これを「街歩き」や「散歩」のカテゴリーに入れるのは無理があるかな。しかし、「歩き」はデモの主要な属性の一つなので、「仙台散歩」だと強弁するのである。こうすると日常的な「脱原発」になりそうな気がする。
7月20日(金)に「大飯を止めろ!女川再稼働するな!子供を守れ!汚染はいらない!みやぎ金曜デモ」(略称:脱原発みやぎ金曜デモ)が開催され、夕方の街に出て行った。
当初は、2、30人くらいの集まりかなと思っていたのだが、東京で17万人なら人口比で仙台では1万5千人くらい、という妄想も浮かぶ(集合場所に無理があるが)。
集会とデモの予定は次の通りである(結果は、みごとに予定通りだった)。
7月20日(金)
18時:元鍛冶丁公園集合、フリートーク
18時40分デモ出発、デモコース:元鍛冶丁公園→一番町→青葉通→19時30分ごろ仙都会館前流れ解散
「仙都会館」が今でもあるとは知らなかった。懐かしい名前である。40数年も前のデモのように「仙都会館前流れ解散」なのである。
会場に着くと、想像以上に人が集まっている。デモ出発前には300人くらいになったようだ。

元鍛治丁公園に集まり始めた人々。 (2012/7/20 18:24)
主催者の挨拶、東京の金曜デモの報告、参加者のスピーチが進む。参加者の中には東京のデモに参加した人が20人ほどいた。スピーチでは、大阪、岩手からの参加者、放射線防護服を着た南相馬市から来た女性もいた。
最近読んだ大澤真幸の本 『夢よりも深い覚醒へ ――3・11後の哲学』 (岩波新書、2012年)に、次のようなことが書いてある。
原発の存在、さらに原発の残留物の存在が、すでに、それ自体、潜在的な原発事故である。つまり、原発事故という破局は――原発を一度でも建設し使用し始めてしまえば――半永久的に持続する。 [p. 28]
そして、そのことは40年以上も前から分かっていたはずだ。それなのに、「核兵器」と「原子力の平和利用」、という愚かな二者択一の論理に引っかけられてきた。「原子力の平和利用」とは即、原子力発電所である。
大学、大学院と原子力工学を学んだ私も、原子炉の安全性に対する政策が間違っていると考えていたが、それは論理的には、安全対策が十全であれば原発を認めるということにつながる。当然ながら、「人間が作ったもので壊れないものはない」ことは知悉していたし、「原子炉が壊れれば破滅的である」であることも知っていた。だが、その両者を論理的な厳密さで結びつけることをしなかった。気分的にはずっと反原発であったが、その程度だったのである。大澤真幸の言う「アイロニカルな没入」で原発問題に対してきた。それが悔やまれる。
しかし、「事態」は起こった。大澤真幸が言うように、始まってしまったのである。
〔福島第1原発〕事故は、否定的な仕方で――悲惨な災害を媒介にして――、「神の国」の到来を告知した。この場合の「神の国」とは、原発を必要としない社会、原発への依存を断った社会である。われわれは、今すぐに動き出さなくてはならない。この「神の国」の意味が実現するように、である。……
イエスは、こう言っている。「手を鋤につけてから後ろをふり向く者は、神の国にふさわしくない」(「ルカによる福音書」9章62節)と。手を鋤につける、とは神の国に入ってしまった、ということである。もはや神の国に入ってしまったのだから、後ろを顧みるわけにはいかない。原発に未練を残すわけにはいかない。 [p. 192]
もう後戻りはできないのである。
そうして、私の気分に同期するかのように、デモは出発するのである。それにしても、若い頃とまったく同じように、シュプレッヒコールの声が出ない。「ほんとにこれは苦手だなぁ」と思いながら歩いていると、そんなことはないのであった。いつの間にか大きな声が出ていたのである。
私はデモの前の方を歩いていたので、太鼓(ボンゴ?)やタンバリンなどのリズムにすっかり乗せられたということらしい。ポケットに石礫を詰め込んでいた若い頃のデモとは大違いである。
私の前後には、乳母車を押す若いカップル、3才と5才くらいの子供の手をひく若いお母さんなどが歩いていて、考えてみれば、私にはこんなデモは初めてである。
問題は深刻だけれども、デモ(散歩?)は楽しかった。

繁華街・一番町のアーケードの下を行くデモ。 (2012/7/20 17:01)
いろんなシュプレッヒコールを叫んだけれども、胸が締めつけられるような一つがあった。
「フクシマ カエセ!」