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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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第8回:西欧の誕生

第二学期 第一回(通年第8回):西欧の誕生


1.「西欧の誕生」を学ぶこと

 1学期は、キリスト教の誕生について、ご案内してきました。2学期は、「西欧」というものがどのように誕生してきたかを、ご案内したいと思います。

 日本は、つい150年前まで、中国(当時の清国)を目指してきました。中国に正しいものがあり、中国に良いものがあり、中国にかっこいいものがある。そう考えて、政治も経済も文化も組み立ててきたのです。それが、開国と明治維新によって、変わりました。それ以来、私たちは、西欧を目指すようになったのです。

 実際、今、私たちは、西欧的な暮らしをしています。私たちのだれも、床に正座して授業を受けたりはしない。みんな、イスに座り、机に向かってノートを広げる。来ている服はどうでしょうか。みんな、襟付きの服です。私などは、ネクタイまでしている。スーツにネクタイをしていれば、「正しい格好」と思ってもらえる。でも、もし私が紋付袴を着てここに立つと、どうなるでしょうか。皆さんはきっと、笑いをこらえるのに困るかもしれません。でも、紋付袴という服装は、つい150年前まで、日本の「正しい格好」だった。それは、中国を目指して「正しさ」や「カッコよさ」が決まっていた、その結果でした。そして今、私たちは「西欧」が「正しい」もので「カッコ良いもの」と思い込んでいる。これは、一つの洗脳です。そしてその洗脳は、もうしばらく私たちを支配し続ける様子です。

 欧州と書いて、ヨーロッパと呼びます。これは、ユーラシア大陸を西に進むと辿りつく場所です。欧州は、二つに分けられます。西欧と、東欧です。東欧の代表は、ロシアでしょう。そして、現在の西欧の代表は、アメリカ合衆国ということになります。このことには、すこし、説明が要ります。

 もちろん、アメリカ合衆国、という国は、もともと、西欧ではありませんでした。ただ、西欧の西のはずれにありますイギリスやアイルランドから、たくさんの人々がアメリカに移住したのです。この人々は、西欧で行き詰った人たちや、一攫千金を狙う野心的な人々でした。そしてこの人たちが北アメリカ大陸に移住して、現地の人々を駆逐しつつ、自分たちの国を作り上げた。最終的には、イギリスに対して独立戦争(革命戦争)を仕掛けて、それに勝利して、アメリカ合衆国という国が生まれます。

 そうした経緯の結果、アメリカ大陸に、西欧の文明が飛び火しました。そして、世界大戦があり、欧州諸国が疲弊した結果、アメリカ合衆国が欧州の代表となりました。

 日本は、このアメリカと戦争をします。そして、完璧に負け果てる。そして、アメリカが強く正しくかっこいい、と思う人が多くなりました。そういう人たちの思いがまとまって、小泉政権というものも、生まれた。このことは記憶に新しいところです。

 私たちは西欧にあこがれているようです。ただし、今現在、アメリカでは「非‐西欧」化の流れが加速しています。もう数十年すると、アメリカ合衆国の人口の大多数は「非‐西欧」の人々(アフリカや南米やアジアからの移民)によって占められることになる。これは、分かっていることです。そして、黒人のオバマさんが大統領になった。ドルは下落を続け、中国やインドが力をつけている。もしかすると、皆さんがビジネスの世界に出ていく頃には、もう「西欧」は時代遅れになり始めているかもしれません。でも、やっぱり、もうしばらくの間は西欧の魅力は私たちを拘束することでしょう。西欧式のスタイルは、私たちの体に染み込んでしまったのですから。

 とすると、「西欧」とは何であるかを学ぶことは、高校を卒業した後、皆さんにとってきっと意味がある。実際、学問は、様々な分野から、「西欧」についての学びを深めてきました。宗教、あるいはキリスト教の研究も、「西欧」を理解する手掛かりを豊かに与えてくれます。西欧は、キリスト教と共に発展してきたからです。あるいは、西欧は、キリスト教によって今の形に辿りついた。そう考えると、キリスト教を学ぶ意味が、明確になるかもしれません。

 2学期は、皆さんとご一緒に、「西欧の誕生」ということをキリスト教の観点から追いかけてみたいと思います。それは、キリスト教の分かりにくい側面を明快に照らし出すことでもあるでしょうし、私たちが生きている社会のシステムについての理解を深めることにもなるでしょう。「聖書」の授業は、高校生活の枠の中におさまって終わるものではありません。皆さんが生きていかなければならないこの世界を理解する手掛かりを差し上げるためのものです。2学期は、「西欧の誕生」ということを目標にして、皆さんの人生のサバイバルのための学びを、ご一緒に進めたいと思います。


2.「神の平和」

 西欧とは、どんな特徴をもった世界なのでしょうか。

 考えてみれば、西欧とは、とても特殊な地域です。まず、1300年近くにわたって、政治的・軍事的に統一されることのないまま、繁栄を続けました。西ローマ帝国が滅亡したのは、西暦480年ごろです。それ以来、ナポレオンがその大部分を統一する19世紀に至るまで、西欧は、群雄割拠の戦国時代を過ごします。それでも、この地域は繁栄しました。むしろ、その繁栄は、政治的・軍事的な統一がない状態であればこそ達成された、と言えます。そこに、西欧という世界の特徴があります。

 このことは、「ローマの平和」ということを考えると、とても不思議な気がします。

 ローマ帝国は、地中海の沿岸地域(地中海世界と言います)を見事に支配しました。アレクサンダー大王没後、この地域は群雄割拠の戦国時代となりますが、それを統一して、「平和」をもたらしたのが、ローマだったのです。ローマはこの地域に安定をもたらし、道路網を整備し、通貨を流通させ、商業や文化を繁栄させました。「ローマの平和」は、地中海世界に繁栄をもたらしたのです。ただし、この「平和」は、ローマ軍による苛烈な暴力によって維持されていました。「ローマの平和」を乱すと思われるものは、徹底的に殺戮されていきました。「平和」とは、「戦争」の裏面としてだけ、存在していたのです。

 しかし、このローマ帝国が滅亡してから、「西欧」が誕生してきます。それは、不思議な世界の誕生でした。暴力や政治が、「平和」を作り出せない時代が続く。しかし、その中で「平和」が生まれる。この「平和」を生み出す核になったのは、教会でした。教会は、「ローマの平和(Pax Romana)」ではなく「神の平和(Pax Dei)」を作り出した。「神の平和」の中で、王や将軍は自由に激しく戦争を繰り返しながら、その活力はそのままに、しかし社会としての枠組みが壊されることなく、一つの世界が作り上げられて行く。そうして、現在の「西欧」という魅力的な世界が出来上がったのです。
 

3.「カンニングのジレンマ」と「来世のゲーム」

 不思議な「神の平和」。それは、暴力や政治によって生み出される「平和」ではなく、宗教を用いて生み出される「平和」です。それは、人生というゲームのルールを書き換えることによって、人々の間に一定の秩序をもたらすものです。それは、一学期にお話しました「信仰のたたかい」と同じやり方で、社会を作り出すものでした。それは、どういう「やり方」だったのでしょうか。
ここでは、「神の平和」を説明するために、「ゲーム理論」について、お話してみましょう。

 「ゲーム理論」というのは、第二次世界大戦後、社会や経済について考える時に有効な理論として、広く活用されているものです。その詳細については、大学に進まれれば、きっと勉強されることだと思います。そしてこの理論を知っていると、ビジネスの世界に出た時、非常に役に立つ。今は、その理論の詳細をお話するのではなくて、その理論を用いて、「神の平和」運動の正体を皆さんにご案内してみたいと思います。

 皆さんに興味を持ってもらうために、ゲーム理論の具体例として、ここで「カンニングのジレンマ」というお話をいたします。

 「ザ・カンニング IQ=0」という映画がありました。1982年に日本でも公開された、フランス映画です。フランス映画といっても、コメディ映画というか、おバカな映画です。吹き替えのアテレコに、当時始まったばかりの「わらっていいとも」で人気を博していた初代「いいとも青年隊」の方々がキャスティングされる等、話題性が豊富で、私もよく覚えています。「文部省非推薦」とか「学校関係の方は立ち入り禁止」など、刺激的なコマーシャルが流されました。

 内容は、実におバカなものです。フランスの予備校(日本の高校のようなもの、とお考えください)で、校長先生が、滅茶苦茶なスパルタ教育を始めます。生徒たちは怒って、反抗する。それで、色々あった後、校長先生と勝負することになります。勝負は、バカロレアという試験(日本のセンター試験に当たります)で合格できるか、どうか。生徒たちは勉強が嫌いです。だから、当然、合格なんかできない。でも、負けるわけにはいかない。それで、生徒たちは力を合わせてカンニングをすることにする。

 クラス全員で、カンニングをするのです。実に手の込んだ、実にバカバカしいカンニングの描写がありますが、とにかく、全員で力を合わせて試験監督をキリキリ舞いさせて、見事、全員が試験に合格することができる。その様子がとても面白く描かれています。興味のある方は、「ぽすれん」というインターネットのレンタルビデオで、借りてみることができます。

 なんだ、この授業では、カンニングの仕方を教えているのか――そう思われる方は、早合点というものです。私は、皆さんに、カンニングなんかしないほうがいいよと、そういうことを、これから申し上げたいと思っているのです。

 オトナというものは、キタナイものです。コドモたちが組織的にカンニングを計画するなら、オトナは、それを上回る方法で、対応すればいい。たとえば、「ゲーム理論」がある。この理論を用いれば、必ず、オトナはコドモに勝つことができます。

 まず、組織的にカンニングがなされた、ということが分かったら、一人でもいいから、怪しい人を捕まえます。組織的になされたものであれば、一人くらい、ヘマをする人もいるでしょう。証拠など、なくてもいいのです。とにかく、疑わしい生徒を捕まえる。

 もちろん、組織的なカンニングなのですから、捕まったらみんな黙秘することが前提です。口を割らなければ、完璧な計画なのです。証拠がない以上、「ヘマ」をした人以外は、問題にならない。一致団結したコドモは、オトナに勝てるはず。

 しかし、この件に関しては、決してコドモはオトナに勝てません。その「ヘマ」をした生徒を個室に座らせて(つまり閉じ込めて)、丁寧にこう言ってあげれば、オトナの勝利は確定するのです。「君がカンニングをしたことは、分かっている。そして、君だけがやっていないことも、分かっている。君以外の人も、こうやって個室に座らされて、今、尋問されているところだ。・・・さて、ここで君に提案がある。今回の集団組織カンニング事件について、その全貌を教えてくれないか。もし、君が他の人に先立って教えてくれたら、君のカンニングだけは、見逃してあげるよ。我々も早く問題を解決したいからね。・・・もし今のまま君がダンマリを決め込んでいるなら、君についてはカンニングが分かっているのだから、当然、規定通り停学になる。そして、ここが重要なことなんだが、君が黙秘して、他の人が喋った場合、君は捜査に協力しなかったのだから、退学処分となる。・・・よく考えて、どうするか決めてくれ――。」

 間違いなく、上記のように言われたら、この生徒は黙秘することができません。それは、次のように考えるからです。

 (1)自分が黙秘して、他の人が黙秘しなかったら:
   「他の人」は、無罪放免となり、自分は停学より重い退学となる。
   自分だけが一番ひどい目にあうのだから、これは最悪だ。
 (2)自分が黙秘して、他の人が黙秘したら:
   他の捕まった人と一緒に、自分は停学になる。これは、だ。
 (3)自分が黙秘をしないで、他の人も黙秘しなかったら:
   無罪放免にはならないにしても、罰は軽減されるかもしれない(きっと!)。
   どうせ、自分はもう停学なのだから、この可能性に賭けよう。
   無罪放免ほどではないが、まだこのほうがマシだろう。
 (4)自分が黙秘をしないで、他の人が黙秘したら:
   自分は無罪放免となる。他の人のことなど、考えている場合ではない。
   急いで話してしまえば、最高の結果が得られるぞ。

こうなると、合理的な計算としては、こうなります。

(1)=最悪/(2)=嫌/(3)=マシ/(4)=最高

従って、捕まった生徒は、必ず、(4)を目指して、自白することになる。

 上記のように、複数の人々がそれぞれ各個に「合理的でベスト」と思われる選択をすると、ある一定の結論に自動的に導かれていく、そのような人間の行動を理論化したものを、「ゲーム理論」と言います。上記においては、カンニングをした人は、自分にとって「最高」の選択をしたばっかりに、結果としては学校にとって最も都合のよい決断(=カンニングの実行組織全体としては最も都合の悪い決断)をしてしまう。こうした様子を、「カンニングのジレンマ」と呼ぶことができます。教科書的な「ゲーム理論」の話では、通常、「囚人のジレンマ」ということを例に出すのですが、それは、どうぞ、大学に進学されたら、皆さんが勉強してみてください。

 「ゲーム理論」が示すことは、こういうことです――人間は、複数の人たちがそれぞれに「自分個人にとって最善」と思うことを選択するとき、全体としては、最悪の事態が立ちあらわれる、ということです。

 個別の「自分にとって都合のよいこと」が集積すると、全体としては最悪の事態に至る。そうしたことは、実に多くあるように思います。

 たとえば、学校で、勉強しなくても何のペナルティも発生しない(何とかなってしまう)状態になると、どうなるか。おそらく、生徒たちは勉強をしなくなるでしょう。そうなれば、その生徒たちは「バカ」になる。すると、「バカ」を生み出す学校だという評判が立つ。そうなれば、いつかそんな学校は潰れる。全体としては、最悪の事態を招く。でも、生徒個人としては、勉強しなくてもいいんだったら、勉強なんかするわけがない。

 たとえば社会においても、同じことが言えます。社会における強力な暴力装置が完全に解除されてしまい、誰も警察の役割をしなくなってしまったら、どうなるか。みんな、「好き勝手」にやるでしょう。今の自分の欲望を満足させる。でも、そうなると、社会全体は、どうなるか。きっと、地獄のような様相を呈します。強いものが弱いものを好き勝手にやる。そんな社会に、人は住みつくでしょうか。お金も、人材も、皆、そんな社会からは逃げていきます。そんな社会は、程なく潰れてなくなります。

 実は、ローマ帝国が分裂して東西に別れ、更に西ローマ帝国が崩壊する、そうした混乱のなかで、「そんな社会」が出現することになりました。後に西欧と呼ばれる地域は、実に「地獄の釜が開いた」状態に陥ります。「ローマの平和」を支えていた暴力装置の「ローマ」がなくなって、平和は完全に壊れる。

 ローマが崩壊した後、西欧の地域を支配したのは、ゲルマン人の古代の法でした。それは、「フェーデ」と呼ばれる慣習法です。それは、「名誉のためには報復が許される」という考え方です。「名誉」なんて、形のないものです。結局、強いものが弱いものを「名誉」のために傷つけ、奪い、犯す――そうした地獄の様相が、そこに展開した。

 そうした状況ですから、西欧の地域からはヒトもモノもカネも逃げていきます。とても、後に世界を支配するシステムを作り出すとは思えない、惨状。

 そうした中で、新しいローマ帝国が生まれないかと、人々の期待を一身に集めて、大きな王朝が生まれます。フランク王国です。この王国は、フランス・ドイツ・イタリアの各地を統一することに成功します。そして、この王国は、統治のために教会を活用しました。教会に、新しい社会の秩序を作ることを委ねたのです。

 教会は、フランク王国の支えを受けて、新しい秩序を作ろうと活動を活発化させました。しかし程なく、フランク王国は分裂してしまいます。また再び、西欧地域は、群雄割拠の戦国時代となる。やっぱり、「ローマの平和」は、戻ってきません。

 そこで、教会が、「神の平和運動」を行うために立ち上がります。ここに、西欧の誕生を認めることができる、というのが、私の考えです。

 「ローマの平和」ではなく、「神の平和」です。その推進役は、教会です。教会は、ローマ帝国のような軍隊や暴力装置を持っていません。でも、教会は、「信仰のたたかい」で鍛え上げた特殊能力がありました。つまり、「死んでもよみがえる」という信仰です。

 イメージしてみれば、こんな感じです――「名誉」のために、フェーデの法に従って、強い人が弱い人を殺そうとしている。そこに、教会の宗教家が仲裁に入る。無茶なことを言ってはいけないよ、怒るのは良くない、殺すなんて、もっと良くない・・・。そう言われても、殺そうと決めた「強い人」は、収まるわけがない。うるさい黙れ、邪魔するならお前から殺してやるぞ、クソ坊主・・・。そこで、キリスト教の宗教家は、断固、こう言う。私を殺す?殺したければ、殺しなさい。但し、私を殺せば、神の呪いがお前にあるだろう。おまえは必ず、地獄に落ちるからそのつもりで・・・あ、そこに通るお若い男の方、ちょっと、私を助けてくれませんか。ここに、無法の男がいますよ。この人が聖職者である私を殺そうとしているのです。私を守ってくれたら、あなた、天国に行けるようにお祈りしてあげましょう・・・。こうなると、きっと必ず「お若い男の人」は助太刀をしてくれる。最初の「強い人」は、なんだか割に合わないような気がして、「弱い人」を殺すことをやめるかもしれない。

 「神の平和運動」とは、だいたい、こんなイメージなのです。二つのことに、注目ください。一つは、ルールを変えてしまっていること。もうひとつは、以前にお話した「信仰のたたかい」とは様子が違っていることです。

 まず、ルールを変えてしまっていることについて。「カンニングのパラドクス」でも、あるいはフェーデが支配する世界でも、ゲームのルールは一つ、共通しています。それは、「今、自分にとって都合のよいことを選択する者が、勝者となる」といゲームのルールです。だから、カンニングをしたり、捕まったらあっさり仲間を裏切ったり、そして、「名誉」のために人を殺したりする。それは、確かに合理的な選択ですが、その合理性は、全体の将来をダメにしてしまう。このゲームの問題は、明らかです。「今」見える範囲での「合理性」に基づく判断が優先されるというルールが、問題なのです。そんなルールだから、「自分」の都合と「全体」の都合とが噛み合わなくなり、自分の都合を優先させると全体がダメになる、というのは、視野が「今」に絞られてしまっている結果なのです。

 「神の平和運動」は、ゲームのルールを変えてしまいます。「今」あるいは「生きているうち」の自分の都合だけを考えるゲームをやめて、「死んだあと」までを視野に入れてルールを組み直すと、ずいぶん、考え方が変わるかもしれない。

 たとえば、「カンニングのジレンマ」で考えてみましょう。「最高」を目指して、自分たちの仲間を売ってしまって、まんまと「無罪放免」になったとします。良かった。今回は、助かった――でも、そのあと、クラスに帰ったら、どうなるでしょうか。「あいつは仲間を売ったやつだ」と、皆から白眼視されるに決まっています。クラスに帰った後のことまで頭が回らない。ちょっと先のことも考えられない。だから、そもそも、カンニングなどということをする。そんなことだから、「カンニングのジレンマ」に嵌って、ズルい大人の策略に引っ掛かる。やっぱり、少し先を見ておくことは、とても大切なのでしょう。

 「今」とか「高校生活」とか「生きているうち」で得をしたら勝ちだ――そういうルールでゲームをすれば、必ず、人は「ジレンマ」に陥ります。自分の都合と全体の都合が噛み合わなくて、結局、自分も損をしてしまう。でも、「“今”だけではなくて“少し後”」「“高校生活”だけでなくて“人生全体”」「“生きているうち”だけでなくて“死んだあと”」まで視野に入れて、損得を計算しなければならない、と、そのようにゲームのルールを変えてしまったら、どうなるでしょう。視野が広がるにつれ、「ジレンマ」は減っていきます。つまり、視野が広がるにつれ、個々人の都合と全体の都合とは、噛み合うようになっていくのです。

 「神の平和」と呼ばれた教会の運動は、人々に、人生というゲームのルールの変更をもたらしたのでした。人の心に働きかけて、「今」だけを見て得失点を計算するゲームをやめさせる。それどころか、「死んだあと」まで考えてゲームをするように、ルールを変更させました。それは、宗教を用いて、人の心の中に介入し、その人のやっているゲームを変更させる離れ業です。それが、「神の平和運動」でした。そして、その運動は功を奏しました。長い時間がかかりましたが、教会の運動は、最終的に成功を収めたのです。

 19世紀のナポレオンまで、「ローマ」の代わりは、遂に現われませんでした。「ローマの平和=暴力によって作り出される平和」は、西欧において、再現されなかった。でも、西欧は特殊な「平和」を手に入れました。それは「神の平和」運動によってもたらされました。それは、圧倒的な暴力によるのではなく、各個人の心の中のルールを書き換えることで、平和をもたらすという、特殊なものでした。それは、きわめて魅力的な「西欧」というものの誕生を告げる、教会の成果だったのです。

 それでは、そんな西欧を作り出した「教会」とは、どんなものだったのでしょうか。考えてみれば、教会とは、不思議なものです。だって、西欧の地域が大混乱に陥って、王様も軍人も秩序を回復できない中で、教会は自らの中に秩序を蓄え、そして遂に混乱を鎮めて西欧世界を作り出したのですから。周囲が歴史の荒波にのみこまれるなかでも、壊れないで持続する教会。それがあればこそ、西欧世界は出来上がったわけです。次回から、この「教会」というものの中身を、皆さんにご案内したいと思います。


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