朝っぱらからJアラートが鳴って、不愉快な一日が始まる。ミサイルはすでに太平洋遠くに落下したというのにテレビでは延々とその話題が続き、なかにはヘルメットを被ってどこやらから中継している間抜けなリポーターも登場している。
戦争を煽る論調、特定の国を敵視する論調、それらは人種差別を基調にしながらテレビなどのマスコミを通じて毒ガスのように蔓延している。
新聞の見出し
白地に赤い丸
「日本」という言葉のもとに
死者達は売店のそばに立ち
そして大きな眼で
新聞の見出しを見つめる
白くそして赤く印刷された憎悪を
「日本」という言葉のもとに
死者達は恐れる
これは死者達が恐れている
国である
これは、「灰色の時代」と題されたヒルデ・ドミーンの詩 [1] の言葉を私が勝手に一部置き換えてみたものだ。元の詩は、「白地に赤い丸」は「赤と黒」、「白くそして赤く」は「黒くそして赤く」、「日本」は「ドイツ」という語句である。
ドミーン(ドミン、ドーミンと表記されることもある)は、1912年ドイツのケルンで生まれたユダヤ系の詩人である。彼女はナチス政権から逃れて、イギリスやドミニカで長い亡命生活を送った。彼女を生まれ育った国から追い出したのは、人種差別から人種殲滅へと向かうナチス思想だった。
ナチズムは、ナチス政権の思想であり、それを支えたドイツ大衆の思想でもあった。いま、日本で起きている敵国扇動や戦争への躊躇のなさが自公政権だけのものならさほど怖れるに足りないのだが、マスコミや大衆がそれに唯々諾々と乗せられている状況を見ると、ナチズムが席巻したドイツの時代とどうしても重なってしまう。
ナチスだけがユダヤ人を虐殺したのではない。ナチスに煽られ乗せられた大衆もまたユダヤ人虐殺の犯罪者なのだ。関東大震災で朝鮮人や中国人を虐殺したのは官憲だけではない。普通の日本人(と自称する)である大衆も虐殺に加わったのだ。いま、日本はその一歩手前、半歩手前まで来てしまったのではないか。ひそかにこの国を出ていく、つまりは、ひそかに亡命を始めた被差別マイノリティが生まれているのではないかという想像が働く。民族差別が民族殲滅に向かう歴史を知悉する者ほど、現代日本を畏れているに違いない。
1892年ベルリン生まれの哲学者・思想家のヴァルター・ベンヤミンは、民族殲滅に雪崩れていってしまう群衆を商品に群がる消費者に喩えて描いた。
劇場の観衆、軍隊、ある都市の住民などは、それ自体としては特定の階級に属していない群集を〈形づくる〉。自由市場はこの群集を、急速に、そして計り知れない規模で増大させる。いまやあらゆる商品が自らの顧客である群衆を自らのまわりに集めるからである。全体主義国家が模範としたのはこの群衆である。民族共同体は、顧客としての群集との完全な一体化を妨げるすべての要素を、一人一人の個人から追放しようとする。 [2]
商品に群がるようにマスコミ報道の戦争ごっこと敵国視の言説に取り込まれているのは誰だ。「顧客としての群集との完全な一体化を妨げるすべての要素」のあれこれを失い始めたことに気づかないままに騒いでいるのは誰だ。
ヴァルター・ベンヤミンもまたナチス・ドイツから亡命する。そして、1940年秋、パリを経てたどり着いたスペイン国境で服毒自死を果たす。現在でも、多くの思想家が語り継ぎ、論じ続けている優れた哲学者の48歳の死であった。
いま、私たちは無自覚のまま、どこかでマイノリティの人々を追いつめ、死に向かわせているのではないか。エスニック・マイノリティとポリティカル・マイノリティたちを……。
そんな怖れで憂鬱なままにすぎた秋の日の終わり、「顧客としての群集との完全な一体化を妨げるすべての要素」の一つ、政府への抗議としてのデモを私たち「一人一人の個人から追放」させないために、気を取り直して「金デモ」のために夜の街に出かける。
元鍛冶丁公園から一番町へ。(2017/9/15 18:39~19:02)
元鍛冶丁には、私の見知らぬ人が何人かいた。見知らぬ人は、たいてい私の見知った人と立ち話をしている。私が知らないだけらしい。
今日の参加者は45人になった。先週の35人と比べれば、「見知らぬ人」効果(たぶん)は大きいのである。とはいえ、見知らぬ人が10人もいたわけではない。せいぜい数人である。
元鍛冶丁公園を出て元鍛冶丁通りを一番町に向かうデモを、国分町の通行人はほんとうに珍しそうな顔をして眺めている。私たちは、今週もほとんど同じメンバーだけれども、国分町や稲荷小路の通行人に先週の夜と同じ人はほとんどいないだろう。そんな当たり前のことを珍しい発見のように思いなしながら、夜の繁華街を通り過ぎる。
一番町(広瀬通りへ)。(2017/9/15 19:03~19:05)
一番町は、なぜかいつもより人通りが多いような気がする。秋晴れの過ごしやすい一日の終わり、ということぐらいしか思い当る理由はない。この夏は雨の日が異様に多かったし、デモもかなり雨に祟られた。今日は、最近では最良の日かもしれない。
人出がその日の天候に強く左右されるのは、天候不順な季節の後には心理的にも当然なのかもしれない。日中は家でごろごろしていた私ですら、窓の外を眺めながらどこか出かける場所はないかと思案していたくらいである(思案してもむだだったが)。
大勢の通行人は、デモが近づくとかなり手前で左右に分かれていく。デモの列の中から、デモの先頭と大勢の通行人を一緒に写そうとしても、脇に避けてしまった通行人はあまり写ることはなくて、私の試みはいつものように失敗に終わるのである。
一番町(広瀬通りから青葉通りへ)。(2017/9/15 19:07~19:13)
デューク・エナジー・フロリダというアメリカの大手電力会社がフロリダ州の原子力発電所建設計画を中止するというニュースがあった。原発の代わりにソーラーパネルや電力網(グリッド)接続型バッテリー、電力網のスマート化、電気自動車の充電エリアなどに60億ドルを投資するという。外国からニュースとして流れてくる原発からの撤退や縮小は、原発建設はそのコストを回収できないという純粋な企業の経営判断としてなされている。
一方で、国内からの原発関連のニュースは、原発事業へ前のめりになっている自公政権がらみのものほとんどだ。たとえば、日立製作所がイギリスに建設予定の原発の建設資金への融資を日本政府が行うというニュース(日本経済新聞、2017/9/2付け)があった。三菱東京UFJ銀行やみずほ銀行が貸し倒れリスクを恐れて躊躇していた融資に対して政府が日本貿易保険(NEXI)を通じて全額補償する方針だという。さらに、日本政策投資銀行や国際協力銀行(JBIC)が投融資を行うと報じられてる。これらはすべて政府が100%出資する政府系金融機関で、世界中が将来は破綻すると判断している原発事業への政府の自己破滅的な加担は、いずれ私たち国民の負担として返ってくるに違いないのだ。
政府がそうであれば、無自覚な自治体はそれに付き従うのである。「民意は狭められ、置き去りにされた。」と断言するのは、河北新報の記事(2017/9/8付けの「〈原発と宮城知事〉30km圏の民意 蚊帳の外」)である。
玄海原発再稼働に際して、緊急防護措置区域(UPZ)の30km圏内の8市町のうち4市町の首長が反対しているにもかかわらず、佐賀県知事は県と立地自治体の玄海町の同意だけで再稼働を容認した。玄海町だけはその経済を原子力関連の交付金や税金に強く依存しているので反対できないことを見越した県知事の判断で、国の意向そのものをUPZ市町に強制したという形だ。記事はこう続く。「立地自治体と県に限る手法は、原発事故後、最初に再稼働した九電川内原発(鹿児島県)の手続きがひな型だ。再稼働を目指す知事にとって格好の前例となり、福井県や愛媛県も踏襲した。」
宮城県もまた女川原発再稼働で同じ轍を踏みそうだと記事は続いている。河北新報社が8月に行った県内世論調査で、適切な地元同意の範囲について「県と立地自治体」だけでよいとしたのはたった7.6%、「県とUPZ自治体」「県と全自治体」とする考えは85.0%に上ったのである。
そうした県民の意思にもかかわらず、宮城県知事は「地元同意の範囲は、女川町、石巻市と県で十分」と主張している。世論調査で半数以上の住民が再稼働を容認したのは女川町だけだったという点においても、佐賀県の玄海原発と事情はほとんど変わらない。「民意は狭められ、置き去りにされ」るのである。
佐賀県も宮城県も原発政策は国の思いのままである。ここには県民の安全や生命を尊重するという意思はなく、国の意向を実現することだけが県の使命であるかのように行政が進められている。自治のない自治体なのである。
こうした自治体の在り方は、まるで江戸時代の代官所ではないかと思い至った。そうか、「お代官様」か、などと妙に得心がいったのだったが、いまや代官などが出てくる時代劇はあまりにも陳腐で人気などはないだろうとも思ったのだった。
河北新報の記事は、こう締めくくられている。
玄海原発から最短で約8キロに位置し、再稼働に反対する長崎県松浦市の友広郁洋市長は指摘する。
「同意権は住民の安心を担保する不可欠な権限。その思いを受け止め、国に届けることが県の役割だ」
それにしても、江戸時代の代官は住民の意思を幕府に届ける役割を職掌として与えられていたのだろうか。それは、寡聞にして知らない。
青葉通り。(2017/9/15 19:15~19:21)
デモは終わったが、憂鬱は晴れない。顔を見合わせた人とは「おつかれさま」などと言い交わしたが、不機嫌な顔で挨拶したのではないかと心配しながら夜の街を歩き出す。
街を歩きながら、なにかいいことはないか、なにか楽しめることはないか、そんな気分だった。たとえば、次の歌のような……。
とつぷりと暮れたる路地に行き会ひて旧知のごとき犬と私
小島ゆかり [3]
人との出会いはちょっとためらう。こんな年なのに、まだ人見知りなのだ。だから、出会うならこんな人だ。
そこにありつつ見えざりし人ふと在りて秋の日微かなるわらひをぞする
葛原妙子 [4]
仙台の街の夜、「旧知のごとき犬」にも「見えざりし人」にも会えないまま、家までの道を歩きとおし、「秋の日」は終わるのだ。
[1] 『ヒルデ・ドミーン詩集』(高橋勝義・高山尚久訳)(土曜美術社出版販売、1998年)p.212。
[2] ヴァルター・ベンヤミン(今村仁司・三島憲一ほか訳)『パサージュ論 第2巻』(岩波現代文庫 2003年)p.434。
[3] 『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年)p. 356。
[4] 『現代短歌全集 第七巻』(筑摩書房、1972年)p. 310。
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