470868 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

信仰者は夢を見る:川上直哉のブログ

三学期 最終回

前回はこちら




第二十四回:メディアとしての宗教

今日は、授業の最終回です。今日は、キリスト教を含めた宗教の本質をご案内します。そして、そこから見えてくる「自由」を巡る闘争を、すこしだけ、確認します。

 「自由」とは、何でしょうか。それは、二つの英語の翻訳語です。二つの英語とは、freedomとlibertyです。この二つの言葉の意味を、まず、押さえておきましょう。

 まず、freedomとは、何でしょうか。それは、中世の古い英語「freo-」から来ている語で、「愛する」という意味の言葉です。この「freo-」から、「friend」という言葉も出てくる。「自由」は、一面において、「愛」と関係しています。

 「自由」は、「愛」と関係する。このことの意味が分かるでしょうか。

 他人はどうあれ、自分がしたいと思うことをすること。他人はどうあれ、自分が本当にすべきだと思うことをすること。その時、人は「自由」です。それは、自分の「愛」を貫徹することです。人は、自分の「愛」を貫徹できた時、自由を実践する。しかし、人はなかなか、自由を貫徹できない。それで、人は「地位」を求めます。「結婚」という儀式は、男を“夫”という「地位」にするものですし、女を“妻”という「地位」にするものです。そのようにして、夫婦となり、互いの愛を確保する。それが、「結婚」というものです。それは、自らの「自由」を守るために地位を欲する人の思いと、同じカタチをした事柄です。「愛」とは、「自由」と結びついている。だから、freedomという言葉で「自由」ということが語られるわけです。

 次に、libertyという言葉。これは、中世のラテン語「liber」という言葉から来ている言葉です。それは、「書物」を現す言葉でした。だから、「library」と書けば、「図書館」となる。

 「自由」は「書物」と関係する。このことの意味が分かるでしょうか。

 人は、どんなに何か自分のしたいことをしていても、そのことで「自由」になれないことがあります。たとえば、人は他人を侮ることができる。蔑むことができる。差別することができる。そして、悲しいことですが、人はそのようなことを、しばしば、したがる。でも、そうしたことをいくらし続けても、人は「自由」にはなれない。ただひたすら、そうしている人は、偏見や迷信の奴隷として生き続けるだけなのです。人は、ぼんやりしていると、「常識」の奴隷になる。迷信や偏見は、常識の中に染み込んでいる。だから、人は学ばなければならないのです。人は、偏見や迷信を、書物を通して、打ち破らなければならない。そうしなければ、人は永遠に、迷信と偏見の奴隷である。自由になりたければ、書物を読まなければならない。「書物」は、「自由」と結びついている。だから、libertyという言葉で「自由」ということが語られるわけです。

 今日は、この迷信と偏見からの自由を求める闘いを確認します。それは、修道院と大学のお話となるのです。


1.「カノッサ」のウラ――教会は、何故、勝利したのか

 前回の中心的な出来事は、叙任権闘争というべきものでした。それは、「カノッサの屈辱」といわれる事件で決着したものです。それは、「権威」が皇帝よりも教皇にあることを、西欧中の人々に知らしめる事件でした。教会が、政治家・軍人に、勝利したのです。それは、「自由」を巡る闘いにおける、教会の勝利でした。

 しかし、この「勝利」には、実は、ウラがあります。

 もう一度、場面を巻き戻して、カノッサの場面に戻りましょう。真冬の北イタリア・カノッサでのこと。別荘にいた教皇グレゴリウス七世は、教皇になりたくてなれないでいるハインリヒ四世を追い詰めています。教皇を勝手に擁立したということで、ハインリヒ四世を破門しましたら、なんと、東フランク王国内でハインリヒ四世排斥の運動がおこってきた。もう少しで、ハインリヒ四世は失脚するはずだ。

 叙任権を巡る闘争を優勢に進める教皇。しかし、事態は突然、逆転します。はるばるドイツから、ハインリヒ四世がやってきた。真冬の山の中であるカノッサの別荘の前で、教皇の赦しを乞うべく、ひざまずいて待っているという。

 これで困ったのは、実は、教皇の方でした。ドナティスト論争のこともあります。赦しを乞う人を赦さないのでは、教皇の信仰が疑われてしまう。仕方がないから、教皇は東フランク王に赦しを宣言せざるを得ない状況に、追い込まれる。教皇は、ハインリヒ四世を赦す。

 赦しさえ得られれば、ハインリヒ四世は元気百倍です。もともと、教皇と張り合うほどの実力があるのです。赦されたのだということを前面に出して、再び東フランク王国を纏めあげます。そして、5年しない内に、ハインリヒ四世は東フランク王国の連合軍を編成する。そして、その軍隊を連れて、どこに行きましょうか。王は、ローマを目指すのです。

 気がつくと、ローマの教皇庁の周りは、兵隊で囲まれてしまいました。びっくりしたのは、教皇グレゴリウス七世です。「破門だ!」と叫んでみても、どうしようもない。だから、しょうがない。こっそり、ローマを脱出して、逃げていきます。イタリア南部の方へ逃げて行った教皇は、結局、逃亡先で病気になり、死んでしまうのです。

 グレゴリウス七世が逃げた後のローマ教皇庁。教皇の座席は、空席になりました。そこに、ドイツから連れてきたお抱えの聖職者を座らせる。こうしてハインリヒ四世は、そのお抱え聖職者によって「戴冠」を受ける。見事、第七代神聖ローマ帝国皇帝に、即位する。

 以上が、ハインリヒ四世とグレゴリウス七世の間の「叙任権闘争」の真実です。これが、歴史の出来事でした。以上の事柄を知っていれば、「教会の勝利」ということは「ウソだ」ということになる。でも、実際、「カノッサの屈辱」の後程なく、十字軍が編成され、教会によって皇帝や国王が動かされ、宗教戦争が展開する。これは、一体どういうことなのでしょうか。

 ポイントは、メディアにあります。教会は、歴史的には、政治家・軍人に負けたのです。しかし、メディアを支配していた教会は、政治家・軍人に、完勝したのです。

 東フランク王とローマ教皇が叙任権を巡って闘っている。王様と教皇と、どっちが偉いんだろう――今も昔も人々は、こうしたお話が大好きです。しかし、西欧大陸は広い。本当のところはどうなっているのだろう。誰か知っている人はいないだろうか。

 神聖ローマ帝国皇帝ですら、なかなか定まりにくい時代です。人々が自由にあちこちを行き来できる状況ではありません。国境線は複雑に入り組んでおり、旅行をするのはとても危険な時代でした。もちろん、ネットも電話もない時代です。人々は、人づてで情報を得るほかなかった。そんな中で、唯一、自由に西欧大陸を移動できたのが、教会関係者でした。この人たちは、各地の情報を教会に集め、交換し、人々に伝達したのです。つまり、メディアが、教会でした。情報は、教会で伝えられたのでした。

 教会が伝える「叙任権闘争」です。それは、どうしても、歪んだり削られたりする。「カノッサの屈辱」の出来事は、教会の勝利を伝える情報です。それは、大々的に伝えられることでしょう。しかし、その後日談は、教会の敗北を伝える情報です。どうして、教会がそれを広めるでしょうか。

 情報を握るものは、世界を制するのです。メディアを押えることは、勝利を獲得する近道になる。教会の勝利は、実は、メディアを支配したことによります。このことは、きわめて重要なことです。今でも、このことは真実だからです。


2.メディアとしての宗教――聖像問題

 西欧中世において、教会が勝利したこと。それは、教会がメディアを制していたからであること――これは、たまたまの偶然として説明されるべきことではありません。むしろ、そこには宗教というものの本質的な意味が隠されています。そして、そこにこそ、西欧文明が現代において世界を制覇しつつある本当の理由が、隠されています。

(1)宗教というメディア
 宗教の本質的な意味とは、何でしょうか。実は、宗教とは、古来より、メディアそのものなのです。

 メディアとは、何でしょうか。「メディア」とは「媒介物」を意味します。私たち人間は、テレパシーを使えないものですから、メディアを使う。何かを媒介にして、意志と情報を伝達する。たとえば、この授業は、何でしょうか。私が勉強し、学び、組み立てた「お話」があります。それは、私の脳の中に蓄積された情報と、私の心の中に溢れる意志によって構成されています。この「お話」は、私の口から出る音声や、あるいは、このような文字に乗って、はじめて、皆さんの所に届く。メディアとは、音声や文字といったもののことです。

 古来、人間は、世界と向き合い、人生と向き合って、そこにどんな意味があるのか、これからどうなるのか、知りたいと願ってきました。それで、「自然」や「運命」あるいは「神」といったものの意志や情報を探ろうとした。そのとき、「自然」「運命」「神」といったものと人間を結び付けてくれたものこそ、宗教でした。今でも残る「占い」や「御神託」というものは、そうした時代の名残です。

 もともと、世界中の宗教は、多神教でした。目に見える山や川などの「自然」の脅威を「神様」にしたり、人間の「運命」そのものをつかさどる存在を「神様」として想像したりしたのでした。でも、多神教ですと、たいへん、不便です。今自分が繋がっているメディア(宗教)は、他所に行くと、使えなくなる。たとえば、仙台市から名取市に移ったら、メディアの端末を取り替えないといけない、となると、これはとても不便です。一つのメディアで、どこにいても、あらゆる情報にアクセスできる――そうなれば、便利です。「一神教」という宗教は、まさにそのようなものとして、出来上がったのでした。「一つだけのメディア」として洗練され、遂にローマ帝国全土をカバーするにいたった宗教が、キリスト教だったわけです。

(2)聖像問題
 ただ、キリスト教は、一つの悩みをもっていました。それは、「聖像問題」と呼ばれる大問題となります。

 キリスト教は、世界と人生についてのあらゆる情報と未来を人が知るための唯一のメディアとして、洗練されていきます。教会が、人と「唯一の神」を結び付ける「メディア端末」になるのです。教会によって、人は世界と人生についてのあらゆることが分かるようになる。つまり、キリスト教という一神教は、最新式のメディアそのものでした。でも、「最新式」についてこれない人も、たくさんいる。特に、ゲルマンの世界で生きてきた人たちは、環境の大きな変化に押し流されるように、新しいメディア=キリスト教に飛びつくのですが、急に飛びついた結果、どうしても取り残される人も出てくる。

 ゲルマン古来の宗教は、大地の女神を信じるものでした。それは、素朴で分かりやすい温かな「メディア端末」を持っていました。でも、それだと、変化の激しいゲルマンの世界を説明できない。変化に翻弄される人生を見通すことができない。それで、人々はキリスト教に飛びつく。でも、キリスト教は、とても理屈っぽい宗教である(だから、変化に対応できるのですが)。そのメディア端末は、無機質な「教会」である。どうも、ついていけない・・・やっぱり、もっと分かりやすい、やさしい、何かないものかな・・・。そういう人々の思いに応えるものが登場しました。それは、「聖像」と呼ばれるものでした。その代表例は、「マリア像」です。

 マリア様の像を作って、それで、神様につながる。それでつながれない事があっても、それはもう、それでいいや――携帯電話が進化して、携帯でゲームができ、ネットができ、撮影ができ、録音もできる。そんなの要らないから、もっと分かりやすいのがいいな・・・という感じです。

 キリスト教のタテマエとしては、“マリア様の像”によって神様とつながるというのは、とても困ることでした。そもそも、キリスト教の神さまは、ユダヤ教の神様を引き継いだものです。ユダヤ教の神さまは、十戒を制定していた。その第二戒には、「偶像礼拝の禁止」がうたわれている。それによると、ユダヤ教の神さまは、嫉妬する神であるというのです。ジェラシーを燃やす神。だから、神様を思い出すための像(偶像)を作ると、怒る。

 偶像に嫉妬する、ということの意味は、お分かりでしょうか。私は、よくわかります。

 私には、妻がいます。もうすぐ、結婚10周年です。もし、私が、愚かにも「女性は若い方が良い」と思い込み、10年前の妻の写真と映像ばかりを眺めて毎日を暮らしていたら、どうなるでしょうか。妻は、怒るはずです。10年前の自分の写真と映像に対して、嫉妬するはずです。何故でしょうか。それは、「妻」という人は、今、生きているからです。だから、自分の肖像に対して、嫉妬する。

 ユダヤ教の神様も、全く同じ理屈で、偶像に怒るのです。なぜなら、ユダヤ教の神さまは「今も昔も未来も、変わらずに生き続ける神」だからです。「唯一神」だからです。「唯一神」だから、偶像に嫉妬する。

 キリスト教は、この「唯一神」を引き継ぎました。従って、ユダヤ教の神様が怒ることは、キリスト教でも禁止されなければなりません。でも、ローマ帝国全体でのことです。範囲が広すぎる。細かいことは、目をつぶらなければ、回らない。こうして、人々が勝手に作る「聖像」という、“規格外のメディア端末”が残されることになる。これが、「聖像問題」でした。

(3)メディア規制・メディア規正
 このままではまずいなと思ったまま、時間が経って、8世紀=700年代に至ります。ローマ帝国は分裂していました。西側のローマ帝国は滅びました。教会は、東側のローマ帝国と疎遠になりつつありました。それでも、東西のキリスト教を支えているのは東ローマ皇帝である、ということになっていた、そんな時代の、700年代。「聖像問題」は、大問題となります。
 
 8世紀=700年代、東ローマ帝国は、とても苦しいことになりました。7世紀=600年代に、帝国の南にあるアラビア半島で、最新鋭のメディア=宗教が、誕生していたからです。それは、イスラム教でした。
 
 イスラム教というのは、大胆な発想転換によって生まれました。

 かつて、「多神教」の頃、人々は山を見ては、そこに「神様」を感じ、雷を見ては、そこに「神様」の存在を思った。それが、ユダヤ教・キリスト教を経て、山や雷を見ないでも、神様とつながることができるようになった。「山の神さま」「雷の神様」ではなくて、その向こうにある「唯一の神様」を考えられるようになった。こうして、自然現象を離れても、人は神様にアクセスできるようになった。そのために、教会という制度が整備された。人は教会という端末を通して、キリスト教という宗教を媒介に、いつでもどこでも「神様」にアクセスできるようになった。これは、進歩です。
 
 イスラム教は、更に、その先へと展開します。人が神様にアクセスするのに、メディア端末は必要だろうか?教会は、要らないのではないか?人が直接、ダイレクトに、「神様」につながればいいのではないか?そう考えた人がいました。それが、ムハンマド(マホメット)という人です。この人は、天才でした。この革命的な考えを、具体化していきます。教会もいらない。司祭もいらない。人は、直接、神様に接続できる。そんな宗教を作りだしたのです。

 この新しい宗教・イスラム教は、全く新しいものでした。発想の転換。そこに、キリスト教を凌駕する可能性が生まれました。そして、実際、キリスト教を凌駕して行く。具体的には、イスラム教で生きる人々の国ができる。それは大きくなる。人々はイスラム教に変わっていく。キリスト教の東ローマ帝国は、どんどん、縮小して行くことになる。

 慌てたのは、東ローマ帝国の教会でした。自分たちには考える事も出来なかった、全く新しい宗教が登場した。それは最新式のもので、人々はメディア端末なしに神様にアクセスできるようになるという。これは大変だ。

 翻ってキリスト教の中を見てみれば、どうか。せっかく、一つのメディア端末に統合して神様にアクセスできるようにしたのに、まだ、「聖像」を使っている人がいる。外では、端末なしに神様に接続する新しい宗教ができて、どんどんそれが広がっているのに、内側にはまだ、何世代も昔の端末で、限定された神様とのアクセスにこだわっている人がいる。これでは、負けてしまう。

 当時、東ローマ帝国では、皇帝が、教会の決定権を握っていました。それで、教会の総意として、キリスト教内から「聖像」を排除する命令を、東ローマ皇帝レオ3世が発令します。730年のことです。これからは、神様のとのアクセスを、教会一本に絞ること。それが、この命令の趣旨となります。

 これに怒ったのは、西側の教会でした。地中海の南側をすべてイスラム帝国に奪われ、大陸の東側には東ローマ帝国が勢力を維持している状況の中で、西欧は大陸に閉じ込められていたのです。イスラム教は、まさに「海の向こう」のこと。切実な問題ではなかった。他方で、東ローマ帝国は、イスラム帝国と直接向き合っている状態です。「聖像」の問題は、東西の教会において、全く違って捉えられる。西側は、東側の危機感を理解できない。もともと、東ローマ帝国の干渉にイラついていた西側の教会は、レオ三世の「聖像禁止令」に、いよいよ反発を強めることになる。

 こうして、東西の教会の分裂はいよいよ深まり、遂には互いに破門し合うという事態に至ります。メディアをめぐっても、東西の教会は、対照的な態度を取っていくことになるのです。それは、ふたつの「キセイ」として、整理することができます。

 東側のキリスト教では、神様と接続するメディアは「規制」されることになります。教会だけが、神様とつながるメディア端末となる。教会だけに、神様とつながるメディア端末を制限する。それ以外は、いけない。つまり、東側では「メディア規制」が行われたのです。制限する、使っていけないといっても、なかなか、メディア端末の規制というものは、徹底されるものではありません。結局、「聖像」は駆逐することができたのですが、「イコン」と呼ばれる「聖画」は、残りました。むしろ、規制の結果、「聖画」が流行ってしまった。そんな側面があります。

 西側のキリスト教では、神様と接続するメディアは「規正」されることになります。教会以外にも、個人で神様に接続する端末(たとえば聖像)を、持っていい。但し、それを悪用しないように、教会が「規正」する。正しく使うように、指導監督を行う。その結果、教会の監督下で、様々な端末が生まれ、進化します。それは、キリスト教という「神様につながるメディア」の強化につながることになります。このメディアによって、人々は全て神様とつながっている。ということは、そのメディアは、人々同士をつなげるものとも、なる。それを監督する教会は、メディアの支配によって、西欧中世の覇者になる。「教会の勝利」は、そのようにして導出されたものでした。


3.迷信との闘い・偏見との闘い――修道院・大学

 教会が、メディアを規正した西欧。それは、自由を巡る闘争で、教会に勝利をもたらした。しかし同時に、教会がメディアを規制しつつ育てたことにより、西欧においてはメディアが発達する。それは、現代の西欧文明の力の源泉となるものです。

 しかし、教会がメディアを独占支配している限り、現代の西欧文明は、生まれません。しかし、教会に立ち向かう新しい運動が起こってきます。それは、修道院と大学です。それは、新しいメディアとして、教会と並立し、時に対立することになります。

(1)迷信との闘い――修道院の功罪
 教会が、中世西欧における勝者となる。しかし、勝者は必ず驕り、堕落します。そうした時、それを正す存在がなければ、勝者は没落して行くのが歴史の常です。西欧中世の場合、教会が勝利した後、堕落しかけました。しかし、その教会の没落を防ぐ存在がありました。それは、修道院でした。

 既にアウグスティヌスの思想を御案内した時に確認した通り、もともと、修道院は「独居場」という意味でした。それは、エジプトの南の砂漠にひとりで修行する場として生まれました。しかし、アウグスティヌスその他の人々が、ローマ帝国の西側で、これを変えていったのです。中世西欧において、修道院は、自給自足の共同生活を通して神様に向き合おうとする宗教家の施設となりました。

 修道院は、教会とは違う組織です。教会は、あらゆる「信徒」を受け入れています。その中には、昔ながらの「迷信」を信じている人もいれば、本心ではキリスト教なんてどうでもいいと考えている人もいる。それが、教会でした。

 西欧においては、神様につながるメディア末端は、自由化されていました。但し、教会が、末端を規正していたのでした。。マリヤ像を介して神様とつながってもいいけれど、マリア様を神様にしてはいけません・・・といった感じで、教会が、聖像の使い方を規正していたのです。

 これは、教会と迷信との闘いと言えそうです。でも、教会は迷信に十分対応できませんでした。なぜか。それを説明するためには、「迷信」というものを正しく理解しなければなりません。「迷信」とは、何でしょうか。

 迷信とは、メディア末端そのものを信じてしまうことです。メディアは、意思を疎通させ情報を交換するための手段です。目的は、メディアの外にある。しかし、時に、人はメディアを目的そのものにしてしまう。そうすると、人はメディアを信じ、迷信にはまりこむのです。

 メディアは、人と人、神と人とをつなぐ媒体です。それは、つなぐだけです。メディアが神様ではない。でも、人はメディアに映るものを信じてしまう。ニュースだって、本当に起こっている出来事ではなくて、伝えられたお話を、本当だと信じてしまう。だから、「カノッサの屈辱」の話が、「教会の勝利」の物語として、西欧を駆け巡る。

 たとえば、天気を考えてみましょう。雷が鳴る。雷は、気象の急変を、私たちに伝えてくれます。でも、雷の轟音は怖いものです。だから、雷だけに目を取られると、迷信が始まる。雷様が怖くなって、雷様におへそを取られないようにかくれたりする(昔はそうしたのだそうです)。これが、迷信です。

 たとえば、病気を考えてみましょう。おなかが痛くなる。それは、食べ過ぎたことを体が知らせているのかもしれない。衛生状況が悪いことを示しているのかもしれない。でも、「痛い・苦しい」というのは、強烈な体験です。だから、腹痛に気を取られると、迷信が始まる。病気を治癒するために、おまじないをしたりする(今でも、まじない師の人は活動を続けているのです)。これが、迷信です。

 迷信というのは、メディアの端末を信じてしまうことです。そして迷信は、古今東西、常に人気があります。今でも、私たちはゲームに夢中になる。ネットに夢中になる。それは、ゲームやネットの「向こう」にある何かを求めているのではない。ゲームやネットそのものが、私たちを魅了するのです。だから、時間を浪費してしまう。気がつくと、中毒になってしまう。迷信とは、そういうものです。

 メディアが発達し、端末が豊かになると、迷信が流行ります。教会は、色々な人を受け入れなければなりません。だから、人々が迷信に夢中になっていると、教会は、これを充分に規正できなくなってくる。さらに、教会は、王様の力で支えられています。だから、王様が迷信にハマっていると、教会は、なかなか、「メディア規正」をすることができなくなる。

 そうした時、修道院が立ち上がります。修道院は、真剣な宗教者だけが集まっている場所です。更に、修道院は自給自足で運営されている。世の中のみんなが迷信にとり憑かれていても、修道院は冷静でいられる。迷信に振り回されることなく、自給自足のために必要なことを考えて実行できる。

 こうして、修道院は、迷信に立ち向かうことになります。そのことは、意外な結果をもたらしました。医療・農業・工業の技術革新が、修道院で推進されることになるのです。
 
 たとえば、天候のせいで凶作になることは、あります。迷信深い人は、一所懸命に雨乞いをしたりするでしょう。修道院は、違います。天候の向こう側にいる神様を考える。そして、天候の変化に対応した農業を開発する。

 あるいは、病気になることも、あります。迷信深い人は、病気の苦しみに恐怖して、必死におまじないをしたりする。修道院は、違います。病気の向こう側にいる神様を考える。そして、病気を治す技術を考える。

 こうして、修道院で技術革新が起こる。この技術革新によって、西欧は遂に、そこに住む人すべてが食べて暮らせる、豊かな土地になりました。修道院が、中世の西欧大陸を変えたのです。それは、9世紀(800年代)ごろまでのお話です。

 そして、「カノッサの屈辱」が起こる。教会が、勝利して行く。すると、同時に、教会が堕落し始めます。それで、10世紀から11世紀(900年代から1000年代)にかけて、修道院は、教会の改革運動を行います。「勝利」というものに夢中になってしまうのも、迷信の一つです。でも、「勝利」のむこう側には、神様がいる。そう考えれば、堕落から身を守ることができる。修道院は、この時も、迷信と闘った。それで、修道院が、教会の腐敗を食い止めた。

 修道院の働きで腐敗をかろうじて食い止めた教会は、十字軍遠征を仕掛けていきます。「イエス・キリストの十字架の地=聖地エルサレム」を、イスラム帝国から奪い取ろうとする戦争です。それは、西欧における中世のおしまいの始まりでした。

 西欧における中世とは、西欧大陸の中に閉じ込められた時代だったのです。閉じ込められているうちに、修道院の活動で、西欧は豊かになった。その富が、出口を求めて、大陸の外へと人々を駆り立てて行く。それが、十字軍遠征でした。

 十字軍遠征に参加した人々は、今まで見たことも聞いたこともないような場所に出て行くのです。途中で行き倒れてしまうかもしれない。その時もまた、修道院は活躍しました。理解不能な外国・敵地に、修道士を送り、土地を買い、建物を立て、十字軍遠征に出かける人々を無償で受け入れる施設を作りました。これをホスピトゥムといいます。現在のホスピスの始まりです。修道院は、福祉事業に拡大していった。それは、迷信に立ち向かう力をもつ修道院ならではのことでした。

 そして、十字軍の熱狂が収まる、11世紀以降のことです。イスラム帝国や東ローマ帝国に出かけた人々は、旅先で、驚くべき文明に出会います。それは、西欧の文明とは全く違う、ある面においては遥かに先進的な、大文明でした。そして、それに「かぶれ」る人たちも出てきます。そうした人々は、新しい思想を西欧に持ち込む。それは、イスラム文明であり、東ローマの文明でした。

 しかし、そのことに、修道院は過敏に反応します。また「新しい迷信」が生まれたのではないか。

 そして、修道院は教会と組んで、苛烈な宗教裁判を始めます。西欧社会を混乱させるような新しい思想を、片っぱしから摘発する。危険思想家は、全て、火あぶりにする。後に「宗教裁判」という言葉で語られる陰惨な事件が、続発することになります。

 純粋で熱心な宗教家たちが、修道院を舞台に、迷信からの自由を求めて闘う。それは、一面において技術の革新をもたらしました。また、一面において教会の腐敗堕落を食い止めもしました。しかしもう一面において、新しい思想を弾圧することにもつながったのです。「迷信」との戦いは、一つの闇の面をもちます。それは、「偏見」という問題です。自分の考えが正しいと思えばこそ、迷信に惑わされないで大胆に行動することができる。でも、自分の考えの「偏り」には、なかなか、気づけない。それで、宗教裁判のような事態も、引き起こされてしまうわけです。

 修道院は、この後も、迷信との戦いを続けます。そのうち、教会自体が迷信の巣窟なのではないかということに、修道院は気付いてしまう。そして、修道院の中から、宗教改革が始まることになります。でも、それは、また別のお話となるのです。今は、修道院の熱心の暗黒面、「偏見」の問題に、注目してみましょう。そこには、新しいメディアによる新しい「自由を求める闘争」が見出されることになる。それは、大学のお話になるのです。


(2)偏見との闘い――大学
 修道院の優れた功績は、技術の革新によって西欧中世を豊かにしたことでした。しかし、修道院の問題は、その熱心さによって偏見が露呈したことです。人は、熱心さと真面目さだけでは、「迷信」から自由になることができても、「偏見」から自由になることはできない。これを克服するためには、どうすればよいのでしょうか。今日、授業の冒頭で、私たちはlibertyという言葉を学びました。「書物」によって、人は自由になれる。書物を学ぶ場所は、学校です。西欧中世において、学校と、どのようにして生まれたのでしょうか。

 西欧中世は、もともと、大変貧しい地域でした。戦争が数百年にわたって相次いだのです。大地は荒廃し、人々の心も荒んでいました。そうした中では、学校を建てることは難しい。勉強をする暇があったら、何とか食べるもの・着るもの・住む所を確保するために働かなければならない。それが、貧しいという現実です。

 それでも、王様の所には、おカネが集まります。それで、王様が、学校を立てる。国のための人材を育てるための学校です。それは、フランク・ローマ帝国で確立しました。その学校のことを、「スコラ」と呼びました。ギリシャ語の「スコーレー(暇)」に語源をもつこの言葉は、これ以降「スクール」として定着することになったのです。

 王立のスコラが生まれた頃、民間にも、学校が生まれ始めます。それは、修道院でした。修道院は、最初、聖書の読み書きを教える技術をもっていました。そして、自給自足を進めるうちに、様々な技術革新を起こす。そうすると、その新しい技術を教える事が出来るようになる。人々は、修道院に技術を教わりに来る。修道院は、民間の学校となっていきます。

 そして、その後、中世が豊かになり、十字軍遠征の喧噪も収まった12世紀(1100年代)になって、やっとできたのが、大学です。

 最初に、国家の人材育成のために、王立スコラができる。これは、今の日本で言えば、東大法学部と同じ種類の学校です。それから、修道院が技術を教える学校の役割を果たし始める。これは、専門学校と同じものと言えるでしょう。そして、大学が生まれる。それでは、大学とはどんなことをする学校なのでしょうか。大学とは、教養を教える場所です。教養とは何か。それは、「humanitas=人類の学問」を学ぶことなのです。

 「国家のために役立つ人材教育」、あるいは、「今ここで必要な技術を教える教育」。そうしたものも、大切な教育です。しかし、大学で教える「教養」とは、それらと全く異なるものです。「教養」は、人類のための学問なのです。今ここにいない人、あるいは、国家にとって的になる人も、「人類」です。「教養」とは、そうした「人類」のためになされる学問である。まだ生まれてきていない未来の人々、見たこともない人々、敵している人々、そうした人々のための学問。それが、大学で学ばれる事柄になります。

 大学が生まれるためには、三つのものが必要でした。第一に、治安です。第二に、流通です。第三に、新しいメディアです。この三つのものが重なって初めて、やっと「大学」が生まれる。大学とは、そういう学校です。

 神聖ローマ帝国が確立し、教会と皇帝の関係も確定した。そうやって、やっと、治安が良くなる。教会関係者でなくても、安心して旅をすることができるようになる。そうなって初めて、流通が改善される。人・モノ・カネが、大陸の中を自由に行き来できるようになる。そして、これまでとは全く違うメディアが生まれる。新しいメディア。それはいったい何でしょうか。それは、「学者」です。「学者」の頭がメモリとなり、「学者」の足が通信回線となり、「学者」の書く文字・語る言葉が、情報そのものとなっていく。ここに、キリスト教とは別の、新しいメディアが始まるのです。

 十字軍遠征の結果、新しい知識が西欧大陸に入り込んできました。でも、教会は、その情報を統制している。そのことで、却って「知りたい」という欲望を募らせる人々も、出てくる。教会が「無価値だ」と判断するから、その情報は流通しないのです。みんなが無価値だと思っている。それでも、それを学びたい。そう思う人のことを、「学者」といいます。

 学者たちは、始め、橋の上で集まったそうです。「あっち側」と「こっち側」を結ぶのが、橋です。そうした場所で、学者たちは情報を交換する。どうしてもわからないことがあれば、情報をもっている人の居場所を探り出し、そこまで行って、学ぶ。西欧大陸に、新しいメディアが登場しました。この「学者」は、そのうちに組織を作り始めます。それは、当時の流行に乗ったことでした。

 当時、さまざまな技術者たちが、組合組織を作り始めていました。鍛冶屋さん、商人、医者、その他、色々な組合が生まれた。この組合を、当時の言葉では「ウニベルシタス=universitas」と言いました。「一つになったもの」という意味です。そして、学者たちも、自分たちの「ウニベルシタス」を作り始めます。時代が下り、技術者たちの「ウニベルシタス」は「ギルド」と名前を変えていきます。しかし、学者の「ウニベルシタス」だけは、そのまま名前を残し、今の「University=大学」となるのです。

 大学では、偏見のない学問が行われました。自分たちのためだけの学問ではない。人類の学問です。それは、教会当局から見れば、危険なことでもありました。しかし、それは、新しい時代を切り開いていく足掛かりになったのです。

 一つだけ、例を挙げます。

 イスラム帝国から入ってきた新しい情報の中で、とりわけ気になることが一つありました。それは、古代ギリシャの哲学者の情報でした。中世西欧において、ギリシャ哲学と言えば、プラトンでした。プラトンと並び称されるアリストテレスは、長らく忘れられていたのです。アリストテレス哲学は、イスラム帝国の中で、大切に保管され、丁寧に育てられていました。その存在が、遂に、西欧にも伝わってきた。しかし、西欧からみれば、それは「イスラムの哲学」でした。それは「新しい迷信」に見える。だから、その情報はなかなか流通しなかった。

 しかし、一人の学者がこの情報を求めて活動を始めます。トマス・アクイナスという人でした。この人は修道士でしたが、学者でした。学者として、この人は新しい哲学の情報を探し求めます。どうにか資料となる書物は、手に入りました。しかし、読めない。その書物が、アラビア語だったからです。それで、アラビア語が読める人を探して、その人の所まで行って、手伝ってもらって読む。そこには、驚くほど豊かな新しい哲学が書いてある。トマスは、この新しい哲学(アリストテレス哲学)を摂取して、新しいキリスト教の理論を作り出します。そして、それを、本にして出版し、流通させる。

 この動きにびっくりしたのは、当時の教会でした。教会が認めていない情報が、教会ではないメディアによって、流通し始めた。これは「新しい迷信」なのではないか。トマスは、大学で危ないことをしているのではないか――異端容疑が、トマスにかかる。トマスは疑いを晴らすべく、あちこちに出頭して説明をする。そして、その説明の旅の帰途、トマスは病気で倒れて亡くなる。

 しかし、このトマスの神学が、今に至るまで、キリスト教史上最高の神学の一つされることになるのです。この神学で、教会は今に至るまで崩れずに維持されている、と言ってもよい。後の時代に必要になる思想は、このようにして生まれるのです。

 最後に、皆さんにエールを送りたい。今、東西冷戦が終わって、治安は劇的によくなりました。そして、流通は、この数十年間に飛躍的に進歩したのです。私は、博士論文を書くのに、日本にいてメールとファックスで大英図書館の資料を手に入れ、研究することができました。このようなことは、20年前には、考えられなかったことです。治安と、流通。この二つは、今やっと、確保されたのです。そして、今まさに、「新しいメディア」が生まれつつあります。パソコンやケータイその他の端末の進化が、新しいメディア――ツイッターやユーストリーム等――を生み出しつつある。皆さんは、その中に生まれ、大学に行こうとされる。新しい時代の「人類のための学問」は、皆さんによって生み出されるのです。どうぞ、そのような気概と志をもって、大学受験をなさいますように。心から、エールを送りたいと思います。

私の授業は、これで終わりです。


© Rakuten Group, Inc.