老犬が死んでぽっかりと空いてしまった時空間を埋めるために、何か新しいことを始めようと思いたったのだが、それを考え出すエネルギーもどこかへ消えてしまったようだ。思いつかないまま過ぎてゆく。
定年退職を楽しみに待っていて、やりたかったことをあれもこれもと手を出したので、たいがいのことは新しいことではなくなった。もちろん世の中にはやれることがたくさんあるだろうが、私にはやりたくないことも、やれそうにないことも多いのだ。
せめてものことと読書に時間をかけ始めたが、これはとくに新しいことではないうえに、かつての読書ペースにはるかに及ばない。それでも、面白い本を見つけられて、この一週間ほどはそれを楽しんだ。
自分では新しいことが見つけられずにいたが、やることが向こうからやってくる気配がある。町内会の役も四月から最終局面に入って、極端に仕事量が増えそうだ。私を役員に誘った町内会長が私に後を託して引退したいと言い出した。高齢まで頑張って来られたこともあって引き留めることもできず、他の役員もそのシナリオに乗り気になっているようだ。最終決定は四月だが、避けられそうにない。
知人から電話があって「飲みませんか」という誘いもあった。私と同じほどの年齢の人だが、「年も年なので、会いたい人には会っておこう」と考えたというのだ。そうか、「会いたい人、会っておくべき人に会いに行く」ことが私の「何か新しいこと」になるかもしれない。そんな予感がする。
さて、これから夜の街に出ていくのだが、会いたい人に会うためにではなく、脱原発デモに行くのである。
日中は氷点下を脱するようになって寒さはピークを過ぎたようだ。
わが家では初めての経験だが、今年になって水道管を破裂させてしまった。家を建てた後にバルコニーに温室を建て、外から2階の温室まで水道管を引いた。その水道管が破裂した。ヒーターを巻いていたが、コードが断線して通電していなかったのだ。
勾当台公園の野外音楽堂のベンチに座っている影はまばらだったが、それも寒さの底だった先週に比べれば10人ほど増えて35人の参加者だった。
極寒と呼びたいほどの先週のデモに比べれば、どこかほっこりした気分でデモは出発し、気のせいだろうが、コールの声も伸びやかに聞こえる。
明るい一番町に入って、ファインダー越しに懐かしい顔をみつけた。仙台に金デモにずっと参加されていたが2年ほど前に関東に引っ越された人が参加していた。次の予定があって解散地点まで行けずに、挨拶しそびれてしまった。
一番町にも所々に雪が残っている。こんなに長い間雪が消え残るのは最近では珍しい。たいがいは、日中の気温で数日で消えてしまう。それだけ今年の冬は寒いということらしい。
一番町(2)。(2018/2/2 18:55~18:58)
少しばかり驚きながら一冊の本を読み終えた。菅香子さんという人が書いた『共同体のかたち』[1] という本だ。東京外国語大学時代の西谷修さんのお弟子さんで、その時の博士論文をベースに書かれた著作ということだ。
現代アートの芸術表現が「表象」から「エクスポジション(展示、露出)」へ変化することと、人間存在の根源的な共同性との相関を論じているのだが、取り上げられている画家や、思想家たちの顔触れが興味深い。
例えば、近代絵画はエドワール・マネから始まったとするミシェル・フーコーの『マネの絵画』[2] が取り上げられる。表象の不可能性を論じる時にはジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りのもの』[3]、顔だけを描いたジャン・フォートリエの《人質》と題された一連の作品 [4] にはエマニュエル・レヴィナスの「顔」の概念 [5]、芸術の送り手と受け手の間に成立する根源的な共同性を論じる時にはアガンベンの『開かれ』[6] や『到来する共同体』[7] などが取り上げられている。
著者が論考の理路のために取り上げた著作や絵画の多くが、私が読み散らかした本や足を運んだ見た絵画と重なり合っていた。そのことに少なからず心がどよめいたのである。
私はただ興味あるもの、面白そうなものをランダムに渡り歩いたにすぎない。学究の徒が体系的に調べ、追跡したものには比べようがない。それにしても、私の選好した一連の書籍や絵画が優れた論考の主要なベースとなっていたという偶然が、なにかしら喜ばしい感じがしたのは間違いない。
しかし、この本が指し示した「なんであれかまわないもの」たちの「共同性」という重要な概念について、ジャン=リュック・ナンシーのいくつかの著作はまだ読んでいないし、ロベルト・エスポジトに至ってはまったく読んだことがない。老いと読書のせめぎあいはまだまだ終わりそうにもない。
青葉通り。(2018/2/2 18:59~19:00)
読書と老いのせめぎあいはまだまだ続きそうだが、脱原発デモもまた老いとのせめぎあいに勝たねばならない課題だ。読書は私個人に属するが、脱原発デモはこの社会を生きる者としてのせめぎあいに立ち合っている。大学で6年間も原子力工学を学んだ者としての免れがたい責務もあるだろう。
うだうだしてはいられない。そんな思いばかりが募るのだが、老犬の死のアフターエフェクトは大きくて、心に力が入りにくいのである。
[1] 菅香子『共同体のかたち――イメージと人々の存在をめぐって』(講談社、2017年)。
[2] ミシェル・フーコー(阿部崇訳)『マネの絵画』(筑摩書房、2006年)。
[3] ジョルジョ・アガンベン(上村忠男、廣石正和訳)『アウシュヴィッツの残りのもの――アルシーヴと証人』(月曜社、2001年)。
[4] 『ジャン・フォートリエ展』(東京新聞、20144年)。
[5] サロモン・マルカ(内田樹訳)『レヴィナスを読む』(国文社、1996年)。
[6] ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年)。
[7] ジョルジョ・アガンベン(上村忠男訳)『到来する共同体』(月曜社、2012/2015年)。
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