仙台はずっと雨が続いている。子糠雨ときどき本降り、降らなければ薄暗い曇天、そんな日ばかりだ。8月に入ってから昨日(17日)までの仙台の日照時間は12時間程度で、87時間もある平年の7分の1程度だという。
このような気候は、昔から「ヤマセ」と呼んでいたものだろう。太平洋の寒流(親潮)の上を吹き渡ってくる東風が湿気と冷涼を運んでくるヤマセは、かつては宮城県や岩手県の飢饉の主要な要因だった。梅雨からヤマセに続けば、北日本の太平洋沿岸には夏はないも同然なのだ。
どんなに雨が降っても、朝は5時、夕は6時ころには老犬の散歩に出かける。たいていは合羽を着るが、子糠雨のときは傘もささずに出ることもある。老犬の散歩はとても短いので何とかなるのである。老犬の散歩には付き合うが、一人で行く自分の散歩まで雨の中でやる気にはならない。
たいした雨量でもないのに、毎日の散歩に行かないでいるのは、「降り込められた」という気分で、足の筋肉の衰えを心配したりするのだ。そうして、鬱陶しさがじわりじわりと膨れ上がっていく。足の衰えと残余の人生の関係は、などと呟いたりもする。
濡縁におき忘れた下駄に雨がふつているやうな
どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。
木山捷平「五十年」 [1]
「五十年」どころではない。「七十年」が暮れてしまった。しかし、この詩は達観だろうか、それとも諦観だろうか。示唆的というか含蓄があると共感するのだが、じつは詩情の実質をとらえきれていないということがしばしばある。分からないと言ってしまえばそれまでだが、読み棄てられないで抜き書きをしておく。たくさん抜き書きをしてきたが、もしかしたらほとんどがそのようなものかもしれないとちょっと不安になる。
もういい、五十年も生きたんだ忘れてくれるだろう二、三年もすれば
河野裕子 [2]
これも、「そうだよな」と感心して抜き書きした一首なのだが、いったい何を忘れてくれるのか、いまだに分からないままだ。すでに他界された歌人に聞くわけにもいかない。困ったものだ。
それにしても、この歌も「五十年」なのだ。二十年も余分にうろうろしているのに、その達観や覚悟の実像が私にはまだよく見えない。しかし、抜き書きをしておくということは、読んだ後の人生で「あっ、このことだ」と腑に落ちる経験や気づきがきっとあると期待しているということだ。いや、逆か? 深くしっかりと理解できるような人生を期待しているというか?
もう「七十年も生きたんだ」から「二、三年もすれば」どうにかなるとも思えないが……。
錦町公園の集会から定禅寺通りを。(2017/8/18 18:42~19:10)
日の暮れが早くなった。集会が始まるころはすっかり暮れ落ちている。それにしても、錦町公園は暗い公園だ。車の行き交う公園横の定禅寺通りや東五番丁通りが輝いて見えるほどだ。
40人が定禅寺通りに出てデモは始まる。デモを横から写そうとすると、シャッター速度が遅くなって手振れが起きる。定禅寺通りはその程度に暗い。大通り(国道4号)を渡るデモの写真は、真横から照らす信号待ちの車のライトがいつも役に立つ(ライトが当たらないデモ人は闇に沈むが)。
一番町に入ると、金蛇水神社の大きな幟が立てられていて、祭礼があるらしい。金蛇水神社は、定禅寺通りから一番町に入ってすぐ左手に祀られている小さな神社だ。
一番町。(2017/8/18 19:12~19:22)
このブログでも何度か紹介したが、ギュンター・アンダースという反核の哲学者がいる。アンダースには「核兵器とアポカリブス不感症の根源」という重要な論考を収めた『時代遅れの人間 上・下』(青木隆嘉訳、法政大学出版会、1994年)や『核の脅威――原子力時代についての徹底的考察』(青木隆嘉訳、法政大学出版会、2016年)などの著作がある。
アンダースと広島の原爆投下作戦に加わったパイロット、クロード・イーザリーとの交流も知られているが、石戸諭さんという人があらためて二人の交流についての記事をネットに投稿している。
イーザリー少佐は、1945年8月6日、原爆を積んだ「エノラ・ゲイ」を先導する「ストレート・フラッシュ」に乗っていて天候や敵機の状況を調べ、原爆投下の判断を「エノラ・ゲイ」に伝える役目だった。帰国後、原爆で亡くなった人たちの幻影に怯え、苦しみながら「原爆投下は間違いだった」と話すようになって、精神錯乱を理由に入院させられることになる。
アンダースは、広島や長崎の被爆者を訪ね、イーザリーとの交流を通じて反核の哲学を強化する。彼の哲学は、被害と加害、双方の苦しみをベースにしていると考えてよいだろう。
戦争犯罪の加害者ということに関して、アンダースは、イーザリーの対極としてナチス・ドイツの親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンに言及する。二人とも、軍事システムの一つの歯車として歴史上想像を絶するような戦争犯罪に加わったが、一方はその犯罪に精神を病んでいるとみられるほど苦悩し、一方は何も考えない「凡庸な行動」についてどんな責任も感じていない。アイヒマンの戦争犯罪を「悪の凡庸さ」、「悪の陳腐さ」と形容したのは、ハンナ・アーレントである(アイヒマン裁判を傍聴し、『エルサレムのアイヒマン』を著したアーレントは、イーザリーと交流したアンダースの最初の夫である)。
二人と同じような立場に置かれたら、私たちはイーザリーになるのか、アイヒマンになるのかという困難な問いを立てることも可能だろうが、歴史を知った私たちは同じ立場を拒絶することができる。反軍であれば良いのだ。ただし、これもまた歴史が教えるところだが、反軍の人民は権力の敵であって、イーザリーやアイヒマンの世界のずっと手前で、権力によって抹消される可能性が高いが……。
脱原発は反核に向かい、反核は反軍に向かう。選択可能な正しい凡庸さとはそういうものだろう。
青葉通り。(2017/8/18 19:22~19:32)
デモが青葉通りにでたころ、頬にあたる風が霧の粒を含んでいるのを感じるようになった。傘をさすほどではないが、デモが終わり、そのままあるいて自宅に帰る着くまでにはいくぶん濡れるかもしれない。「どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれ」というわけではないが、傘を差さないまま帰路を歩き出した。
脱原発から反核へ、反核から反軍へと語るのは、私が「七十年も生きた」人間だからであって、仮にいま二十歳の若者だったら、情緒的であれ何であれひたすら右傾化する世間の空気を吸いながら、戦争へのめり込もうとする安倍自公政権の権力システムに搦めとられずに済むだろうか。闘わなくてすむようになった老人のたわ言ではないのか。そんな疑問が残り続ける(いつものことだが)。
靴を使うのをケチったやつの靴は
ぼろぼろになったりはしない。
疲れもせず、悲しくもならないやつは
はねて踊ったことがいちどもない。
ベルトルト・ブレヒト「疲れた蜂起者たちの歌」から [3]
青年期を過ぎてからずっと私が苦しんでいたことは、宮柊二が次のように詠んだそのままである。
ひらめきてわれが身内をはしりたる激しき恥に頸(うなじ)を垂るる
宮柊二 [4]
[1] 『木山捷平全詩集』(講談社 1996年)p.161。
[2] 『季(とき)の栞 河野裕子歌集』(雁書館 2004年)p. 81。
[3] ベルトルト・ブレヒト(野村修訳)『世界現代詩文庫31 ブレヒト詩集』(土曜美術社出版販売 2000年)p.30。
[4] 『宮柊二歌集』宮英子・高野公彦編(岩波文庫 2002年、ebookjapan電子書籍版)p. 110。
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