先週の金デモから今日までの10日は時間の進み具合がとても遅く感じられた。どうしてかは判然としないが、衆議院選挙のせいかも知れない。自公勝利の予測がマスコミで大々的に流れ、結果もその通りになって、その後の選挙分析もまた完璧なデジャブのごとき時間の流れ方だった。既視であれば注視する必要もなく、すこしばかり現実から遠ざかっていたのかも知れないのだ。
その間、何をしていたのか。しばらくぶりで本屋に出かけた。そこでまだ読んでいなかったアガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』 [1] を見付けた。ついでに仙台市民図書館に寄って、1ヶ月ほど前に読んだスティグレールの『象徴の貧困』 [2] をもう一度借り出した。そのときアルチュセールの『マルクスのために』 [3] という本を見付けた。この本は、昔、『甦るマルクス』というタイトルで出版されていたものの再刊だというが、何十年ぶりかで読んでみようと思い立ってこれも借りてきた。家に帰って、スティグレールの本に関連するだろうと、納戸を掻き回してボードリヤールの『象徴交換と死』 [4] を探し出した。
選挙(の予測や結果の)情報を遠ざけるような気分になって、本を読みふけっていたばかりではない。選挙当日には、NHKのBSで放送していた『もう一つのヘイ・ジュード』というドキュメンタリー(だいぶ以前に放送したものらしい)をそれなりにしっかりと見ていて、強く印象に残っている。
その長かった10日目の日曜昼デモは、今年のデモ納めでもある。

集会前の歌唱指導。(2014/12/21 14:11、14)

元鍛冶丁公園の集会風景。(2014/12/21 14:25~30)
集会前に、先週も歌った「赤鼻のトナカイ」の替え歌で脱原発ソングの練習があった。サンタクロースとトナカイが主役での声合わせである。 サンタクロースがたくさん参加して集会が始まる。中にはトナカイの着ぐるみの人もいるが、6人ほどのサンタクロースに1尾だけのトナカイである(過重労働だ)。

スピーチする人たち。(2014/12/21 14:16~33)
代表の西さんの挨拶からスピーチが始まる。みやぎ脱原発・風の会代表の篠原弘典さんが女川原発再稼働に向けた東北電力と宮城県の動きを批判しつつ、総括的な報告を行なった。
同じように、仙台市の動き(脱原発への動かなさ)について厳しく批判する市議会議員の花木さんのスピーチがあった。その動かない仙台市に働きかけるムーブメントとして「仙台市に原発ゼロを求める市民連絡会」を作ろうという呼びかけが、広幡さん(女川原発の廃炉をめざす泉区西部の会)からなされた。

元鍛冶丁公園を出発する。(2014/12/21 14:37~40)
風はあるもののそんなに強くはない。それでも集会中にどんどん冷え込んでくる。デモへ出発の合図を聞くと、少しほっとする。歩き出せば、多少は寒さをしのげるのではないかと思ったのだが、これは甘かった。私にはとても寒いデモになってしまった。昼デモなので、防寒戦略に怠りがあったのだ。
アガンベンの本は、アウシュヴィッツに収容された人びとの「証言」を取り上げて、歴史的な極限状況について言葉による証言の可能性(不可能性)を論じたものだが、そこに「der Muselmann」と呼ばれる収容者についての証言が紹介されている。
ムーゼルマンは直訳すれば「回教徒」という意味だが、一般のモスレムではけっしてない。人間としての心を失い、飢えと病気で死に絶えんばかりの肉体がモスレムの祈りの姿のように地面にうずくまる姿勢からそう呼ばれたのだという説がある。
ムーゼルマンは、「あらゆる希望を捨て、仲間から見捨てられ、善と悪、気高さと卑しさ、精神性と非精神性を区別することのできる意識の領域をもう有していない囚人」であり、「よろよろと歩く死体であり、身体的機能の束が最後の痙攣をしているにすぎ」 (p. 51) ない囚人である。ムーゼルマンは「ゴルゴンを見た者」 (p. 67) だ。ゴルゴンを見た者は人間ではなくなり、死に至り、 決して人間の側へ戻ってくることはない。
ムーゼルマンのことを読みながら、気になる一節があった。日本の選挙の時期に、選挙のことどもを連想するというあまりに卑近な私の妄想を少し恥じ入りながら、あえて紹介しておく。W. Sofskyの著作からの引用である。
回教徒は絶対権力の人間学的な意味をきわめてラディカルな形で体現している。じっさい、殺すという行為においては、権力はみずからを廃棄してしまう。他者の死は社会的関係を終らせるからである。反対に、権力は、みずからの犠牲者を飢えさせ、卑しめることによって、時間をかせぐ。そして、このことは権力に生と死のあいだにある第三の王国を創設することを可能にさせる。死体の山と同様に、回教徒もまた、人間の人間性にたいする権力の完全な勝利のあかしなのである。まだ生きているにもかかわらず、そうした人間は名前のない形骸となっている。こうした条件を強いることによって、体制は完成を見るのである。 (p. 60)
アガンベンも本の後半で論じているように、ナチスがアウシュヴィッツで成し遂げたことは、ミシェル・フーコーの「生政治」の極限の形態である。権力は人民の生殺与奪の権利として定義される。かつての専制権力は殺す権力であったのだが、近代の生政治は「生かしながら死ぬがままにしておくという定式によってあらわされる」 (p. 109) のである。
私がSofskyの言葉から想像したのは、ムーゼルマンの過酷な運命でもなく、ましてや生政治に関する深遠な思想的考察でもない。「ムーゼルマン」は現代日本社会におけるいわゆる「D層」ではないか、そう思ったのである。

日本社会の階層図(ブログ「WJFプロジェクト」からの借用)
上の図は、小泉内閣の政治戦略マーケティングのためにある広告会社が考えた日本社会の階層を表わしている。横軸を「新自由主義に肯定的(否定的)」とすればもう少し一般性が高まるだろうが、縦軸はもう少しなにか適切な基準があるかも知れない。
IQは「生活年齢と精神(知能)年齢の比」として定義されるので、小学生レベルの漢字の読み書きに難のある60歳と74歳のIQはかなり低いと判定される。にもかかわらず、その二人がA層のもっとも象徴的な内閣総理大臣と副総理大臣だというのはこの図の信頼性を貶めている。もちろん、このようなカテゴライゼーションには例外が必ず存在するが、例外として首相と蔵相をA層から放逐したら政治的報復の怖れはないのか。
憎まれ口はさておき、選挙を左右しているのはマジョリティであるB層だというのは間違いないだろう。そして、D層こそは、近代生政治によって「生かしながら死ぬがままにして」おかれた人びとだろう。D層の人びとは、湯浅誠が描く [5] ように、貧困と生活に追われて政治参画などは考えようがない。いわば、貧困によってあたかも政治からも社会からも隔離されるように生きている層ではないのだろうか。
そして、安倍政権は「雇用が増えた」と誇るが、じっさいは正規雇用が減って非正規が増加しているということに過ぎない。つまり、安倍政権はB層の人びとをD層に押し出す政策に奔走しているのである。今、日本の社会はアウシュヴィッツのような生政治の極限に向かって走っているというしかない。
にもかかわらず、将来のD層予備軍であるB層の人びとによって自公政権は衆議院選挙で勝つのである。どう考えても自殺行為だ。「時の権力のイメージ戦略のままに死の崖に突っ走るレミングの群れ」というのはさすがに言い過ぎで心苦しいが、B層こそが私たちがいつでも呼びかけるべき層であることは間違いない。現状の社会ステムでは、マジョリティであるB層が変わらない限り、政治状況を変えられないのだから。
[1] ジョルジュ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。[2] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(新評論、2006年)。
[3] ルイ・アルチュセール(河野健二・田村淑・西川長夫訳)『マルクスのために』(平凡社、1994年)〔旧『甦るマルクスI・II』(人文書院、1968年)〕。
[4] ジャン・ボードリヤール(今村仁司、塚原史訳)『象徴交換と死』(筑摩書房、1992年)。
[5] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)。
【続く】