「8月25日 脱原発みやぎ金曜デモ」 原子力政策はブラック・デモクラシーの実践である!
「ブラック企業」とか「ブラックバイト」という言葉はすっかり定着して、今では「ブラック企業大賞」なども設けられていて、社会からの批判の構造はそれなりにできているように見える。とはいえ、労基法を的確に適用していけば防げていたような事例が後を絶たない。電通の例のように、人の生命が失われてからやっと適用されるのがせいぜいに思える。つまりは、政治のレベルでブラック企業を防ごうという意欲も努力も私には見えないのだ。 最近は、「インパール企業」などという言葉もネットで見かけることがある。先の戦争のインパール作戦のように、無能な指揮官のもとに壊滅に向かう企業のことを指すらしい。さしずめ、東芝や東京電力がその例ではないか。世界では、賢い指揮官を持つ企業の原子力からの撤退が続いている。日本の原子力産業は、自公政権という世界情勢や歴史に盲目な指揮官のもと壊滅へ歩を早めている。政府の「エネルギー基本計画」には、「原子力政策の再構築」という現代版インパール作戦が組み込まれている。 ブラック企業やインパール企業が後を絶たないのは、日本の社会(柳田国男ふうに「世間」と呼んでもいい)がそれを許してしまっているからではないか。『ブラック・デモクラシー』 [1] という本を読みながらそんなことを考えた。仙台市図書館で見つけた本で、藤井聡さん、適菜収さん、中野剛志さん、薬師院仁志さんが論考を寄せ、湯浅誠さんと中野さんの対談も収録されている本だが、まだ読み始めたばかりである。 編著者の藤井さんは大阪維新の会の大阪都構想の欺瞞性を厳しく批判して、橋下前大阪市長や松井大阪府知事から激しい口撃や圧力を受けた経験を書いている。つまり、大阪維新の会が行っていた政治にブラック・デモクラシーの典型を見ることができるということだ。 ブラック・デモクラシーを端的に言えば、「多数決を金科玉条とするデモクラシー」であると藤井さんは言う。学校でのいじめは、みんながやっているからといじめる多数の側に加わることで成り立つブラック・デモクラシーの単純な例である。 ブラック・デモクラシーは、デモクラシーの基本である熟議を否定する。藤井さんは、デモクラシーを「真っ黒に仕立て上げ、邪悪なものであろうとなんであろうと政治的正当性を付与する」ものとして次の4つの振舞いを「ブラック・デモクラシーの四要素」として挙げている。(1)多数決崇拝:多数決の結果こそ崇高なるものだと主張する。(2)詭弁:弁証法的議論の全てを遠ざけ、ひたすらに「詭弁」を弄し、「真実」に基づく批判を無力化し、封殺する(したがって、これもまた「言論封殺」の一種である)。(3)言論封殺:あらゆる権力を駆使して「言論封殺」を図る。(4)プロパガンダ:あらゆる心理操作を駆使して、自説への贊成を増やすための嘘にまみれたプロパガンダを徹底展開する。 橋下前大阪市長が率いていた大阪維新の会がこの「ブラック・デモクラシーの四要素」を徹底して行っていたことは、この本に詳述されている。橋下前大阪市長とその支持者の言動については、想田和弘さんも『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』[2] という本で論じている。つまり、日本人は「ホワイト・デモクラシー」を捨てて「ブラック・デモクラシー」を選ぼうとしているのではないかと想田さんは問うているのである。 大阪維新の会の手口を学んだかのように「ブラック・デモクラシーの四要素」を盛大に実践しているのが現在の安倍自公政権なのだ。国会における熟議は全面的に否定され、すべての大臣は質問に答えることなく(答えられずに)日本語ならざる言葉をだらだらと流すだけで、最後は強行採決ばかりである。数こそ力だ、という理屈をそのまま実践しているのだ。「自由民主」というのは、〈Freedom and Democracy〉ではなく〈Freedom from Democracy〉ということらしい。民主主義のルールにまったく縛られない自由を標榜している政党なのだろう。 いま、日本の民主主義は暗澹たる状態に陥っている。だが、日本の民主主義は必ずしも日本の国民の歴史的営為で獲得したものだとは言えない。だから、逆様に考えれば、今の情況こそが真正の民主主義を自らの手で勝ち取っていく絶好の機会でもあるのだ。一夜漬けで身につかなかった民主主義から、わが身に沁み込ませるように創り上げていく民主主義のチャンスだと考えることにしよう。半ば悔し紛れには違いないが、そんなことを考えた。 大阪都構想の住民投票前の維新の会のプロパガンダの様子を書いた適菜収さんの「潜入ルポ これぞ戦後最大の詐欺である」まで読み終えた。私たちがいま現在、目の当たりにしている政治のなかにブラック・デモクラシーの例をたくさん見出すことができるので、この本に書かれていることはじつによく理解できる。 ただし、ブラック・デモクラシーを蔓延させる理由の一つとして、マスコミ・ジャーナリズムがそうした不正への批判力を失っているということがある。そのため、テレビや大新聞のニュースばかりではブラック・デモクラシーの本当の様子がよく伝わらないことがある。ネットで流れるニュースはとても役に立つのだが、ネットはネットで「玉石混交」のニュースが無差別で流されるという問題がある。 第3章の中野剛志さんの「どうすれば民主政治から自由を守れるのか」という論考を読み始めたところで時間になった。老犬を散歩に連れ出してから、着替えて錦町公園に向かうのである。錦町公園から定禅寺通りへ。(2017/8/25 18:46~19:07) 集会が半ば過ぎてから錦町公園に着いた。すでにもう真っ暗である。公園の北東の端で集会が開かれているのだが、正反対の南西の入り口から入った私には、参加者がほとんどいないように見えた。 脱原発カーのライトとトイレの灯が集会に集まった人の一部だけを照らしていて、大半は暗闇の中に立っているのだった。近づいて、闇の中にたたずむ人たちを見つけてやっと安心した。一番町(定禅寺通り~広瀬通り)。(2017/8/25 19:15~19:22) 今日のデモは35人だったが、最近の金デモは、35人から45人くらいの参加者で推移している。固定メンバーが多いのは確かだが、それでも「しばらくぶりですね」と挨拶する人、したくなる人は必ずいる。そんな人が重なると50人くらいにデモは膨らむのである。 そして、ときどき不思議にうたれるのだ。それぞれの個別の事情を捨象して、こんなふうにここに集まり、同じコールに声を合わせている。じつのところ、それぞれの個別の生活を互いによく知ることはないのだが、ここから「われわれ」とか「私たち」が始まっているのだという実感はある。このささやかな確認こそが、この社会を生きる強い支えになっているのだと信じている。一番町(広瀬通り~青葉通り)。(2017/8/25 19:23~19:28) 原発は明治維新戦争(戊辰戦争)において賊軍となった地域に設置された、そういう説を思想家の内田樹さんが語ったというネット記事(元記事は『SAPIO』2017年9月号)を読んだ。高校生のインタビューを受けての発言をブログに掲載したものだという。 ネット記事によれば、国内の原発は17か所に54基あるが、その内13か所46基が戊辰戦争で旧幕府側だった藩のあった県に集中しているという。明治維新以降の藩閥政治が、賊軍地域を差別することによって経済格差が生まれ、昭和以降の原子力政策はその貧しい地域へ原発を押し付けた(あるいは、経済発展のために原発を受けいれざるをえなかった)というストーリーである。 きわめてもっともらしいストーリーだが、これが社会学的に正しいかどうかは、戦後の地域経済格差が生まれる主要な契機が明治時代の藩閥政治による地域差別政策にあったかどうかにかかっている。残念ながら、私はその正否を判断できないが、少なくとも結果的には原発が賊軍地域に多く建設されたことは間違いない。 ただ、原発を押し付ける側も受け入れる側も、そこが戊辰戦争の敗者の地であることと原発建設が関連していることに自覚的だったとは思えない。例えば、田中角栄もまた原発推進の政治家の一人だったが、彼の考え方はあくまで農漁村の票を原発とともに中央から支払われる資金と交換するという政治戦略にすぎなかった。つまり、中央資本の側(体制派)に地方の農漁村(反体制派)を取り込む政治戦略の一つにすぎなかった。これは、安冨歩さんが『幻影からの脱出』[3] という本で詳述している原発建設の背景の一つである。 戊辰戦争において賊軍となった地域が原発建設地として狙われたかどうかはさておいて、原子力政策が地域格差をベースにして推進されたことは間違えようがなく、原発が日本の差別構造の象徴であることはまぎれもない事実である。 日本の差別構造を超克することと脱原発を実現することが不即不離の関係を保って私たち(つまり、「われわれ人民」)のタイムテーブルに載っているのである。青葉通り。(2017/8/25 19:29~19:38) この数日、夏らしい暑さがぶり返している。雨続きの冷夏が続いての暑気で、変化に追い付けず、いくぶん体がだるく感じる。 例年であれば、仙台ではお盆を過ぎれば秋風が吹くのだが、今年はまだそういう季節に移り変わりを実感できていない。とはいえ、写真に写る仙台の夜景はどことなく鮮明さが増したように感じて、もしかしたら、この暑さの中でも秋の大気が満ち始めたのではないかと思ってしまう。 そんなふうに秋の大気のことを思いながら汗をかいているという矛盾の中、デモは終わり、一段と暗さの増した道を帰る。[1] 藤井聡編著『ブラック・デモクラシー――民主主義の罠』(晶文社、2015年)。[2] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。http://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/1d6b3ef9b610116189a373f6ed81a4fc[3] 安冨歩 『幻影からの脱出――原発危機と東大話法を越えて』(明石書店、2012年)。http://blog.goo.ne.jp/hj_ondr/e/e0d26f9fc8d8658ce4a9002be6d7d96c 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺