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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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書評『JUNKの逆襲』

以下は、インターネット新聞「JANJAN」に投稿した記事です。
そのものは、新聞の編集者によってずいぶん縮められてしまいました。
それは、ここで、今でも見ることができます。

本意としては、以下のまま公表されることを願っていましたが、
それは、それでよかったと、今でも思っています。
そのあたりのことは、4月15日の「信仰者の夢」に書いたとおりです。
でも、こうやって改めて表現する場があるのですから、
元版のまま、乗せます。

ちなみに、本は

Junkの逆襲
これでした。


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 JANJANの皆様。本のプレゼントに当選しましたので、書評らしいものを書いてみました。お目汚しですが、本を頂いた責任として、以下に提示します。書評らしいもの、ですので、カタイ言葉で書きました。読みづらいかもしれません。お赦しを。最後に蛇足を加えてありますので、お忙しい方はそちらだけでもどうぞご覧ください。ご批判をお待ちしております。



『JUNKの逆襲』(作品社、2004年)への書評

 本書に「自由」を思う。時に激しく、時に野放図で、時に苛烈ですらある著者すがさん(「すが」は「糸ヘン」に「圭」)の言葉の背景には、厳しい自由というものが仄見える。すがさんの言葉が発せられる淵源、つまり、すがさんの生の場所が、アカデミズムの枠組みと遠いこと(遠かったこと?)と、この「厳しい自由」は無縁ではあるまい。

 本書の時評には、「強度」を感じる。よく時評を評価する言葉に「射程」という言葉が使われる。「射程」というのは“既に見えている領域に、どこまでこの言葉が届くか”というイメージ。今私たちが面している情勢変化の驚くべき速度を考えると、「言葉の射程の長短」というのは、いかにも「おっとり」してはいないか。次々と立ち現れ、次から次へとカタチを変える時勢の勢いに煽られない「思想の強度」を、私は本書に感じる。

 「自由」で「強度」あるすがさんの言葉は、「1968年革命」に留まる中で育まれている様子だ。このことは本書を読むとすぐ分かる。しかし、「1968年革命」とは何か。

 「1968年革命」とは何か。世界中で同時多発的に起こった、「知」あるいは「学」を巡る革命であり、「誰のための・何のための学であるか、知であるか」を徹底的に問うたこと、それが「1968年革命」の核心であったと、そのことだけを、私は知っていた。そんな私に、本書は私の知らなかった「1968年革命」の諸相を示す。とりわけ、「ポツダム以降(=戦後民主主義)」に対抗する「1968年以降」という時代の見方は、端的に「戦後民主主義」への対抗軸を浮き上がらせてくれる。現在私たちが手軽に知り得る「アンチ‐戦後民主主義」とは、せいぜい明治憲法下への復古主義でしかない。そしてその復古主義は、現在加速度的に勢力を増している。復古主義にキナ臭い異臭を感じる私は、断固として、巷間流布している「アンチ‐戦後民主主義」には組しない。しかし、同時に私は、一つの限界を感じている。いま私たちは、結局「1945年以前か以後か」という綱引きをしているだけなのではないか。とすると、「戦後民主主義」と「アンチ‐戦後民主主義」が一つの「綱」でつながっている限り、一方への偏重は他方への反動を生み出す温床となるのではないか・・・。この「綱」を切り裂いて、新しい可能性を開かなければならないのではないか。私はそう感じる。

 「1945年以前へ」の復古主義は、「国民意識」という名を借りた「素朴な自尊心」に訴えかける。それ故に、粘っこい。この粘っこさは侮りがたい。対するに、「1945年以降へ」という力は、「敗戦の経験」によってその粘度を保ってきたが、その「経験者たち」の永眠と共にその力は薄れてきている。それが、「加速度的な復古」という現状につながっていると思われる。

 「1945年」を境として、私たちの社会は、確かに転回した。「不自由」は「自由」へ、「戦争」は「平和」へ、「全体主義」は「個人主義」へ、「天皇主権」は「国民主権」へ、転回した。しかしこの転回が、それだけで、人を幸せにするのだろうか。それだけで幸せにする、と胸を張る楽観主義者は、そう多くないのではないか。
 
 「戦後民主主義」は、今、総点検を必要としているのではないか。そう感じるのは、私だけではないはずだ。しかしそのためには、戦後民主主義を相対化する、少し離れた場所からの視点が必要となる。そしてその視点とは、「復古主義」的なものではないだろう。なぜなら、「戦後民主主義」と「復古主義」は、光と影のようにつながっているのだから。そう考える私は、有効な足場を、本書に見出すことができた。

 「自由」が自らの内側に潜み持つ「不自由」を、「国民」が自らの内側に潜み持つ「天皇」を、すがさんは照射する。「第三の道」などと言っては陳腐に過ぎるか。しかしもし本書を推薦するとした場合には、陳腐であっても、あえて言おう。本書には「1945年以前」と「1945年以降」との綱引きを切断する「第三の道:1968年以降」に立つ時評と文芸批評が展開されている。ここに本書の魅力がある。

 しかし、1点の疑義を呈して本書の批評を終えたい。本書の著者・すがさんの言葉が語り出される場所についての疑義である。

 本書を巡って、小倉千賀子さんとすがさんが対談を行った。2004年2月2日、東京池袋の書店での出来事である。その模様はネチズンによって報告されている(http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/text/junkekkon.htm)。この報告に拠る限り、この対談は「完全なすれ違い」に終わっている。その原因は何か。私見であるが、小倉さんがすがさんの「プライベートな事柄」を質問した際への、すがさんの反応にあったのではないか。すがさんは、断固「プライベートな事柄」について、語ろうとしない。人間の生を離れた学・知への強い疑義が「1965年革命」であったと、不勉強ながらに知っていた私にとって、このすがさんの姿勢は見過ごせないものだ。

 また別の場面で、すがさんは「自分はオタクだ、従ってマイノリティーだ、ここに68年革命との接点を見る」と語っていたとのこと(http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/text/oitakanozyono.htm)。68年革命は、確かにマイノリティーの革命・「小さくさせられてきた者達」の異議申し立て、である。しかし、「100%マイノリティー」という人など、いるのだろうか。「抑圧に苦しむ階級」であっても「男性」は「女性」に対して社会的優位を持ち、「女性」であっても「負け犬」と「勝ち犬」がいるという。人はだれでも、常に複層的な諸相を含み持つのではないか。つまり、「マジョリティー」「抑圧者」としての自分を持たない人はいないし、持たないと感じるところには深刻な怪しさが付きまとうのではないか。

 「プライベートな事柄」とは、つまり、自分のうちにある「マジョリティー性」「抑圧者性」をさらけ出すことになる。しかしそれを避けることは、不誠実ではないか。
 
 他者の「マイノリティー性」を通して私・川上の「マジョリティー性」を見出し、それが「マイノリティー」の方々に押し付けている様々な「しわ寄せ」を自覚して深く恥じ、その恥の自覚に基づいて、社会の中の「川上の安寧を守っている側面・機構」を揺さぶる。もし私がマイノリティーということを考えるならば、こうした一連の行為のためにこそ、為されるべきではないか。こうした一連の行為なしには、どんな「革命」も、他罰的な自己正当化に至るのではないか。これが私の疑義である。

 この疑義を本書に関していうならば、二点の指摘に至る。第一に、本書の言葉遣い。第二に、本書における圧倒的な攻撃性。以上の二点である。

 第一、本書の言葉遣いについて。本書は、とてもとても難しい言葉遣いで満ちている。私は、本書の内容には「アカデミズムからの自由」を感じ清々しかったが、本書の形式(文体)には「アカデミズムの重石」を感じつらかった。今私が書いているこの書評が、どれほどの文体であるか、それを思うと、正直とても心苦しい。しかしそれでも書評だから言うべきだと思う。本書の言葉遣いは、「専門家」と「素人」を選別して「素人」を排除する。「今の大学生は・・・も知らない」といったすがさんの嘆き節は、「知っている」ことへの優越感を、恥じらいもなく衒いもなく、余りにあからさまに示してはいないか。そこには、「知っている」ということの権力性が滲み出てはいないか。他罰的な自己正当化が、ここに行われる気配はないか。

 救いは、すがさん自身が他人をバカ呼ばわりする際に、自分と同じようにバカ、と自分を「バカ」にすること。そして小倉さんとの対談で、自分の本が難解であることを指摘されて、「私の本はクズだから読みにくい」と言っていること。これらは、ある種の「自爆テロ」的なもの、といっていいのだろうか。しかし、そこに現れる圧倒的な攻撃性は、そもそも正当化され得るものであろうか。

 知的野党性、と言っていいだろうか。圧倒的なヘゲモニーを有するアカデミズムへの批評、あるいは政治権力への衷心からの批評が、捨て身の迫力=「圧倒的な攻撃性」を帯びることは、必然であるし、必要だとも思う。この点で本書は価値ある書である。そして私は「知的野党性」をむき出しにするすがさんを尊敬する。しかし、2002年から大学に就職し、「教授」となったすがさんは、はたして「知的野党」なのか?すがさんの言葉が語り出てくる場所はどこなのかという疑義は、どうしてもこの一点に帰着せざるを得ない。



 以上が本書への書評です。本書をお送りくださったJANJANに、心から御礼申し上げます。書評の投稿が遅れましたこと、心からお詫び申し上げます。

 本書は雑誌等に載った読み切りの短文をまとめて本としたものです。従って、全部読まなくても、一つ一つで簡潔に完結していて示唆に富んでいます。特にJANJANの読者各位に推薦することができる本書の内容を三つ挙げます。目次をご覧になって、それらしい章だけでも、ご覧になってはいかがかと思い、蛇足を付けます。

(1)JUNK(あってもなくてもどうでもよいもの)への逆説的な価値付け:JANJAN紙面にも、すがさんが言うところの「ジャンクなもの」が多くあることと思います。私はその「ジャンクなもの」も含めて、JANJANを貴重な存在であると考えています。同感してくださる方、是非本書をお読みください(たとえば、本書冒頭の「Junk的なものをめぐって」など)。ジャンクなものの持つ可能性と限界性と危険性を示唆する点で、本書は良書です。

(2)2ちゃんねるその他への「匿名批評」の価値:JANJAN掲示板の常連、高野検見士さんと快い議論をしたことを思い出します。JANJANの「健全さ」を守るべく、参加する「市民」の定義を厳しくしてはどうかとの高野検見士さんのご意見を、私は了としません。しかし、その心情と信条を思って、私は高野さんを尊敬しております。さて、すがさんは隣接すると思われる事柄について、文芸批評の観点から説得的な意見を述べていました。「今日のジャーナリズム批評のために」や「“藁えない”『2ちゃんねる』」などの章です。お時間があれば、高野さんのご意見も伺ってみたいなと、思わされました。

(3)本書は難解だ、と書きましたが・・・:「第2部」と「第3部」は、比較的平易です。教育を論じた「第2部」は話し言葉で語られ、とても分かりやすい。「第3部」の、特に小泉政権を支持する世論についての洞察(「国民の『俗情』は『痛み』を回避する」など)は、大変鋭いもので、刺激的な示唆を受けました。


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