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信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

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第12回:聖書(その2)

二学期 第5回(通年第12回):聖書論(その2)

1.聖書の三つの顔

 聖書とは、一体何でしょうか。

 皆さんがお持ちの聖書(日本聖書協会による新共同訳聖書)を、手に持ってみましょう。ずいぶん分厚いものです。2000ページもあります。字がびっしりです。ずいぶん薄い紙で作られています。なんだか、とても重いもののように感じられます。
聖書とは一体何か。それをめぐって、山のような本が書かれ、論文が発表されてきました。今も、聖書を研究する人は後を絶たず、新しい発見が続いています。そうした研究は、「聖書学」と呼ばれるもので、膨大な実績を残しつつ現在も進展しているスリリングな学問です。

 私は、聖書学の専門家ではありません。ただ、キリスト教の思想専門の学者です。思想を研究する学者というのは、膨大に積み上げられた研究成果を整理して、「つまり、こう言うことですね」と纏めてしまう、そんな乱暴な仕事をしています。

 乱暴、と言いました。でも、けっこう、この乱暴なことが大事になります。つまり、ある程度思い切って整理してみないと、「なんだかよくわからない」ということになってしまう。そうなってしまっては、貴重な努力で積み上げられた研究成果が、皆さんに無視されてしまうかもしれない――ということで、今日は少し思い切って、聖書とは何か、私流の説明をしてみたいと思います。

 聖書とは何か。私の答は、こうです――聖書とは、三つの顔を持つものだ。

 「三つの顔を持つ一つの存在」というものを、皆さんはイメージできるでしょうか。たとえば、「私」とは何者でしょうか。私は妻の前では夫ですが、娘の前では父であり、皆さんの前では教師となります。ということは、今の私の生活において、私は三つの顔を持っている。あるいは、「時間」についても、同じことがいえそうです。「時間」とは何か。「時間」とは、未来と現在と未来の三つの顔を持つものだ。

 「時間」とか「私」のように、茫漠として捉えどころのないものを説明するとき、「複数の顔を持つ一つのもの」という形で説明することができそうです。そして、聖書も、そのような説明で、とりあえず「分かったような気になる」ことができると思います。

 では、聖書の持っている三つの顔とは、どんなものでしょうか。先に答えだけを申しますと、聖書は「正典」「古典」「神の言(ことば)」という三つの顔をもって存在しています。
以下に、この三つの顔について、説明をしてみたいと思います。


2.「神の言」と「正典」

 キリスト教の成立の時、イエスの教えが、「聖書」として、個々人に届けられました。それは、最初は口伝えで、そして100年くらい後には書き記されて、たくさんの断片として流通していた様子です。そして、それは大変な影響力を持っていたらしく、各地にキリスト教徒たちが出現し続けました。迫害にも負けずにキリスト教徒が増え続けたことは、おそらく、「聖書」のおかげです。それは、信仰を持った人たちにとっては、まぎれもなく「神の言」だったのです。そういう人たちにとっては、「聖書」は「読むだけで御利益のあるありがたい本」ということになる。そして、そうした考えは、キリスト教のプロテスタントの伝統に深く根ざしています。たとえば、東北学院の礼拝でも行われる「聖書を読む(だけの)礼拝」という宗教儀式は、そうした考え方を基本にして成り立つものです。

 古代の世界で、聖書は「神の言」として、信徒の間に機能しました。それは、迫害に苦しむ信徒たちを助け、励まし、支えたのです。しかしそこには、一つの問題がありました。実にさまざまな「聖書」が、実に自由に無秩序に、出回っていたのです。中には、社会の秩序を乱すような「教え」もありました。たとえば、「女性は男性と対等だ」とか、「こんな汚い世界から離れて、死んだ方がいいのだ」とか、そういうものが「神の言」として、出回っていたのです。その中には、「正当」なものもありました。「男女は平等」という考え方は、正当なものです。でも、それは「正統」なものではなかった。古代の秩序を乱すもの、統制を逸脱するもの、だったのです。だから、そうした「異端(極端な異説)」の意見を、教会は、消さなければならなくなります。教会は、流通している膨大な「聖書」の中から、「正統」なものを選び出さなければならない。そのためには、まず“基準になる「聖書」”を作らないといけない。

 「基準」という言葉を、ローマの言葉(ラテン語)では「カノン」と言いました。それはもともと「ものさし」という意味です。「聖書」として、ものすごい種類の「イエスの教え=神の言」がある。それのどれが“正しい”のか。それを見分けるための「ものさし」を作ろう――こうしてできた「ものさし=カノン」としての聖書を「正典」と呼びます。そして、その「ものさし」に外れた聖書のことを「外典」と呼ぶことになります。

 重要なことは、こういうことです――聖書が「神の言」であったので、放っておくと、それは信者たちに突飛な行動を取らせるかもしれない危険な力を持っていた、だから、「正典」としての聖書を定めて、その力をコントロールしようとした。つまり、“「神の言」としての聖書”の暴走を止めるために、“「正典」としての聖書”が纏められた、ということです。そして、“「正典」としての聖書”から外された“「神の言」としての聖書”は、教会から切り捨てられることになりました。それで、今私たちの手元には“「神の言」=「正典」としての聖書”が残されていることになります。

 400年近い時間をかけて、一応、「イエスの教えとその解説」に相当する「正典」は、27冊の本としてまとめられました。これが今の「新約聖書」です。そして、これを基準に、ユダヤ教の聖書の中で教会の基準になるものも選定されます。その結果生まれたのが「旧約聖書」ということになります。

 新約聖書は、今でもキリスト教の基準として機能しています。たとえば、聖書の最後には『黙示録』がありますが、この13章18節には、「666」という数字を持った魔獣が登場します。そしてそのあと、「ハルマゲドンの戦い」があり、世界の最終戦争が描かれている――これだけを読むと、壮大なオカルト話が作れそうです。そして、それはたくさん作られました。そうした想像力は素敵なものですが、それに基づいて行動すると、オウム真理教のようなことになってしまう(実際、オウム真理教はそのようにして、地下鉄サリン事件を起こしたのでした)。そうではなくて、聖書の一か所一か所を、「正典」の全体の中で判断して理解すること。そうして、突飛でハチャメチャなキリスト教にならないように枠をはめる。それが、「教会の基礎としての聖書=正典」ということの意味です。

 この“「正典」としての聖書”に大きな「権威」を与えて、様々な判断の際に参照する、という立場があります。それを極端に進めたのが、プロテスタントということになります。東北学院は、そのプロテスタントの伝統の中で生まれました。だから、東北学院のキリスト教の授業は「聖書」と呼ばれるわけです。

 「正典」としての聖書を概説すると、だいたい以下のようになります。


【旧約聖書】=39巻・・・「さんく」

(1)創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記
 ・・・天地創造からモーセまで。
    「モーセ五書=トーラー」とも。ユダヤ教において最も早く「正典」化。
(2)ヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記(上下)・列王記
 ・・・モーセ以降、イスラエル王国の滅亡までの、「歴史書」的文書。
(3)歴代誌・エズラ記・ネヘミヤ記・エステル記
 ・・・イスラエル王国の滅亡から復興まで、「神殿」を鍵にまとまっている。
(4)ヨブ記・詩篇・箴言・伝道者の書(コヘレトの言葉)・雅歌
 ・・・宗教的詩歌、あるいは文学といってよい。
(5)イザヤ書・エレミヤ書・(エレミヤ)哀歌・エゼキエル書・ダニエル書
 ・・・「大預言書」。「予言」でないことに、注意を。
(6)ホセア書・ヨエル書・アモス書・オバデア書・ヨナ書・ミカ書・ナホム書・
  ハバクク書・ゼパニア書・ハガイ書・ゼカリア書・マラキ書

 ・・・「小預言書」。この「大」「小」は、書物の大きさのことです。


【新約聖書】=27巻・・・「にじゅうしち」

(1)マタイによる福音書・マルコによる福音書・ルカによる福音書・ヨハネによる福音書
 ・・・「イエス物語」。マタイ・マルコ・ルカは、「共観福音書」と呼ばれるほど、内容が重複。
(2)使徒行伝(使徒言行録・使徒の働き)
 ・・・ルカによる福音書の「続編」。
   教会の誕生から、パウロの伝道の様子を描く、物語形式の叙述。
(3)ローマの信徒への手紙・コリントの信徒への手紙(第一・第二)・
 ガラテアの信徒への手紙・ エフェソの信徒への手紙・
 フィリピの信徒への手紙・コロサイの信徒への手紙・
 テサロニケの信徒への手紙(第一・第二)・
 テモテへの手紙(第一・第二)・フィレモンへの手紙

 ・・・「パウロ」による手紙、という形式をとったもの。
   その中には「パウロでない人」の手によるものもある、らしい。
(4)ヘブライ人の信徒への手紙
 ・・・「パウロ」による手紙とみなされてきたけれど、最近はそう思う人は少ない。
(5)ヤコブの手紙
 ・・・「イエスの長兄・ヤコブ」による手紙という形式の文章。真偽のほどは議論百出。
(6)ペテロの手紙(第一・第二)
 ・・・「使徒ペテロ」による手紙という形式の文章。同上。
(7)ヨハネの手紙(第一・第二・第三)
 ・・・「使徒ヨハネ」による手紙という形式の文章。同上。
(8)黙示録
 ・・・「ヨハネ」による「手紙」と「黙示文学」。


3.聖書の正体

 最後に、聖書の中身について、一般にあまり知られていない事柄をご案内しましょう。

 前回、中世の西欧で「自由」を持っていた人たちを、三つ挙げました。一つは宗教家であり、一つは学者であり、一つは軍人・政治家です。そして、宗教家と学者が手を結ぶことで、宗教改革は始まったといいました。つまり、西欧が突然変異を起こして現在のシステムを作り出す、そのきっかけは、学者と宗教家のコラボレーションによってもたらされたということです。

 ただ、学者と宗教家は、いつも仲良しではありませんでした。むしろ、しばしばこの両者は喧嘩します。むしろ宗教改革の時が、例外でした。そして、宗教改革の後、両者はどんどん疎遠になり、そして20世紀には完全にけんか別れするようになります。

 19世紀以降、科学が世界を支配するようになりました。「科学的である」といことが「正しい」とされる。「科学」が「権威」を持つようになったのです。それで、「聖書が正しい」という宗教改革の核心の考え方も、激しく揺さぶられることになりました。「聖書も科学的に分析して、その正しことと間違っていることを選り分けなければならない」という考え方が、学者の側から始まって、キリスト教徒の中にも浸透したのです。それで、聖書が精密に分析されることになりました。その結果、分かったことがたくさんあります。その中で刺激的な事柄をいくつか箇条書きで以下に記しておきます。

(1)「聖書」は「一冊の本」ではありません・・・図書館、のようなものです。
(2)「新約聖書」に「イエスの書いた言葉」は、採録されていません。
(3)「新約聖書」は300年くらい、「旧約聖書」は(最低)500年くらいをかけてまとまります。
   この際、「責任編集者」は「いない」のです。
(4)「聖書」の著者は、一部を除いて、「わかりません」。
(5)「聖書」は、すべて、複製品(大多数は粗悪なもの)です。
   オリジナル原本は、現在のところ、発見されていません。
   あるいは、オリジナルは「存在しない」と思われます。

「聖書とは、そんないいかげんなものなのか!」と、驚かれた方もおられるでしょうか。実際、20世紀はそんな驚きの連続でした。「神の言」として大切にされてきた聖書は、実は、上記のようなものだと、分かったからです。

 そもそも、キリスト教徒以外にとって、聖書とは何でしょうか。キリスト教徒以外の人にとって、教会は「ただの宗教施設」です。そして、キリスト教徒以外の人にとって、聖書はただの古い本です。「古い本」ですから、解説を加えなければ書いてあることの意味がわからない。それをただ読んだって、何の御利益があるものか――そう思われるのも、当然かもしれません。でも、「古い本」であるということには、一つの意味が隠されています。

 古くから大切にされてきた本を、「古典」と言います。宗教がどうあれ、信じる神様が何であれ、人々はとにかく、数千年の間、言葉を使って知恵を絞りながら生きてきました。そうした言葉の中で、特に大切にされ、長い年月を生き延びて、現代まで大切に守られてきた言葉があります。それを、「古典」と呼ぶのです。科学とは、宗教から離れて客観的に世界を眺める中で構築されるものです。キリスト教徒であろうとなかろうと、聖書はとにかく大切にされてきた人類の知恵なのだから、信仰から離れて、客観的に聖書を分析してみよう。そうしたら、人類の知恵が読み取れるかもしれない。そう考えた学者たちは、本当に徹底的に、聖書を分析し続けました。特に19世紀から20世紀にかけて、その研究は飛躍的な発展を遂げた。今までわからなくて神秘のベールの中にかくれていた事柄が、どんどん分かってきた。そして、上記のようなことが、人々に知らされることになったのでした。

 それで、キリスト教徒は今、もう一度考え直しています。「上記のようなシロモノ」が、どうして、「教会の基礎」になりえたのか。それだけでなく、精緻な制度・組織に支えられたローマ・カトリック教会を「改革」して、中世という時代を終わらせて近代という時代を作り出したのか――もしかすると、この問いに向き合う時、新しい「聖書」の意味が見出せるのかもしれません。

 具体的には、こういうイメージです。

 学者が、キリスト教徒に向かって、盛んに語る:聖書は、「古典」なのだ。人間が、数千年間大切にしてきた知恵なのだ。だから、人間の言葉であって「神の言」ではない。それを「正典」として「ものさし」に使うのは、間違っている。眼を覚まして、よく聖書の分析結果を見なさい。それは、だいたい、上記のようなものですよ。

 すると、宗教家や牧師が気色ばんでこう語る:キリスト教徒の皆さん、学者の言うことなんか、無視しなさい。学者よ、黙れ。聖書は「神の言」なのだ。そして聖書は人生や社会を秩序づける「ものさし=正典」なのだ。これを大切にしないから、世界はこんなに混乱している。みんな、学者の言うことは無視しろ。この聖書で、西欧のシステムは作り変えられた。民主主義も、資本主義も、科学技術も、聖書を中世の社会に嵌めこんだ結果、生まれたんだ。聖書は「神の言」である。学者たちの言うことは無視しろ。

 学者と宗教家・牧師たちの話はいつまでたっても平行線をたどる。それで、若い世代は不思議に思ってこう訊ねる:牧師の先生、いい加減、大人気ないことはやめましょう。「見ないふり」をしたって、事実は事実です。無視したって、研究の成果が覆るわけではない。すこし、冷静になったらどうですか。そんなだから、みんな宗教をバカにして、教会に人が集まらなくなるのではありませんか。・・・それより、学者の先生にお伺いしたいのですが、本当に、聖書はそんな「いい加減なもの」なのですか?・・・そうですか。では、伺います。なぜ、あなた方学者は、そんな「いい加減なもの」を熱心に研究するのですか?・・・古典だから、ですか?人類が数千年間大切にしてきた言葉だから、ですか・・・だとしたら、どうしてもわかりません。なぜ、人類は、こんな「いい加減なもの」を数千年間も大切にしてきたんでしょう?そしてなぜ、今でもこの「いい加減なもの」は世界の多くの人を動かして、歴史を変えようとしているのでしょう?

 20世紀を通じて、学者と宗教家・牧師たちは、反目し続けました。でも、20世紀の終わりが見えてきた頃、ポスト・モダンという考えが立ち上がり、状況は変わり始めたのです。学者の言うとおり、聖書は人間の言葉に過ぎません。でも、それがなぜか、牧師たちの言うとおり、世界を変える力を持ってきた。伝統的な意味ではなく、全く新しい意味で、聖書は不思議な書物だと言えそうです。つまり、「タダの昔の人の言葉」であるにもかかわらず、現在に至るまで、歴史を変えてきた言葉である。もしかすると、聖書は本当に謎の書物なのかもしれません。学問は、聖書の「どうやって作られたか」を明らかにしてくれます。それは、神秘のベール(あるいは迷信!)を取り除いてくれる貴重な作業です。しかし、その作業の後に、重大な問題が残される。つまり、聖書は「何であるか」が、いよいよ、わからなくなるのです。聖書は、「著者不明・編集責任者不在・粗悪な複製品の集積」というシロモノです。でも、それが西欧を作り出し、現在も人々を動かしている。そこには、まだ解明されていない大きな謎がありそうです。この謎を秘めているという意味で、もしかすると、聖書はやはり「神の言」なのかもしれません。迷信を取り除いた後に残る「神の言」。それが、聖書の本当の正体ではないか?

 私の学問的仕事は、上記のような謎の「神の言」に向かって進められている、ということを、最後に申し添えて、今日の授業は終わります。

第13回はこちらからどうぞ。


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