「今日は大漁だった。4冊も見つけてきた。」
「珍しい。よかったじゃない。」
「2週間じゃ読めそうもないけどね。」
「貸出延長すればいいじゃない?」
「4週間でも読めないかも……。」
市立図書館から帰ってきての妻との会話である。市立図書館にはほぼ週に一度は通うのだが、最近、読みたい本が見つからないのだ。読書の守備範囲が狭いということもあるのだが、退職してからずっと通い続けていたので、だんだん読みたい本を見つけるのが難しくなった。
退職直後は市立図書館ばかりではなく県立図書館にも通って、浴びるように本を読んでいた。退職して自由になった時間のかなりの部分を読書に当てていたのだが、家庭の外部からの拘束から解放された人間がやらねばならない諸事、雑事(と表現すると妻が怒るが)が増えてくるにしたがって、その時間が減ってきた。それでしばらくは、家に近い市立図書館からの借り出しだけで間に合うようになっていたのだが、この頃は本を見つけられずに手ぶらで帰ってくることが多くなっていた。
しかし、それはそれでいいのかもしれない、とも思うのだ。飲酒量が減り、食事量も減ってきた。それと見合うように読書の能力も落ちてきた。読みたい本、読むべき本があるからといって読みこなせるわけでもなさそうだ。
1ヶ月ほど前に、何も見つからなかった図書館から街の本屋にまわって法社会学(法システム論)の本を仕入れてきたのだが、3度目の読み返しなのに何とも手に負えないのである。読書量の減少は理解力の減少ということなのか、とけっこうめげている。
4冊の本の2冊目に取りかかろうかというときに時間が来て、今週の金デモに出かけるのである。
今日は集会をとばして、デモ出発直前に元鍛冶丁公園に着いた。先週は252回目の金デモだったが、「250回記念デモ」としての祝日昼デモだった。そのデモに力が入った分、今週は力が抜けて参加者が少ないだろうと予想していやが、そんなことはなかった。10センチも厚く降り積もったケヤキ落ち葉を踏んで、40人ほどが最後のスピーチを聞いていた。
脱原発カーの姿はなく、集会の用具や余分なデモアイテムの大きな荷物を数人が抱えたまま、253回目のデモは出発した。
11月末に青森での会議に出席したとき、原子力船「むつ」のその後のことを聞いた。日本初の原子力船「むつ」はどうなったのだろうかとずっと気になっていた(かといって、調べもしなかったのだが)。
原子力船「むつ」は、8000トンの民間特殊貨物船として建造され1969年に進水したが、試験運転中に放射線漏れを起こして、その後むつ市の港に係留されたまま、というところで私の知識は終わっていた。
その「むつ」が現在は海洋地球研究船「みらい」に生まれ変わっているというのである。船体を中央で2分割して原子炉を撤去し、動力としてディーゼルエンジンと電動推進機を搭載して、海洋科学技術センター(JAMSTEC)所属の研究船になったというのである。
昭和39(1964)年に東北大学工学部に入学した私は、原子力工学の将来を信じて翌年に原子核工学科を選択した。ちょうどそのころ、「むつ」も原子力工業の将来を託されたかのように建造が進められていた。そして、私が原子力工学をあきらめ、物理学に専念しようと決意したころ、「むつ」は放射能漏れを起こしてにっちもさっちもいかなくなったのだった。
私の個人的なことと原子力工業の未来が同期していたなどと大仰なことを言うつもりはないが、「むつ」はある象徴のように思えてしかたがないのだ。原子力を動力源としたさまざまな工業分野が展開する、そんな未来の先駆けのように「むつ」は存在し、そして消えていった。
原子力工学を学んだ学生は、そのまま研究者になるか、原発に関わる仕事しか選択肢はないように思える。核融合という選択肢もないではないが、現状ではごく少数の研究者にその道が開かれているに過ぎない。学生は正直で、そのような原子力工学を専攻する優秀な学生はどんどん減ってしまった、そう言って嘆いていたのは原子力工学の大学院担当教授だった後輩である。
学問も時代と共に変遷する。とくに工学は時代の科学技術の変遷と同期するため日々姿を変えているといっても過言ではない。学問であれば、優秀な人間が集まらなくなった専門領域はしだいに衰退の道を辿るのは避けられないだろう。
原子力工学が科学技術としての力量を減退させているのではないかと推測させるようなニュースには事欠かない。
今年6月に日本原子力研究開発機構大洗研究開発センターで起きた被曝事故もその一つの例である。作業員が点検のため核燃料物質の金属製貯蔵容器を開けた際、核燃料物質を包んでいたビニールバッグが破裂し、飛散した粉末を吸って5人が内部被曝したという事故である。作業内容のずさんさばかりでなく、被曝後の処置のいい加減さも強い批判を浴びたことは記憶に新しい。
日本原子力研究開発機構はその事故の最終報告書を9月下旬に原子力規制委員会に提出したが、規制委は「事故の組織的な要因の分析が不十分」として再提出を求めたというニュースが報じられた(11月7日付け産経新聞電子版)。
原発を再稼働させるための口実を作るために設置されたとしか思えない規制委員会ですら「機構はとにかく開発一辺倒でやりっ放しだった」とか「核燃料物質を扱う施設で、汚染は起きないと頭から思っていたのか」とか「体表面汚染と内部被曝がごっちゃになっていた」とか「事業者として線量評価をしなければいけない法律上の義務を怠っていた」などと指摘するほどいい加減な報告書だったらしい。
事故は起こりうるし、起こる。その事故を正しく分析し自ら批判することで、再発を防ぐことができるし、その経験を通して科学技術力は向上する。日本原子力研究開発機構にはそれがない、と原子力規制委員会は言っているのである。その能力に欠ける組織に報告書の再提出を求めることに意味があるのだろうか。私は疑っている。
もう一つのニュースは日本原燃料株式会社に関するものである。株式会社となっているが、核燃料サイクルの商業利用を目的に設立された国策会社である。その日本原燃が六ヶ所村に持っているウラン濃縮工場と核燃料再処理工場をめぐって「ずさん管理が次々と判明 日本原燃の核燃料関連施設」(11月8日付け東京新聞電子版)という報道があった。
ウラン濃縮工場では28年間交換しなかった非常用ディーゼル発電機の制御盤から出火(7月)、一度も点検したことがない排気ダクトの腐食による穴の発生(8月)などがあって、9月に生産停止に追い込まれた。
稼働が延び延びになっている核燃料再処理工場では、点検していなかった個所で32トンもの雨水が施設内に流入する事故が発生したため、新規制基準に照らして施設の審査していた規制委員会はその審査を中断した。24年前の1993年に着工した再処理工場だが、いまだにいつから稼働できるのか見通しが立たないのである。
原子力船「むつ」のこと、日本の原子力国策機関における事故やその処理の不始末を考え合わせると、日本の原子力工業はそのサイエンティフィックな面でもヒューマニスティックな面においても人的資源を欠いているのではないか、そういう懼れが大いに湧いてくる。
現状のままで原子力事業を維持することは、日本の不幸の基だろう。いったん衰退を始めた学問(文化)が立ち直る可能性は極めて低いということは、歴史の教えである。もっとも、衰亡する事象に執着する人間はけっして歴史から学ばない、ということも歴史が教えてくれるのだが……。
青葉通り。(2017/11/10 18:44~18:56)
仙台中心部の並木はケヤキとイチョウがほとんどだが、どちらも盛んに葉を振るい落としている。まだ振り残している木々に自動車のライトが映って、微妙な色合いを見せる。とくにケヤキの紅葉は褐色から黄色、時には赤色も混じっていい雰囲気だ。
車道の端を歩くデモ人は、吹き溜まりに集まった落ち葉を踏んで歩く。靴底の馴染みは、歩道とは格段の差がある。とはいえ、デモが終わればその歩道を歩いて帰るしかないのである。
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