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山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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小野寺秀也

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2016.06.29
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テーマ:街歩き(613)
カテゴリ:街歩き

 テレビで鐘ヶ淵の路地の話題に触れていた。下町らしい路地の風景を眺めながら、ふと「路地裏」ってどこだろうと考えた。表通りからみたら路地そのものが裏ではないのか。いや、表通りから路地を抜けて裏へ行くことができるからそこが路地裏か。まてよ、「裏路地」という言葉もあるぞ。
 その辺で諦めてネット地図で「鐘ヶ淵」がどこにあるのか調べてみた。500メートルほどに接近した隅田川と荒川がまた分かれていくあたりで、道が入り組んだ下町らしい地図が現れた。そんなことがあって、一度は歩いてみたいと思ったのは3ヶ月ほど前だった。

 『ポンピドゥー・センター傑作展』を見た東京都美術館を出て、上野駅近辺のおいしそうな蕎麦屋をネットで探して昼食をとる。地下鉄銀座線で浅草まで生き、東武スカイツリーラインに乗り換え、曳舟で降りた。
 曳舟から右折、左折しながら北上して鐘ヶ淵まで歩くのである。

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Photo A1 東武「曳舟」駅前北部。(2016/6/29 12:24)

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Photo A2 国道6号を越えて向こうの道へ。(2016/6/29 12:28)

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Photo B1(左) 第一寺島小の手前を左折した道。(2016/6/29 12:33)
Photo B2(右) 「鳩の街」商店街。(2016/6/29 12:36)

 曳舟駅を降り、駅の北端から北西に向かう道を歩き出す。道は微妙にうねっているのがいい。東京大空襲では深川あたりの被害が甚大だったというが、その北部のこの辺りは被害にあったのだろうか。
 地図を見るかぎり、深川からスカイツリーの間は道が格子状に組まれているが、その北の地域の道は入り組んでいる。これは大空襲後の復興計画に関係した地形ではなかろうか。

 国道6号を越えてそのまま進むと右手に第一寺島小学校が見えてくる。手前の十字路を小学校の反対側の道に曲がる。これが路地歩きの第一歩などと思ってみるが、普通の住宅街である。道の端を歩いていて手を伸ばせば、玄関ノブに手が届きそうなぐあいに家が建てられているのが、いかにも下町らしい雰囲気ではあるが。
 道幅が微妙に狭くなったり広くなったりしている道に食堂の看板が見え出して三差路に出る。突き当たった狭い道には次々と小さな店が並ぶ「鳩の街」商店街だった。
 「鳩の街」という地名は小説か映画で見聞きした記憶がある。ネット情報では、空襲で焼け出された花街「玉ノ井」の業者が移り住んで、戦後特殊飲食街(赤線)だったという。ここは空襲でも焼け残った地域ということだ。
鳩の街は、吉行淳之介の小説や永井荷風の戯曲の舞台として描かれ、永井作品は映画化もされた。小説を読んだのか、映画を見たのか、もう記憶が定かではないが、荷風はかなり読んだのでその中にあったのかもしれない。

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Photo C 露伴児童遊園。(2016/6/29 12:40)

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Photo D1(左) 地蔵坂通り。(2016/6/29 12:46)
Photo D2(右) 隅田川高校への道。(2016/6/29 12:46)

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Photo D3 蓮花寺。(2016/6/29 12:48)

 鳩の街商店街を北に歩いた。店構えはどれも大きくはないが、魚屋、惣菜屋、餅屋、呉服店、お茶屋などが民家と軒を並べて連なっている。
 今日は真昼に歩いているが、夕方に歩いてみたい商店街だ。下町の狭い商店街の賑わい方もだが、この街で買い物をする人たちの姿、表情も見たいと思うのだ。東京を歩きながらそんなことをしばしば思うのだが、仙台からの「通い」の街歩きではどうにもならない。私の街歩きはずっと完結されそうもないのだ。

 商店街の道が墨堤通りに出る手前で右の道に入った。左手に小さな公園が現れる。「墨田区立露伴児童遊園」とある。向島に住んでいた幸田露伴のメモリアルパークである。露伴の住まいは「蝸牛庵」と呼ばれ、「蝸牛庵物語」と題して露伴と向島の因縁が掲示板に縷々記されていた。
 ほかに「向島文学散歩」という12人の文人の写真入り掲示板もあり、中に佐多稲子も含まれていた。佐多稲子が隅田川の東(墨東)に住み、隅田川を越えて勤めに行くことの意味を論じた評論があった。奥井智之さんの『アジールとしての東京』 [1] である。山の手と下町を分ける隅田川に境界としてのアジールを見るという話である。
 アジールは「聖域」として権力も立ち入らない場所という意味で、国境の地域など異なった集団が尊重しあう空間を指すが、奥井さんはそれを鉄道や集落を隔てる坂や橋などに拡張して論じている。

 露伴児童遊園前の道をそのまま進み、地蔵坂通りの商店街に出る。地蔵坂通りをほんの10メートルほど歩き、すぐに隅田川高校へ行く道に入る。隅田川高校の道向かいにある蓮花寺を見ておこうと思ったのだ。 蓮花寺は、江戸時代には川崎大師、西新井大師とともに三大師として栄えていたと言い、門前に弘法大師ゆかりの道標二基が据えられている。一面には東の蓮花寺を指す「大しみち」、反対の面には西の西新井大師を指す「大しみち」と記されている。 

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Photo E1 田園調布の放射状の道。(2016/6/29 12:54)

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Photo E2 池の向こうにスカイツリー。(2016/6/29 13:05)

 蓮花寺の西の道に入って北に歩くと大きな樹木のある公園に出る。この公園の入り口に「向島百花園」の入り口があって、入場料150円を65歳以上割引で70円を払って入場した。
 向島百花園は江戸時代に梅屋敷として始まった。入り口近くの山上憶良の秋の七草の歌碑が目につくように日本古来の花々が植栽されている(花の写真は別のブログに載せた)。
 花を眺めながら園内を廻っていくと、池の向こうにスカイツリーが見える。スカイツリー駅から乗って曳舟まで来たのだが、北向きに歩いてきたせいかそれと意識してスカイツリーを目にしたのはこの時が初めてだった。

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Photo F 明治通り。(2016/6/29 13:21)

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Photo G1(左) 明治通りから東に入る道。(2016/6/29 13:23)
Photo G2(右) 大正通りの商店街。(2016/6/29 13:34)

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Photo H1 大正通りの交番前の分岐。(2016/6/27 13:37)

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Photo H2(左) 交番前のチョウセンアサガオと大正通り。(2016/6/29 13:37)
Photo H3(右) 隅田三丁目内の道。(2016/6/29 13:44)

 向島百花園から明治通りに出た。明治通りを「東向島4丁目」交差点に架かる歩道橋で渡り、東に向かう道に入って、方向としては北東を目指す。地図を見ると道はとても入り組んでいる。じっくりと街を楽しむことより、自分の位置を確かめるのに忙しくなった。
 ここまでの道で2度ほど自分の位置が分からなくなってスマホのGPSで確認せざるをえなかった。地図1枚では足りず、スマホに頼らざるを得ないのはどことなく敗北した気分になる。それでいくぶん意固地になって地図だけで歩こうとしていたのだ。
 何度目かの角を曲がると商店街に出た。大正通りである。東にスカイツリーラインの鉄道高架が見える。東武伊勢崎線はいまや東部スカイツリーラインと呼ばれる。言葉は次々に資本主義、商業主義の経済思想によって左右されていくのである。遠い将来(あるいは近い将来)、言葉はことごとく経済性によって図られるということになってしまうのではないか、などと大げさなことを考えてしまう。
 高架をくぐって大正通りを進むと左手に大きく鮮やかな黄色のチョウセンアサガオの花に隠れるように交番があった。交番横で分岐する道に入った。この先も複雑な道をうねうねと辿るのである。途中、地図にある寺院をめざしたが塀に囲まれた墓石が少し見えただけだった。

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Photo I1(左) 都道449号。(2016/6/29 13:47)
Photo I2(右) この先に神社があるはず。(2016/6/29 13:50)

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Photo I3 隅田稲荷神社。(2016/6/29 13:53)

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Photo J1(左) 隅田稲荷からの細道。(2016/6/29 13:55)
Photo J2(右) 荒川堤が見えてきた。(2016/6/29 13:59)

 細い道を左折すると向こうに広い道が見える。そこまでと思って歩きだすと、空き地を抜けてその都道449号に出られるのだった。少し南に下り信号を渡りさらに荒川方向に向かって道を選ぶ。
 次の目標は神社マークである。国道449号から入った道から右に曲がった方向にあるはずだ。その道なりにUターンするように曲がると墨田稲荷神社がある。境内に茅の輪が作られていて、脇に茅の輪のくぐり方の説明があった。
 私が生まれ育った東北の小さな町には八幡神社があったが、私の記憶には茅の輪はない。東京の街歩きを始めてからたしか田町駅近くの神社で「茅の輪」というものを初めて見たのだった。
 私の後から年配の男性が神社の境内に入ってきて茅の輪の手前で一礼していた。これから本殿に参拝するのだろうかと私も本殿の方に向かってから振り返ると男性の姿がない。どうしたのかと訝ってあたりを見渡すと、境内の右手に人一人がやっと通れそうな狭い通路があるのだった。その道は荒川の方に向かうので、私も利用させてもらった。
 細い道を抜けると荒川の堤が見える道に出た。

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Photo K1 荒川堤。(2016/6/29 13:59)

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Photo K2(左) 堤の石仏。(2016/6/29 14:00)
Photo K3(右) 鐘ヶ淵駅に向かう道。(2016/6/29 14:02)

 荒川の堤防道路に上がる階段がある。そこを上がると、階段の途中に小さな石仏があって花が供えられていた。前掛けがかけられていて地蔵様かと思ったが顔立ちは観音様だった。
 堤防道路から芝生とグランドの河川敷、対岸の首都高の高架道路、上流の高速道の新荒川橋、下流の国道6号の四ツ木橋などを眺めて引き返した。
 階段の上から、これから歩く鐘ヶ淵駅までの道が見える。

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Photo L 近代的な文化住宅。(2016/6/29 14:04)

 荒川から鐘ヶ淵駅に向かう道で新しい住宅がまったく同じ姿で6軒並んでいるのを思わずカメラに収めた。
 今日の街歩きでは狭い路地の両側に間口の狭い二階家が並んでいるのをたくさん見かけた。一、二階までを一戸分とした賃貸住宅、たしか関西では文化住宅とか呼ばれていたような長屋建てと思ってしまうほどほとんど隙間なしに隣接して建てられている。
 写真の住宅はそれの現代版らしく、まとまった土地に建て売り住宅として建設されたものと思われる。間口の狭い準三階建ての住宅が同じ姿で50cmほどの間をおいて6棟並んで建てられている。下町が下町のまま現代化しているということなのだろう。

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Photo M1(左) 東武電車が行く。(2016/6/29 14:07)
Photo M2(右) 東武線を越えた道。(2016/6/29 14:09)

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Photo N1(左) 鐘ヶ淵駅近くの路地。(2016/6/29 14:10)
Photo N2(右) 駅近くの商店街。(2016/6/29 14:14)

 現代下町版の家並を過ぎてまっすぐ歩いて行くと、電車が道を横切っていく。もう鐘ヶ淵駅である。踏切を越えて、東武線の東側、隅田川までの間も歩いてみようと思っていたが、急に疲れを感じ始めて諦めた。
 右手に路地というより抜け道のような本当に狭いビル裏の道があった。駅に向かう道に抜けようとその路地に入る。駐輪禁止の張り紙の前にたくさん自転車が駐車している道を抜けると、小さな商店街らしく開放的な八百屋があって、店の真ん中に中年の婦人が腰を下ろして店番をしていた。客は一人もおらず、道を歩いているのも私だけだった。
 鐘ヶ淵駅前には「武蔵・下総を結んだ古代東海道」という案内看板があった。鐘ヶ淵駅付近を通っていた古代の官道は東海道と呼ばれ、京の都から常総へ至る幹線道だったと記されていた。
 その看板の前でカメラをバッグに収めGPSのトラックデータを保存して街歩きは終わる。東武線を北千住でJRに乗り換え、東京駅まで戻って新幹線に乗るのである。

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街歩きMap。ANは写真撮影ポイント。
地図のベースは、「ゼンリン いつもNAVI(PC)」。

 

[1] 奥井智之『アジールとしての東京――日常のなかの聖域』(弘文堂、平成8年)

 

 

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Last updated  2016.07.12 20:04:12
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