第三章 第十節:牧師としてひとつ前へ戻る第十節:説教家・文筆家としてのフォーサイス 1901年2月7日、新聞『タイムス』は、ハクニー・カレッヂがフォーサイスに正式な学長招請を行うことを、全会一致で決議したと報じた 。「ケンブリッヂのエマニュエル教会以上幸せな、そして調和の取れた教会はあり得なかった 」とジェシーが回顧するケンブリッヂでの働きが終わろうとしていた。二十五年間に渡る牧師としての生活が終わり、二十年間に渡る教育者としての生活が始まろうとしていた。フォーサイス五十三才の時である。1901年3月、フォーサイスの書斎を訪れたストッダートは、その頃の様子を以下のように叙述している。 フォーサイス博士の書斎はやや小さいもので、中は本で埋め尽くされていた。 そこに多くのドイツ語の表題を見た時、ハクニー・カレッヂの書棚にこれらが並ぶ素晴らしさを思った。 博士が物書きに使用していたテーブルは模様の入った大きなものであったが、 博士はいつも、膝の上にライティング・ボードを載せて仕事をするのを好んだ。 この書斎には同室者がいた。クローティという大きな黒猫である。 あるいは博士と同様にリッチュルやモーリスを知っていそうなクローティは、 フォーサイス博士の大きな椅子に博士と一緒に座り、 人間の同室者の腕の間に自分の体をねじ込む方法を身につけていた。 フォーサイスの牧師時代に、我々は一つの「転機」を見出した。「1892年前後」である。それはレスターからケンブリッヂに異動する頃、自身の体調不良に加え妻の病臥、そして死別を経験した時期であった。フォーサイス神学思想における「継続」と「転換」の両相を総合的に把握する為に、我々は1892年前後に、フォーサイスの生涯を画する「分節線」を置くこととする。 牧師時代を通じ、フォーサイスは説教者として、そして文筆家として広く知られることとなる。ここで、牧師時代の総括として、「説教者としてのフォーサイス」と「文筆家としてのフォーサイス」をよく描写している二つの証言を、以下に紹介する。 説教者としてのフォーサイスについて、情感を込めて描写しているのは、ジョーンズである。 ジョーンズは自らの説教者としての立ち位置を定めるのに最も大きな影響を与えた人物としてフォーサイスの名を挙げ、とりわけ1899年にボストンで行われた第二回国際会衆派教会会議(Second International Congregational Council)での説教に感動したことを回顧する 。 ジョーンズの叙述するフォーサイスの説教の様子は、以下の通りである。 第二回国際会議は、とても満足した思い出として振り返ることができる。 この時の会議ほど、一般の人びとの関心を集めたことはなかった。 この会議において、後に私にとって馴染みとなる米国の人々の話を聴くことができた。 (中略) 確かに、これら米国の兄弟達は傾聴すべき巧みな演説を行った。 しかし、私の心に残ったのは、何よりもフォーサイス博士の講演である。 博士の講演において、会議はクライマックスに達したのだ。 博士は様々な講演が予定された会議の中、 最初のほう――正確には、二日目の午後――に出番を与えられた。 博士の講演の主題は、「権威の福音的原理」であった。 この講演の内容は、詰る所、 十字架こそ我々のキリスト教信仰の中心事項であることを、熱烈に訴えるものであった。 この日の前にも後にも、私はフォーサイスの説教をたくさん聴いた。 しかし、この日に聴いた時ほど興奮させられたことはない。 フォーサイスはまるで霊感されたかのように語り、炎を上げ、燃え上がっていた。 一つ二つの、どちらかと言うと瑣末で無味乾燥な講演の後に、フォーサイスは登場し、 そして我々は事柄の核心に引き戻されたのである。 贖いの十字架を語るその迫力は、大勢の聴衆を圧倒していた。 講演が終ると、ある人々が拍手を送った――しかしすぐに、その拍手は止んでしまった。 この講演に対するに、拍手では全く足りないのだと、我々は感じたのだ。 そして、議長から会場に対し、講演に対する応答が求められた ――しかし、この講演から受けた印象は、言葉を超えたものであった。 我々は立ち上がり、新しい熱情と緊迫感を込めて、 賛美歌「キリストの十字架の内に栄光を(註)」を歌ったのである。 そして我々は大いなる畏れを魂の内に分かち合い、 そしてまた、大いなる喜びを我々の魂の内に分かち合った。 ピーター・テイラー・フォーサイスという人物を通して、 神が我々の教会に大いなる賜物を与えてくださった――このことが、 この時初めて、即ち、この素晴らしい午後・このトレモント・ホールで初めて、 英国内に知られるようになったのではないだろうか。 ____________________________________________ 註:“In The Cross of Christ I Groly.” John Bowring作詞による1825年の讃美歌。 ____________________________________________ 文筆家としてのフォーサイスの様子を伝えるのは、編集者としてフォーサイスと親交篤かったポリットである。 ポリットによると、フォーサイスは「編集者泣かせ」の書き手であった。フォーサイスは締め切りを守らなかったのみならず、依頼した文字数を常に超過した原稿を提出し、更に、常に提出した原稿に手を加えたがり、実際、印刷の直前まで、編集者は改訂をし続けさせられたという。それにも拘らず、自らの原稿がすぐに印刷されないと、いつも苛立つ悪癖もあった。「総じて言えば、彼は気持ちの良い寄稿者ではなかった」とポリットは振り返る。 ポリットは、この「編集者泣かせ」の姿勢に、フォーサイスの性格が良く表れていたと見て以下のように回顧する。 フォーサイス博士は、私の知る限り、おそらくもっとも良心的な書評家ではなかっただろうか。 私が初めて博士に依頼した原稿は、 新聞『インディペンデント・アンド・ノンコンフォーミスト』紙上の書評欄のもので、 最も重要な神学書数冊についての論評であった。 当時彼はレスターにおり、依然として異端的一群の中に数えられていた。 ドイツ語で書かれた、本当に大部の、神学と聖書批評学の書籍が、一度に彼の元に郵送された。 彼はこれを実に礼儀正しく受け取った――但し、書評が彼の手元を離れる段になると、 様子が全く違ってしまった。 彼持ち前の、超‐良心的な姿勢故に、原稿は遅れに遅れたのだ。 一冊の本について判断を下す際、彼は単にそれを読了するだけでは満足できず、 説教の作成にそれが使えるかどうか試したいと、考えたのだ。 他の説教者たちにこの本を薦め、その財布からお金を出させてこれを購入させる以上、 それに見合った価値があることを請合わなければならないのだと、フォーサイスは考えたのである。 確かに、このような驚嘆すべき真面目さが全ての書評家に求められることはない。 文筆家一般に付いて言えば、フォーサイスの様な態度は好ましくないものだろう。 しかし、もしかすると、フォーサイスのような用心深さが広く共有されるなら、 神学という科学にとって、より好ましい結果を生むのかもしれない。 貧しい中で学び、説教者・牧師となったフォーサイスの半生が、文筆家としての態度に表れていること。そしてまた、説教者・牧師としての本務に非常に忠実であったこと。これらのことが、ポリットの回顧から知られる。こうした説教者・牧師としての姿勢故にこそ、ジョーンズが回顧するような、人の心を深く打つ言葉を、フォーサイスは紡ぐことができたのかもしれない。 ビンフィールドは学長となった後のフォーサイスを「学長としての牧師 」と総括し、バーはフォーサイスを「説教者の神学者 」として受容した。後代にこうしたフォーサイス像が語られたのは、ポリットが回顧するようなフォーサイスの説教者・牧師としての生き方故のことであったと言えるのではないだろうか。 牧師としての立場を強く自覚しつつ神学研究・教授に励む姿は、英国の神学界において一般的であった。例えばフォーサイスの同僚となったガーヴィーは、ハクニー・カレッヂとニュー・カレッヂで神学教師として奉職した頃を回顧する際、フォーサイスが「カレッヂの職責」に第一の重みを置きつつも、尚「御言を説教し、和解の務めを果すこと」という召命を蔑ろにはしなかったことを強調する 。牧師としての立場から、専門的な神学研究に当たる、というのは、同時代のドイツにはなかった、英国に特徴的な傾向であったという。すなわち、その牧師時代を通じ、フォーサイスは英国的特徴を代表する神学者となった、と言えるだろう。 ジャンル別一覧
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