仙台散歩 : 「1月31日 脱原発みやぎ金曜デモ」 雪は小降りに!
朝6時にイオと散歩に出かけたときは、小雨にちらちら雪が混じる程度だったが、明るくなったらすっかり雪になっていた。天気予報では曇りときどき晴れだというのに、一日中ずっと降ったり止んだりしている。デモに出かける前、ふたたびイオと夕方の散歩に出かけたときには、広瀬川の河原には10cmほど積もっていた。 デモに出かけるかどうか、少しためらっていた。なんとなく体の動きがほんとうではない。昨日まで4日間、東京を歩き回ってきた。登山後の疲労のような感じだ。 デモをさぼる理由がただの遊びすぎでは、自分に向けてうまくエクスキューズができそうにないので、とにかく出かける。雪は小降りだがまだ降り続いてる。勾当台公園野音のベンチには雪が。 (2014/1/31 18:16) 18時15分頃、勾当台公園野外音楽堂に着く。ベンチには雪が積もっていて、みんな立ったままスピーチを聞いている。当然ながら、いつもよりは人は少なめだ。雪が降るくらいだから、冬としてはそんなに寒くない。仙台は雪降りの日は暖かいと相場が決まっている。中途半端に濡れるのが不都合なのだ。定禅通りの向こうは一番町。 (2014/1/31 18:46) デモに出発したが、今朝から張りを感じていた大腿部に筋肉痛が起きはじめているようだ。それに、気持ちがどことなくぼんやりしていて、どうにもコールに合せて大きな声が出ない。列の最後部にくっついて歩いているだけ、という感じになってきた。 一番町を行く(1)。(2014/1/31 18:46) 東京に4日間いたが、都知事選挙のポスター掲示板はいくつも見たけれど、選挙カーや選挙演説の場面には一度も出会わなかった。選挙権はないものの一時は注視していたのだが。 宇都宮さんだけが立候補表明しているときは、前回の都知事選の票数から見て、よほどの奇跡が起きないかぎり当選は覚束ないとはいえ、「脱原発」キャンペーンとしてとても大事な運動になると思っていた。 そこに、細川さんが「原発ゼロ」を標榜して立候補するというニュースで、にわかに「脱原発」候補が知事選に勝つ可能性が現実味を帯びてきた。明らかに政治的立場が違うとはいえ、政治を志している人たちなのだから、困難があっても共闘の話し合いぐらいには入るだろうと淡い期待もしていた。少しばかり夢中になって情況をネットで追っかけていたのだが、どちらもまったくその気配はない。それどころか期待とは真逆に脱原発派同士のネガティブ・キャンペーンが始まった(ネット用語でそれを「互いにdisる」と言うことを今回初めて知った)。 愚かなことにそのときはじめて気がついたのである。これはデジャブだ。何度も何度も見てきたことだ。長い年月、どれほどの選挙で投票してきたことだろう。私が投票した候補者が当選するなどということはほとんどなかった。何よりも当選しそうな状況が生まれたとき、いつも左翼どうしの足の引っ張り合いが始まるのだった。それでも私は投票するしかない。 左翼病である。日本の左翼にとって大事なのは「左翼としての正統性」なのだ。そして、選挙に勝ちそうになればなるほど「正統」争いは激しくなるのだ。その姿は、政党なのに政権に近付くことより正統左翼だと自認できることの方が大事だと言わんばかりなのである。政治的アクチュアリティへの対応能力が絶望的に欠如しているのだ。ずっとそうだった。 それで、いまは東京都知事選挙を少しは距離を置いて眺められる。せめて私は「dis」らないようする。仮にどちらかの脱原発候補者が勝つという結果で選挙が終ったにしても、脱原発運動は続くのだから。 一番町を行く(2)。(2014/1/10 18:48) ただ、ネット言説でとても気になるものがあった。「たとえ今度の選挙で勝てなくとも、正しい脱原発運動は子どもたち、孫たちに受け継がれていくだろう」という趣旨のものだった。それは違う。少なくとも私は、子どもたちの世代に原発を残したくないと思ってデモを歩いている。 脱原発の運動そのもの、運動を続けることそのものに意味があるのではない。脱原発が実現することにしか私がこうしてデモを歩いている意味はないのだ。「正しい運動」をやっているのだから脱原発が実現しなくてもいい、などという自己満足は明らかに欺瞞だ。それでは、脱原発デモはただのマスタベーションに過ぎなくなる。 そんなことを考えながら歩いていたら、身体がだんだん重くなってきた。デモから離脱して、近くの本屋に入った。奥の方の椅子に座って本を読むふりをしながらの休息である。身体が温まってから、バス停に向かう。