「4月29日 脱原発みやぎ金曜デモ」 文化的後進国といえども脱原発を!
ある若い歌人の短歌一首を引用して今日のブログを書き出そうと思っていたのだが、その短歌を思い出せない。ここ2カ月ほど読む本に困って何冊かの歌集を読み返してばかりいた。 一週間ほど前、とても疲れた日だったので、早めに風呂に入って、歌集の一冊を読んでいた。ある一首に惹かれてあれこれ思いめぐらせていると、いろんな考えが次々につながってきてきちんと文章化できるような気分になったのだった。 このブログとは別立てで読んだ本のことなどを書いているので、たった一首の短歌だけを取り上げて一文を仕立て上げようかなどと思ってもみたが、それほどたいそうなことではないと思い直して、デモのブログの枕にしようと思ったのだが、その短歌を思い出せないのである。それどころか、あれこれ考えたはずの内容もすっかり消え失せたのである。その時読んでいた歌集の付箋を貼った箇所を何度読み返しても思い出せないのである。 頭の中であれこれ考えるというのがどれほどあてにならないか、実験物理学者の経験として身にしみて分かっていたはずである。実験結果の解釈に苦しんで、目があいているときはそのことばかり考えていて、歩いているときや布団のなかで目覚めたときに「これだ」というアイデアが浮かんで、仕事場の机に座るまでの間、頭のなかであれこれ検討してそれなりに確信らしきものが生まれて、いざ論文を書き始めるとあっさりと論証不可能な個所が見つかる。たいがいの場合、気が付いていなかった論理の飛躍が見つかって終了する。 頭の中だけで考えるという作業を論理的だと考えるのは危険なのである。その考えをきちんと人に話せるか、文章化できるか、いわば正確な言語化が必要なのだ。いやになるほど身にしみて経験してきたのだが、普段の生活でも似たような経験を繰り返してがっかりしているのである。 そんな日々が続いている。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2022/4/29 14:03~14:16) 3月11日以来だから2ヶ月近いデモ参加のブランクがあった。取り立ててわが身に特別なことが起こっていたわけではないし、参加できなかった断固たる理由があるわけではない。たしかに仕事で参加できない日もあったが、ちょっと疲れ気味だったり、微熱があったり、時には単に外出する気分になれないということもあった。ここ二週間ぐらいはこまごました小さな仕事が重なって、ほかのことには気が回らないということもあった。 そんなこんなで2カ月が過ぎた。サボるに値する立派な理由があるわけではないが、一言で片づければ「年相応に老いている」というに過ぎない、残念ながら………。 久しぶりの元鍛冶丁公園は小雨模様である。とても肌寒い。午後2時だが、どことなく暗く、陰湿な感じがする。「昭和の日」というのは、昭和天皇の下で死んだ何百万の戦争犠牲者を悼む日である、そう思えるような気候である。 25人のデモ人は雨を避けてステージの屋根の下に集まっている。主催者に促されて「お久しぶりです」とスピーチを始めた人もいた。あまり長く休むと、スピーチを促されることになりそうなので気をつけないといけない。そうでなくても、デモを休んでる間に人前で延々と話さなければならない仕事もあってうんざりしているのである。 「今度の7月で「脱原発みやぎ金曜デモ」が始まって10年になります」と始まったスピーチもあったが、10年で満期になるわけでもない脱原発デモは雨の中を粛々と繁華街に向かったのである。一番町。(2022/4/29 14:21~14:28) 脱原発デモが始まってまもなく10年になるのだが、世界的な脱原発への歩みは遅々としている。文化的先進国の中には敢然と脱原発に踏み切った国もあるが、日本のような文化的後進国ではいまだに原発にしがみついている。 原発のような地球全体の生命を脅かすような危機に人類は立ち向かえるのか。9年前に次なような文章を書いている(「「8月30日 脱原発みやぎ金曜デモ」 夕闇の中を!」)。 最近、『エコ・デモクラシー』という本を読んでいる。「フクシマ以後、民主主義の再生に向けて」というサブタイトルが付いているが、フクシマ以前に書かれた本で日本での訳本の出版がフクシマ以後だったと言うだけである。 環境問題、生物圏の危機を扱った本なのだが、それを読むと原発問題はそこで述べられている様々な環境問題を超えてさらに生物圏の危機を拡大させていることが理解できる。 そして、その本が指摘している極めて重要な問題点は、近代が獲得した代表制民主主義という政治システムが地球という大きな生物圏の危機を解決することは不可能に近いということである。 著者は、その解決のために「エコ・デモクラシー」を提案しているが、それはハーバーマス流の熟議民主主義とも言うべきもので、代表制民主主義に代わるべき新しい民主主義でないのが少し惜しい感じがする本である。 人間が生きているこの地球上の生物圏へ向かうような眼差しを持つならば、原発問題にどう対処するかは議論の余地がない。フクシマ以前であっても、そのことに気付いている人はたくさんいた。 夢に見るわれは抜け髪チェルノブイリ汚染地域の雨にまみれて 道浦母都子 〈何度も事故があるのに......〉 いきいきと婚姻色に輝きて作動していむ原子炉の火は 道浦母都子 優れた歌人の鋭敏な感受性と確かな想像力がなければチェルノブイリからフクシマに辿り着けない、などということは絶対にない。私のような凡庸な人間の想像力でも、放射能の「雨にまみれ」る恐怖は鮮烈なものだ。(2013年8月30日) もちろん、国際政治機関が地球上の環境問題に取り組むなどというのは可能性があるとしても遠い先の話だろう。当面、私たちはこの日本という一国の問題として脱原発に取り組むしかないのである、たとえ文化的後進国であっても。青葉通り。(2022/4/29 14:32~14:40) 暖かい日が続いたこともあって、今日はことさらに寒く感じる。やはり、昭和の大量の死者たちを悼む「昭和の日」という実感はどこまでも続く。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)