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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

愛に生きる

説教「愛に生きる」

旧約聖書 マラキ書3章19~24節
新約聖書 ヨハネの手紙第一 4章7~24節

 私どもの教会では、旧約聖書と新約聖書から一つずつの箇所を読み、そこから説教をいたします。本日は、マラキ書とヨハネの手紙をお読みいたしました。この二つは、今、私たちの教会で読まれるべき箇所であると思います。

 私たちの教会は、高齢社会そのものです。10名程度の礼拝出席者のほとんどは、私から見ると人生の大先輩方である。おそらく、多くの日本の教会は、同じような年齢構成の礼拝をささげていることでしょう。

 これからの日本の教会においては、「メメント・モリ」という中世の標語が、次第にリアルなものと思われてくるように思います。「メメント・モリ」。これは、「死を覚えよ」という言葉です。もともとは、修道院の中で語られた言葉。しかしこの言葉は、中世の末期、ペストの流行の中で、人口の4分の1が死に絶えるという現実を前に、広く人口に膾炙しました。

 「メメント・モリ」という言葉は、実は、一対のことわざの片方に過ぎません。もともとは、古代ローマのことわざで、「メメント・モリ/カルペ・ディエム」というものでした。「カルペ・ディエム」というのは、「その日一日の花を摘め」という意味です。「今を生きよ」という意味です。ホーラティウスの詩集第一巻第11歌に、こんな言葉があるのです。

  それゆえ君よ、賢明であれ
  酒を絞るに うつつを抜かす
  そんな暇など ないはずだ。
  いのち儚く 時は過ぎゆく
  大風呂敷は 慎もう
  いっときの おしゃべりの間に
  嫉妬に狂う 時は過ぎゆく。
  今日一日の 花を摘み取れ
  明日になど、信を置かずに。


ここで「大風呂敷」の「おしゃべり」として退けられているのは、何でしょうか。省略しましたこの詩の冒頭を見てみますと、なかなか味わい深いものがあります。自分がどのような死を迎えるのか、そのことに気を病むことをやめよと、この歌は始まります。人として生まれた以上、死ぬことを充分覚悟して、その上で日々を輝いて生きよと、そのようにホーラティウスは語っているのです。

 してみると、「メメント・モリ」と「カルペ・ディエム」の二つは、同じ事柄の両面を言い表したものと言えるでしょう。修道院において、修道士は真剣に復活を信じて生きました。「メメント・モリ=死を覚えること」は、本当のいのちに目覚める朝への憧憬なのです。そして、今申し上げた通り、「カルペ・ディエム=今を生きること」は、死という現実を見据えて堂々と生き抜くことを意味した。本当のいのちを見つめて死を覚えることと、死の現実を見据えて今を生きること。この両者は、コインの両面のように一つの事柄であると思います。

 今日、私たちは、ちょうどこの「メメント・モリ/カルペ・ディエム」のように、コインの両面のような二つの聖書箇所を取り上げています。今朝は、この二つの聖書箇所から、「生きる」ということの意味を考えてみたいと思うのです。


 今日の二つの箇所は、一見すると対照的な言葉に見えます。片方は、神の激しい裁きが語られている。もう片方は、神の豊かな愛が語られている。いかにも、旧約聖書と新約聖書のコントラストが鮮やかです。しかし、この二つの言葉が紡がれた背景を見てみますと、すこし、違った様子が見えてきます。

 マラキ書が、今日の旧約聖書でした。マラキ書というのは、私たちの使っている聖書においては、旧約聖書の最後の箇所です。これが旧約聖書の最後におかれていることは偶然かもしれません。しかし、そのことが含意している事柄は、マラキ書の背景に繋がっているように思われます。

 マラキ書の背景には、ユダヤの人々の生活があります。今からおよそ二千数百年前。戦争に敗れた小国が、奇跡的に復興を遂げた、その後の日常が舞台です。復興の中で、人々は幻を共有し、希望に燃えた。しかし、復興がひと段落を迎えると、次第に幻滅が訪れる。独立国家を再建しようとした志は、諸外国の力関係の中で、実質上の挫折を強いられている。新しい国家の内部では、現実の経済状況の中で、貧富の格差が拡大している。にもかかわらず、それを糊塗するかのように、宗教家はお決まりの祭儀を繰り返して日々事足れりとしている。すべては歪んだままに、変わらず流れる。終わらない日常。陳腐で平凡な毎日。

 そうした中、マラキ書は激しい言葉遣いで人々に迫ります。その冒頭の言葉はこのようになっています。

託宣。
マラキによってイスラエルに臨んだ主の言葉。
わたしはあなたたちを愛してきたと
主は言われる。
しかし、
あなたたちは言う
どのように愛を示してくださったのか、と。


神からの一方的な愛情が注ぎ込まれているのに、それは、人々の間に見失われている。倦怠の中に眠りこむ人々に対して、預言者の言葉は立ち上がる。目を覚ませと、激しく迫る。そして、この激しい預言の言葉の最後に、今日の聖書箇所がやってきます。

見よ、その日が来る
炉のように燃える日が。
高慢な者、悪を行う者は
すべてわらのようになる。
到来するその日は、と万軍の主は言われる。
彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。


終わらないかに見える日常は、もうすぐ終わる。その時、すべては刷新される。

 マラキ書の背景には、終わらない日常への倦怠が溢れています。この倦怠は、「いつかこんなことは終わるはずだ」という思いの喪失によって起こる。その背後には、新しい世界への待望が、挫折した形で、脈動している。

 さて、それではヨハネの手紙はどうでしょうか。

 ヨハネの手紙は、イエスが思想犯として逮捕され政治犯として処刑された「十字架の事件」からずいぶん経った後に書かれたものです。今から1900年ほど前の書物。その当時、十字架上に果てたイエスを救い主キリストと信じた人々は、イエスが復活したことを信じ、更に、このイエスが再びやってきて世界を刷新して下さると信じた。しかし、待てど暮らせど、イエスはやってこない。むしろ、キリストに敵する者たちが跳梁跋扈している。こんなはずはない。どうしたことだ――そう思い悩む人々に、この手紙は書かれました。新しい世界の到来を心の底から待ち望む、その熱意の盛りの時。それが、今日の新約聖書の背景なのです。

 いよいよ何かを待ち望む熱意を抱く時、その熱が高まれば高まるほど、私たちの心は裏腹の思いを抱くものです。こんなに期待して大丈夫だろうか?裏切られるのではないか?――そして、実際、私たちは待ち切れずに絶望し、諦念の中に惨めに沈み込む。待望と諦念は、常に裏腹の関係にあります。もしかすると、私たちの人生のおしまいに、この裏腹の思いは、その矛盾をはちきれさせるのかもしれません。

 ジョン・バニヤンという人が、「天路暦程」という本を書きました。イギリスのピューリタン文学の傑作と言われているもので、世界中の教会で愛読されている物語です。この物語は、クリスチャンという人物を主人公にして始まります。この主人公は、長い旅路を乗り越えて、遂に天国の入口が見えるところにやってきます。天国の入口は、川の向こう側にある。川は、歩いて渡れるはずの水深です。多くの困難を乗り越えて勇士となったクリスチャンは、この川に挑みます。最後の冒険。それは容易いはずでした。しかし、川を渡りながら主人公はふと迷い始めます。自分のような者が、果たして天国に入れるのだろうか――この迷いがきざすと、突然、体が鉛のように重くなる。これまで静かに見えた川は、突然、恐ろしい濁流になってクリスチャンを飲み込もうとする。

 私たちの人生の終わりも、あるいは、このようなものかもしれません。つまり、天国への希望と、死という暗闇への恐れと。この二つが私たちを引き裂くのかもしれない。

 私たちは、自分の不出来な信仰を知っています。誰よりも厳しく自分を査定する目を、私たち自身が持っている。その査定はあまりにも厳格で、言い訳の余地を残しません。それは、まるで焼きつく火のようです。人生の終わりの日はまだ遠いと、私たちは安心して日々を過ごす。その日々を喜びに溢れさせることもできるはずですが、私たちはえてして、倦怠と貪欲の内に、不平と不満にまみれて生きてしまう。だから、マラキ書の預言は恐ろしいものです。「見よ、その日が来る!」神の審判の時は、すべての人に等しくやってくる。人はその最後に、人生の決算をしなければならない。

 不安と迷いの内に、天国の一歩手前で川に沈み行く「天路暦程」の主人公は、溺れそうになりながら、同伴者にこう励まされます。「この苦しみは、神から棄てられた徴ではありません。これは、試練なのです。あなたがこれから、この苦しみの中で、いったいどうするのか、神は見ておられます。これまで受けなさったお恵みを心に思い出されるかどうか。あるいは、悩みの中でも主と共に生きなさるかどうか――神様はご覧になっています!」。 

 しかし、主人公は迷い続けます。それで同伴者はこう言う。「しっかりなさい。イエス・キリストはあなたを守られます。」すると、天から主人公に声が聞こえる。「汝水の中を過ぐる時、我共におらん。波の中を過ぐる時、水汝の上に溢れじ」。イザヤ書43章の言葉でした。すると突然、主人公の心には勇気が湧き出だし、水は石のように静かになる。川は急に浅くなり、主人公は無事に天国に辿りつく。天からの声が、最後の試練を乗り越えさせる助け舟となるのでした。

 同様に、今日のマラキ書も、恐ろしい裁きの言葉の後に一つの言葉を差し入れます。「思い起こせ!」という言葉です。なにを思い出すのでしょうか――「モーセの教えを」「ホレブの掟と定めを」!

 モーセの教えとは何か。ホレブの掟とは何か。それは、奴隷を解放するために立ち上がる神を心底から信じて生きなさい、という掟です。それが、十戒です。それが、律法なのです。

 奴隷を解放するために、神はモーセと共にエジプトに下られました。ファラオの侮りを受け、魔術師たちの挑戦をお受けになりました。そしてそれを退け、奴隷を解放したのが、聖書の神です。その神に解放された者らしく、今を生き抜けと、預言者は語る。そして、恐ろしい裁きの前に、偉大な預言者を遣わすと約束を付け加えて。その預言者こそ、エリヤであると。

 先月、私たちは、西間木牧師の説教から、このエリヤとは誰であるかを学びました。福音書によれば、エリヤとは、バプテスマのヨハネであるというのです。バプテスマのヨハネとは、誰でしょうか。それは、ひたすらにキリストを指し示した人でした。すると、私たちはこうも考えることができる。私たちも、今、礼拝を通してキリストを証している。私たちも、バプテスマのヨハネである。私たちも、裁きの前に使わされるエリヤである。

 実際、そうなのでしょう。もしわたしたちが本気になってキリストを指し示すなら、きっと、神様は裁きをお待ちになるかもしれない――ひとりでも多くの人を救うために。だから、私たちは礼拝に励みましょう。証を、小さくても、立てつづけるのです。

 それでは、私たちはどうやって証を立てるのでしょうか。私たちは弱い小さな存在です。どうして、神の救いの福音を語り、キリストを証しすることができるでしょうか。

 今日の新約聖書は、その答を語ってくれています。答は簡単です。「愛し合うこと」です。

 しかし、これほど難しいことはありません。私たちは、どうして、愛し合うことができるのでしょうか。私たちの中のどこに、そのような「愛」があるのでしょう。また、もし証するために努力して愛し合うなら、その「愛」はきっと、偽善そのものとなるでしょう。何かの見返りを求めて、誰かに見せびらかすために行われる事柄は、愛とは呼べないからです。

 ここで、少し落ち着いて、今日の新約聖書を読んでみましょう。

 まず第一、確認しなければならないのは、「愛」は神の中にあり、神から出て私たちに輝くということです。ちょうど、太陽の光が宇宙を満たすように、愛はこの世界を満たしている。私たちはその中に立てばよい。そうすれば、月のように、私たちも愛に輝くことができる。間違えても、自ら発光しようとしてはいけないということ。これが、第一に確認すべきことです。

 第二に確認すべき事柄は、この「神の愛」は私たち全てを一つにするものだということです。私たちの罪のすべてに解決を与えるべく、神の側ですべてが整えられた、ということ。私たちは多様です。しかし、多様なままに、私たちは一つになる。なぜか。私たちの破れやほつれ、至らなさや過ちのすべてを、一つの神の業が癒し・救うからです。私たちは私たちのままで、弱く破れた惨めなままで、一つになる。弱さと破れにおいてこそ、一つになる。神が、私たちの欠損を補ってくださるからです。

 第三に確認すべき事柄は、この「破れを補う神の愛」は私たちを必要としているということです。神は、私たちの次元にまで下られ、更に、私たちの足下にまで身を低くされた。だから、私たちのすべての破れと逸脱は神によって補われる。神は、実に、自らのいのちを無に帰するほどに、私たちを愛して下さった。それは、御自身を無にする事柄です。ですから、次は私たちに役割が回ってくる。神が御自身を無にされたのです。私たちが、神の働きを担わなければならない。私たちが愛し合うこと。これが、神の業を担うことです。それは、神に促されてなし得る事柄です。神は実に、私たちを必要となさるほどに私たちを愛して下さった。この愛に応えることが、キリストを証することなのです。

 私たちは、吹けば飛ぶような小さな群れです。しかし、ここに神の愛が働く。私たちは、ここに働く神の愛に応えるものでありたい。神が必要とされている。このことに、喜びと誉を感じるものでありたい。その時、きっと、私たちは愛に生きるものとなる。その時、今ここに咲く一輪の花を、私たちは大切に摘み取ることができる。その時、今ここで、死の向こう側にある本当の命に、浴することができる。

 今日ここで捧げられる私たちの礼拝が、この神の愛への感謝の奉仕となることを願って、祈りたいと思います。

(おわり)


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