたらす者に対して
わたしのために立ち向かい
悪を行う者に対して 
わたしに代わって立つ人があるでしょうか。
主がわたしの助けとなってくださらなければ
わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。
「足がよろめく」とわたしが言ったとき
主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。
わたしの胸が思い煩いに占められたとき
あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました。
破滅をもたらすのみの王座 掟を悪用して労苦を作り出すような者が
 あなたの味方となりえましょうか。
彼らは一団となって神に従う人の命をねらい
神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。
主は必ずわたしのために砦の塔となり
わたしの神は避けどころとなり 岩となってくださいます。
彼らの悪に報い
苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。
わたしたちの神、主よ
彼らを滅ぼし尽くしてください。

*******************

旧約聖書 マラキ書

見よ、その日が来る
炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は
すべてわらのようになる。
到来するその日は、と万軍の主は言われる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。
しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには
義の太陽が昇る。
その翼にはいやす力がある。
あなたたちは牛舎の子牛のように
躍り出て跳び回る。
わたしが備えているその日に
あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。
彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。
わが僕モーセの教えを思い起こせ。
わたしは彼に、全イスラエルのため
ホレブで掟と定めを命じておいた。
見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。
わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。

*******************

新約聖書 マルコによる福音書

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。15:39 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


***************************


 今日は、ご一緒に、歌集『讃美歌21』の18番を歌いました。この歌は、私にとっては思い出深い歌です。この歌には、重大な神学的意味が隠されていると、何度も何度も繰り返し語ってくださった先生のことを、いつも、思い出すからです。

 この讃美歌は、もともと、歌集『讃美歌第二編』の1番でした。そこでは、こう歌われていました。

 心を高くあげよう! 
 主の御声に従い 
 ただ主のみを見上げて 
 心を高く上げよう!


賛美を歌うものが、互いに励まし合って、心を神様の方向にむけようと歌いあう、そんな歌でした。

 先週、私たちは、神様の救いについて考えました。神様は、すべてに先立って、すべてを赦して待っていて下さる。このことは、途方もないことですし、道理に反することですし、あるいは、愚かしくさえある事柄ですが、しかし、それが福音です。神様は、すべての人を、まず先に愛して、赦して、恵んで下さる。だから、私たちは、心を高く上げることができる、はずです。神様が呼びかけて下さる。だから、その神様を見上げて、心を高く上げよう。

 そう考えてみると、『讃美歌第二編』の1番の歌詞は、すばらしい信仰の歌であると言えます。それは、そのとおりなのです。しかし、私の思い出の先生は、この元の歌詞ではだめだと、いつも、言っていました。

 何が、ダメなのでしょうか。

 先生は、こう言っていました。私たちは、この世界の中に生きている。この世界は、どこまでも暗いものだ。そして、私たち自身が、この世界と同じように、暗愚で心許ない。神様の光があったとしても、それを飲み込んでしまうほどに、私たちの世界も、私たち自身も、徹底的に闇の中に沈んでいる。どうして、私たちが互いに励まし合って「心を高く上げよう」などと、言い合えるだろうか。そんなに、この世界も、私たち自身も、お気楽なものではないはずだ。

 それで、この先生は、新しくなった『讃美歌21』の歌詞を褒めます。なぜでしょうか。新しい歌詞は、こう始まるからです。

 心を高く上げよ! 
 主の御声に従い 
 ただ主のみを見上げて 
 心を高く上げよう!


違いが、お分かりでしょうか。最初の言葉が、決定的に違っています。もともとの歌詞は、歌う私たち人間のセリフでした。互いに励まし合う私たちの言葉で、エールの交換がなされるわけです。

 しかし、新しい歌詞は、まったく違います。「心を高く上げよ!」という「主の御声」がある。そのことを、私たちは歌の冒頭に、確認する。そして、その「御声」に従って、私たちは「心を高く上げよう」と、互いに励まし合う。

 いつでも、まず最初に、「主の御声」を確認し合うこと。それが、どれだけ大事か。

 私の思い出の先生は、そのことを、身を以て示してくださいました。

 私の思い出の先生は、パーキンソン症候群を患いました。原因不明の病で、次第次第に身体の自由が利かなくなり、死に至る、難病です。

 だんだんと、体が利かなくなります。最初は杖をついて、お連れ合いに介添えしてもらって、大学まで講義に来てくださいました。しかし、一年後、車いすになりました。そして、遂に病床から出られなくなり、最後は病院で亡くなったのです。

 だんだんと体が利かなくなる中で、先生はいつも元気でした。明るかったのです。そして、おっしゃっていました。体が利かなくなって、分かったことがある。それは、私たちの社会が如何にヒドイものか、ということだ。歩く人のためにあるはずの車が、徹底的にすべてに優先されている。横断歩道はなくなり、歩道橋が建設される。しかし、車いすは、歩道橋を渡れないのだ。そんなことも、車いすに乗るまで、気づかなかった。病の中で、学ぶことがたくさんあります――いつも、そんなふうにして、私たちを励まして下さいました。

 私の思い出の先生は、ものすごい短気な方でした。亡くなる直前まで、学会の大人物を向こうに回して、喧嘩をしていました。でも、この先生はいつも言っていました。この世界には、罪というものはない。絶対に、罪なんてものはない。それは、イエス様によって完全に打ち破られている。ただ、悪がある。車椅子を無視して苦労させる社会があり、人間の身体をむしばんで苦しめる病がある。これは、悪だ。でも、これは、罪ではない。悪を、私たちは見据えなければならない。
 
 私たちは、悪というものを、しばしば簡単に考えすぎるのかも知れません。でも、悪の真っただ中に放り込まれる人がいます。そういう人は、簡単に「心を高く上げよう」とは、言いません。そんなことは言えないほどに、悪というものが、リアリティをもって迫る。いったいどこを見たらそんなお気楽なことが言えるのかと、毒づきたくなる。そういう状況に追い込まれて生きる人が、います。おそらくそうした人々こそ、この世界の本当のところを、つかんでいるのでしょう。

 でも、聖書は言います。光は暗闇の中に輝いている。闇は光に打ち勝たなかった。神様は、この世界の罪を消し去った。神様は、この世界の悪に戦っておられる。「心を高く上げよ」と、今・ここで戦っておられる神さまが、呼びかけてくださる。だから、私たちは、心を高く上げなければならない。そのことを、いつでも、新しく、確認しよう。

 讃美歌21の新しい歌詞の背後に、私たちは、悪の存在を思い浮かべなければなりません。そしてそうする時、私たちは初めて、聖書を真正面から読むことができます。

 今日は、詩篇94編を、ご一緒にお読みしました。

 キリスト教は愛の宗教だと、一般に言われます。それは、たぶん、正しい。ですから、そう聞かされた人がこの詩の言葉を聴くと、きっと、面食らうのだと思います。この詩はこう始まるのです。

 主よ、報復の神として 報復の神として顕現し
 全地の裁き手として立ち上がり 誇る者を罰してください。


恐ろしい、呪いの祈りです。正義は我にあり。敵は悪である。そうした激しい感情が、そこに見出されます。

 でも、詩を読み進めると、すぐに私たちは、その激しい感情の出所に気づかされます。

 彼らは驕った言葉を吐き続け 悪を行う者は皆、傲慢に語ります。
 主よ、彼らはあなたの民を砕き あなたの嗣業を苦しめています。
 やもめや寄留の民を殺し みなしごを虐殺します。
 そして、彼らは言います
 「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。


ここで、「ヤコブの神」という言葉が印象的です。

 「ヤコブの神」とは、何か。聖書を通読する人は知っています。「ヤコブの神」とは、つまり、イスラエルの神であり、それは、奴隷を解放する神である。
 
 古代の世界において、「みなしご」と「やもめ」と「在留外国人」は、本当になんの後ろ盾もない存在です。今の日本でも、「在留外国人」の多くは、「不法滞在者」として人間扱いされません。警察も、福祉も、一切手を貸してくれないのです。そして、これは本当に悲しいしいことですが、そういう最底辺の弱者を、食い物にする人々がいる。奴隷のようにこき使い、役に立たなくなったら、ゴミのように切り捨てる。今の日本でもしばしばみられる光景です。この詩人の怒りは、そうした悪の状況に向けて燃え上がる。そして、この詩篇の作者は言うのです。

 民の愚かな者よ、気づくがよい。
 無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。
 耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。
 目を造った方に見えないとでもいうのか。
 人間に知識を与え、国々を諭す方に 論じることができないとでもいうのか。
 主は知っておられる、人間の計らいを それがいかに空しいかを。


どんなに悪がはびこり、正義が消え去ったように見えたとしても、神様はその状況を見過ごさないのだ。天網恢恢疎にして漏らさず。正義は、必ず立ち上がるはずだ。

 しかし、この詩人の思いは、本当に特別なもの、それこそ、信仰と、呼ぶべきものです。それは、単なる希望や願望ではない。人間の中から湧き上がる程度の思いでは、この詩人の言葉は紡げません。なぜでしょうか。少し後で、この詩人はこう祈るのです。

 破滅をもたらすのみの王座 
 掟を悪用して労苦を作り出すような者が
 あなたの味方となりえましょうか。


これは、何でもないようですが、大変なことです。

 王座は、弱者を食い物にする人々によって占められている。権力は、弱者を食い物にするものの手にある。だから、法律は、いかようにも変えられる。弱者を追い詰める者が得をして豊かになり、社会的にも地位を得、人々から尊敬されるような、そんな世界が、この詩人の前に広がっています。それでも、詩人は絶望しない。全世界がゆがんだとしても、神様はそれと戦ってくださる。そう信じるから、この詩人は燃えるような言葉で詩を詠いあげるのです。

 正義は、おそらく、信仰によってのみ、固く建てられるのでしょう。四面楚歌の只中にあっても、信仰の人は、絶望しない。信仰の炎がその人を照らす。それは、これから来る新しい世界を、今ここの直中で、生きるからです。

 これから来る新しい世界を、「今ここ」の直中で、生きるということ。それは、いったいどういうことでしょうか。

 今日、司式者にお読みいただいたのは、「マラキ書」という書物です。それは、旧約聖書の最後におかれた小さな書物です。教会は、この書物を旧約聖書の最後に置きました。そして、その最後の言葉が、今日お読みいただいた箇所なのです。

 旧約聖書の最後は、「今ここ」の厳しくも暗い世界の直中で、「見よ、その日が来る」と言っています。この箇所の文脈を踏まえて言いかえれば、この書物の著者はこんなことを言っているのです。正直者がバカを見て、ウソつきが繁栄する。それがこの世の常ならば、それに合わせて生きるのが正しいと、皆が言っている。しかし、それは間違いなのだ。神様は、キチンとすべてを見ている。正しいものはバカを見ない。正しいものが報われる、そんな新しい世界が来るのだ。その時には、このねじ曲がった世界は一掃される。完全に一掃されて、新しい世界が来るのだ。

 旧約聖書の最後にこの言葉が記されていることは、大変印象的なことです。聖書を最初から通読する努力家は、ここで大きな期待に心をときめかせる。この先に、新約聖書があるのです。この先に、イエス・キリストの物語がある。神の国の到来を告げる福音の物語が、この言葉の先に、待っている。

しかし、このときめきは、おそらく、裏切られます。

 聖書を最初から読み進める人――そういう人のことを想像してみてください――そういう人は、旧約聖書の最後で大きな期待を抱く。この旧約聖書の最後の言葉の向こうに、どんな救いが待っているのか。しかし、そのあとに始まるイエスの物語は、実に、挫折と悲しみの物語なのです。

 それはちょうど、信仰生活に似ているのかもしれません。

 人は、信仰を持つ時、なにがしかの希望を抱きます。正しく生きること、幸せになること、人徳者となること。ぼんやりとでも、信仰の結果得られるものを、期待します。なにしろ、神様の恵みに入るのですから。期待してもおかしくありません。しかし、多くの人が語るところですが、その期待は裏切られる。自分は取り立てて変わることもなく、今までの延長線上に生きる。それどころか、周りを見てみると、何と驚いたことに、結構、皆、大したことがない。みんな、普通の人で、別に聖人でもないし、特別なこともない。普通に、一所懸命生きている。一所懸命、それぞれの限界の中で、苦労しながら、生きている。

 旧約聖書が待ちわびた救い主は、まさに、その限界の中で、一所懸命に生き、そして、普通の人間とまったく同じく、死んでいきます。しかも、普通の人間以上に人間らしく、のたうちまわって、醜態をさらして、みじめに死んでいく。みじめに、殺されていく。

 今日、司式者にお読みいただいた新約聖書は、教会がキリスト(救い主)と呼ぶイエスという人物の最後の場面です。

 このイエスという人物の最後は、徹底的に惨めです。イエスは、思想犯として逮捕され、政治犯として死刑に処せられました。十字架とは、その死刑のことを指します。その十字架刑におけるイエスの最期の言葉は、その惨めさをよく表わします。「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」と、記録されている。それは、「なぜ私を見棄てたのですか」という、神への呪いの言葉です。
しかし、よくわかないことが書かれています。そうやって死んでいったこのイエスを指して、その傍で見ていた死刑執行人が、言うのです。「この人は本当に神の子であった。」

 ここに、聖書の主張があります。それは、深い、そして法外な主張です。

 私たちは、時々、嫌になることがあります。正義などないのだと、そう毒づきたくなることがあります。それは、巨大な事柄でなくてもいいのです。正義とか平和と、人権とかいのちとか、そんな巨大な事柄でなくても、私たちはちょっとしたことで、神も仏もないものだと、世界を呪いたくなるときがあります。自分は何も悪いことをしていないのに、自分ばかり面倒な目にあう。自分は普通にしているだけなのに、自分ばかり苦労する。自分は正直なのに、自分ばかり損をする。そういう場面に、私たちは、結構しょっちゅう、ぶつかります。

 そういうとき、私たちはつい考えます。なぜ、こんなことになるのか。自分は悪くない。ということは、この世界が悪い。この世界を造った神が悪い。神も仏もないものだ。

 それは、神様を信じない人の考え方でしょうか。たぶん、そうでしょう。でも、神様を信じる人であっても、それほど大差ないものの考え方をしてしまうことがあります。

 生きていて、分からないことがある。説明のつかない隙間が、人生にはある。その隙間が耐えがたく気になる時、人は、神様を呼び出して、これを埋めようとする。こんな不幸は、神様が何とかしてくれる。こんな理不尽は、神様が何とかしてくれる。とにかく、神様が、何とかしてくれる。だから、今はひたすらに我慢して待とう。

 ある神学者が、「隙間の神」という言葉を語っていました。それは、「分からないこと」という「隙間」があると、「神様」を呼び出して、「分かったこと」にしてしまう、そういう信仰者の滑稽な姿を批判する言葉でした。その神学者に言わせると、それは、あまりにもご都合主義的すぎる。あまりにも、神様を便利に使いまわし過ぎている。

 実は、信仰というものは、とても危ういものです。信仰というものは、実に都合よく、「隙間の神」を利用して、事柄を済ませてしまう傾向を帯びます。今は、我慢しよう。神様がいつか報いて下さるから。嫌だけど、辛いけど、とにかく、今だけは我慢しよう。今の不愉快な時間は、きっと、神様が埋め合わせて下さるから、ひたすら我慢しよう。そんなふうに考えさせてしまう、信仰というものは、危うさを秘めています。

 「隙間の神」ということ。それは、人を不幸にする信仰です。「分からないこと」はすべて「神様」に埋めてもらって、そうして、いつまでもしかめつらをして、自分の正しさを疑わず、世間を憎んで、心を荒ませる。悲しいこと、自戒したいことです。

 神様が将来なんとかして下さると、そう信じて待っている信仰者の姿は、力強くも美しいものです。しかし、その信仰者であればこそ、時々落ち込む落とし穴があります。それが、「隙間の神」の信仰なのです。

 聖書のメッセージは、この「隙間の神」という考え方を徹底的に否定します。

 将来、正義が実現する日が来る。そう信じて、そう期待して、新約聖書を紐解く人は、期待したイエスの姿に、ショックを受けます。そこには、敗残者の姿がある。神様に見捨てられた、破れ果てた者の姿。しかし、聖書は言うのです。その破れ果てた場所に、神様はいますのだ。

 私たちの頭は混乱します。世界の悪を滅ぼすべく、神様はこの世に来られるのではないのか?神様はこの世界を支配しているのではなかったのか?神様は勝利に輝く力強い方ではないのか?

 聖書は、違うと、言うのです。敗残者の様、破れ果てた様、神に捨てられた様が、神様の姿だと。

 私たちは、混乱します。私たちは、何か、とんでもないことを聖書から聞いてしまったような気がしてきます。

 しかし、考えてみましょう。よくよく、考えてみましょう。

 この世界には、悪がある。そしてそれは、憎むべき様々な出来事を見せつける。だから、私たちは怒る。あるいは、私たちは神様の裁きを望む。しかし、悪を前に憤り、あるいはこれを憎む私たち自身は、いったい何者でしょうか?悪は、憎むべきものでしょう。しかし、私たちは、悪を憎む権利を有するか?

 正義が勝つことを願い、悪が滅びることを願って、旧約聖書が閉じられる。そして、新約聖書が開かれる。そして、私たちは、知るのです。私たちが期待している「正義」は、十字架の上で破れ果てる。神様は、私たちの期待する「正義」を裏切るのです。そして、聖書は語ります。私たちの期待する「正義」が破れてしまった場所、そこに、神様はいらっしゃる。そこから、神様は、新しい世界を創り出される。神様は、ただひたすらにそこから、神様の正義を打ち立てになる。

 もう一度繰り返します。これは、法外な主張です。聖書は、法外なことを言っています。

 でも、考えてみましょう。国家間の戦争も、集団の間に生まれる諍いも、そして私たち個人のあいだにある恨みごとも、すべて、互いに自らの「正義」を主張しあった末に生じているのではないでしょうか。まず、私たちは、自らの「正義」を捨てないと、きっと、平和を手にすることができない。そうではないでしょうか。

 私たちが、自分の「正義」を手にして放さない限り、きっと、私たちの祈りは、苦しくて切迫したものとなります。「神様、早く来てください、まだですか」という、苦しい祈りです。それは、苦難の中で練磨されるとき、あるいは、信仰の強さを表す、力強い、感動的な祈りとなるでしょう。しかし、それを超えた祈りがあるのです。それは、喜びと感謝を以て「神様の御国がきますように」と祈る祈りです。

 私たちは、毎日の生活の中で、切迫した祈りを紡ぎます。それは、たとえば次のような讃美歌にもなっています。

 ガリラヤの風 薫るあたり 
 あまつ御国は ちかづけりと
 のたまいてより いく千歳ぞ
 来らせたまえ 主よ みくにを


まだですか、まだですか。こんなひどいことがあるのです。もう数千年も待っています。神様、まだですか、まだですか。

 それは、美しくも力強い、信仰の歌です。絶望を断固としてはねつけているのですから。しかし、私たちはその先へ進まなければなりません。私たちは礼拝に集い、十字架の光を仰いで、その先へ進まなければなりません。

 私たちの「正義」は破れる。破れている現実の中で生きる私たちは、礼拝において、私たちは何度でも、十字架を仰ぐ。そこでは、私たちが、砕かれる。私たちの「正義」が破れることを、神様が引き受けておられることを、私たちは知るのです。しかし、その先に、「神様の正義」が立ち上がる。だから、私たちは自分の「正義」を手放して、神様の新しい創造を待つ。赦された罪人にすぎない自分のことを顧み、神様の救いの御業を喜び、同信の友と共に神に賛美の歌を歌い、感謝してみ言葉を分かち合いながら、歌うのです。

 主の食卓を囲み いのちのパンを頂き 
 救いのさかずきを飲み 主にあって我らは一つ


それは、喜びの歌です。そして、2000年間キリスト教徒が祈ってきた祈り、「マラナタ」を歌う。それは、「主よ、来てください」という意味の、古の祈りの言葉です。

 マラナタ、マラナタ、主の御国がきますように!

ここまで、たどり着くこと。それは、まさに、神の苦しみの先に見出される救いの事柄なのです。聖書は、それを語ります。それが、十字架の福音なのです。
 御言葉は、神の苦しみの中から発する光なのです。


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