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山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

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小野寺秀也

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2017.06.06
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テーマ:街歩き(613)
カテゴリ:街歩き

 飼犬イオの足が弱って来て、イオと一緒に歩くのは自宅の周囲、500メートルほどになってしまった。その後で、私一人で散歩に出かけるのだが、これがけっこうつまらない。毎日同じ道を歩くのは飽きるし、かといって、自宅を起点とするコースにそれほど変化があるわけでもない。
 そんなこともあって、散歩に変化をつけようと地下鉄を利用するようになった。東西線の駅がわが家から徒歩5分ほどのところにできたということが大きい。1時間ほどどんどん歩いて行って地下鉄で帰ったり、地下鉄で2、3駅行ってから自宅に向かって歩いたりした。しかし、これもまた選択肢に限りがある。
 それならいっそ、往復とも地下鉄に乗って、今まで歩いたことのない道で散歩すればいい、そんなふうに気づいたのは半年も前である。それなのに、その1回目がやっと今朝なのである。


Photo A 地下鉄南北線「富沢」駅(東口)。(2017/6/6 6:11)

Photo B 駅近隣は開発途上。(2017/6/6 6:19)


 地下鉄南北線は「長町南」駅を出て南方向に進路を変えてから地上に出て、「富沢」は高架駅である。南北線はだいぶ前から運行しているが、こんなことも知らなかったのである。
 駅を東側に出ると、どこかで見たような景色が広がっている。私は退職後に住んだことのない日本の首都、東京の街歩きを始めたが、その時宮城県内にも行ったことがない町がたくさんあることに気づいて、県内の町を歩くことも始めた。その一つに角田市があった。
 角田市まではイオと車で行って、阿武隈急行線の「角田」駅の駐車場に車を止めて街歩きの始点としたのだが、その角田駅前の光景を思い出したのである。車がアプローチできるロータリーなどのある駅前は広々として、そこから続く道も広い堂々とした道だが、最近造成されたらしく住宅の間には整地された空き地が所々にある。
 富沢も角田も駅ができてから開発が始まって、家々は新しいが、全体が落ち着いた調和を持った街並みになるのはそれなりの時間がかかるのだろう。


Photo C 春日神社。(2017/6/6 6:27)


 駅から歩きだしてすぐに道に迷った。私の地図は古くて、地図にない新しい道を歩き始めてしまったのである。
 南北線の開業は1987年で、私の地図は古いといっても2013年版である。富沢駅界隈は、駅ができて25年以上過ぎてからも着々と開発が進んで変化しているということなのだろう。駅ができ、新しい住人が増え、その利便のために道や施設が作られ、それでまた住人が増え、というふうに進んでいく様子が、駅前の景色のなかに写し込まれているように思える。

 街歩きでマークするのは神社や寺である。神社や寺は古くから人が住んでいる象徴なので、その近辺はいちおう歩いてみる。私がプリントアウトした地図には寺はなく、神社マークが一つだけあった。春日神社である。
 道迷いから立ち直って(スマホのGPSの助けを借りて)、春日神社にたどり着くと、広い敷地の両端に離れて鳥居と社殿が立っていた。境内には植栽は一切ない。由緒書きの石碑によれば、1503(永正2)年の創建と言い伝えられている神社で、仙台市の区画整理事業によって現在地の西北150メートルの地から2005年に現在地に移築したとある。ここでも開発プロセスの途次の景色がみられるのだった。



Photo D 畑と農家と仙台市水道局。(2017/6/6 6:32)


Photo E 新笊川(下古川橋)。(2017/6/6 6:35)


Photo F 県道258号線沿いの道。(2017/6/6 6:38)


 春日神社の次の目標は新笊川である。名取川への流れ込みまで行きたいと思ったが、河原が広くてきっと難儀をすると勝手に決めて新笊川までとする。じつは、この河川名を地図で見たとき「笊」の〈ざる〉という読みがすぐには思い浮かばなかった。

 デンデン・アベさんもミゾウユウ・アソウさんもビンセン・ヨシイエさんも笑えないのである。困った。

 新笊川に向かう途中で、この一帯の現状を象徴的に表現しているような風景があった。瓦屋根の立派な和風建築の家の前に畑が広がり、その背景には仙台市水道局のビルが遠望できる。その家の裏には別棟が建てられていて、昔風に言えば農作業に使う納屋のようなものらしい。その建物もけっこう立派なのだった。

 その風景は、この地が変化の途次にあることをはっきりと示していた。農家の家も新住人の家も新しいのだが、その違いもまた明らかだった。


 道は、新笊川に架かる「下古川橋」に出る。下流側に県道258号の橋、その向こうに斜めに東に走る仙台南部有料道路がある。さらにずっと遠くに名取川に架かる東北新幹線の橋梁が見える。
 新笊川は、人工の河川らしくまっすぐに築堤された間の草地のなかを細々と流れていた。県道258号の橋をくぐると、左手に258号の法面に沿って道がある。この道も私の地図には記載されていなかった。とくに理由はないものの、当然のようにその道に入った。



Photo G1 笊川を渡る水管橋と新幹線高架。(2017/6/6 6:47)


Photo G2 阿久戸橋(笊川)。(2017/6/6 6:56)


Photo G3(左) マンションの谷間を流れる笊川。(2017/6/6 6:57)
Photo H(右) 県道258号線へ向かう道。(2017/6/6 6:59)


 新笊川から北上する。県道258号沿いの新道を抜け、258号に直行する道を東に歩く。この道は、左右の土地から少しばかり高くなっていて、田んぼの中に水が被らない程度に盛られた道ではないかと想像してみる。
 左手の細道に下って住宅地を抜けるのだが、まったく同じ形の4所帯型のアパートが8軒、規則正しく並んでいて、その奥に農家(だった)らしい大きな和風住宅がある。そんな細道を抜けると、小さな川に出た。笊川である。この(旧)笊川は昔の流れそのままらしく曲がりくねって流れている。水管橋と新幹線の高架を眺めながら、小さな橋を渡る。
 その名前のない小さな橋から道なりにまっすぐ北上していく。この一帯は、これまでとはいくぶん異なり、長い時間をかけて形作られた雰囲気がある。規格化された住宅が並んでいることはなく、それぞれ個別の形式の住宅がならび、ところどころに食堂や商店がある。思うに、笊川のこちらと向こう側では住宅地として過ぎた時間が異なるのだろう。今は小さな小川だが、かつては集落形成に重要な役割を果たしていたのではないか。これもまた、散歩途中の想像である。
 少し広い道に出て左折すると、ふたたび笊川に架かる橋に出る。阿久戸橋である。私の前を制服の中学生が数人歩いている。ここから1キロほど西にある富沢中学校の生徒だろう。
 マンションの間の谷間を流れる笊川を越えて、中学生の後を追うように県道258号に向かう。



Photo I 笊川を越える県道258号(もとふくろ橋)。(2017/6/6 7:03)


Photo J1 笊川沿いに続く道。(2017/6/6 7:07)


Photo J2 水門前の鯉たち。(2017/6/6 7:03)


Photo J3 自転車家族。(2017/6/6 7:09)


Photo J4(左) 笊川堤防柵の火炎式縄文土器のマーク。(2017/6/6 7:10)
Photo J5(右) 笊川沿いの遊歩道。(2017/6/6 7:11)


 通勤の車が増えだした258号を北に少し歩くと、また笊川に架かる橋にでる。欄干の金属板に「もとふくろはし」と彫られていた。もとふくろ橋の北詰から笊川沿いの道に入る。車も通る広い道だが、川沿いには遊歩道が続いている。
 遊歩道脇に急な増水を注意する看板が立てられていて、「広瀬川と旧笊川の環境を保つため、広瀬川と旧笊川の水の量が少なくなった場合に、名取川から水を引くことで、水の量がふえることがあります」と記されていた。名取川から広瀬川へ導水する水路(木流堀)沿いをイオと歩いたことがある。いつか名取川から広瀬川まで、木流堀の端から端まで歩いてみたいと思い続けているがまだかなえられていない。

 遊歩道を200メートルほど歩くと笊川に流れ込む水路の水門があった。水路は住宅地と遊歩道の下を通って、笊川本流の水量に負けないくらいに流れ込んでいた。流れ込みは小さな淵のようになっていて、大きな鯉が6尾ほど悠々と泳いでいた。真鯉と思われる魚だが、ドイツ鯉というという可能性もある。少なくとも私にはその見分けはできない。ただ、緋鯉が混じっていないことでいくぶんほっとしたのはたしかである。

 河川の保護活動をしている人々が放流する魚に緋鯉や金魚が含まれていて、がっかりすることがしばしばある。自然の川を求めて、人間が作った変種を放流するのである(あくまで善意の行為なのではあるが……)。しかし、いま、宮城県では鯉の放流が制限されている。コイ・ヘルペス病の蔓延を防ぐため、宮城県内水面漁場管理委員会指示によって鯉の放流や移動が禁止されているのだ。コイ・ヘルペス病が沈静化する兆しはなく、県による放流禁止指示は当分続きそうである。

 道沿いのある一軒の玄関先に、大きさの異なる自転車が5台も並んでいた。お母さんのらしい自転車には幼児用の椅子が取り付けられていて、まもなく6台になるのだなあ、などと少しならずほっこりした気分になって通り過ぎた。


 遊歩道と笊川を隔てるフェンスに何かのマークの金属板が取り付けられている。しばらく考えて、それが火焔型縄文土器ではないかと気づいた。この近くには富沢遺跡があって、それに因んだシンボルマークらしい。

 富沢遺跡は「地底の森ミュージアム」と名付けられた遺跡保存館で展示されているが、私はまだ見たことがない。せめて保存館を外からだけでも眺めておこうと、遊歩道から北に向かう道に入った。



Photo K ヤマボウシ並木の道。(2017/6/6 7:15)



Photo L1(上) 富沢遺跡保存館の西の道。(2017/6/6 7:24)
Photo L2(下) 富沢遺跡保存館の門。(2017/6/6 7:26)


 遊歩道から入った道にはヤマボウシが並木として植えられていた。ヤマボウシには花の大きな種類と小さな種類があるようだった。私がこれまで見てきたヤマボウシは大きな花の方だったように思う。
 もしかしたら種類の違う樹木なのかとも思ったが、似て非なる種類を並木として混在させて植える理由が思いつかない。東北大学川内キャンパスに上る行人坂に4、5本のヤマボウシが並木として植えられているが、どれも花の大きい種類だ。

 広南病院のところで左折してから、右左に5回ほど曲がって富沢遺跡保存館の西の道に出る。保存館の庭に植えられている樹種はすべて針葉樹である。北にある門の方から眺めてもやはり針葉樹ばかりである。
 ずいぶん前に上山春平の『照葉樹林文化』という本を読んだことがある。日本文化の基盤は、南方に広がる東アジアの照葉樹林帯の文化にあるという論考だった。それに対して、富沢遺跡の庭は北方の針葉樹ばかりである。いわば、日本の北部からシベリアに連なる針葉樹林文化があったのでもあろうか。
これまた、ただの空想だったが、帰宅してから「地底の森ミュージアム」をネット検索したら、この庭は「2万年前の風景を「氷河期の森」として野外に復元」したと記述されていた。まあ、2万年前の仙台は針葉樹林文化帯にあったと言えないこともないようだ(強引だが)。



Photo M1 JR長町駅から国道286号へ向かう道。(2017/6/6 7:27)


Photo M2 田んぼとマンションと富沢遺跡保存館。(2017/6/6 7:28)


Photo M3 地下鉄「長町南」駅。(2017/6/6 7:32)


 「地底の森ミュージアム」正門前からJR長町駅から国道286号へ向かう道に出る。この道も新しい道のはずだが、並木として植栽されたケヤキはけっこう大きな木に成長している。
 右方がぱっと開ける感じがしたが、そこには田んぼが広がっていた。田んぼの傍には大きなマンションがあり、その向こうに「地底の森ミュージアム」の緑が遠く見えている。富沢駅を降りてからのこの近隣の印象を再確認させるような風景である。
 ケヤキ並木の下を東に進むとバス停が見えてきて、太白区役所の前に地下鉄「長町南」駅の入り口があった。6時11分に富沢駅を出て7時33分に長町南駅到着、1時間22分の朝の散歩だった。


散歩コースと撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。



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かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)

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Last updated  2017.06.09 08:22:21
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