862361 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

山行・水行・書筺 (小野寺秀也)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

小野寺秀也

小野寺秀也

Category

Archives

2024.04
2024.03
2024.02
2024.01
2023.12

Recent Posts

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Rakuten Card

Favorite Blog

涼し気 New! 元お蝶夫人さん

家が花で埋まってい… New! 木昌1777さん

異次元の自治体消滅…… New! ひでわくさんさん

ナルコユリが咲いた… New! じじくさい電気屋さん

2294. いつの間にか… New! カズ姫1さん

Comments

Freepage List

Headline News

2018.03.02
XML
テーマ:街歩き(613)
カテゴリ:街歩き

 2、3日前から義母が微熱を出し、軽い咳をするようになっていた。風邪から肺炎になるのを警戒して昨日から抗生物質を飲ませ始めた。何しろ、昨年の4月までは2月か3月に1回、救急入院していたのは1回のインフルエンザを除けばすべて誤嚥性肺炎だったのである。それが、今年はもう10か月以上何ごともなく過ごしていて、今はなんとか冬を乗り切ってほしいと期待しているのだ。
 今朝になって「7度5分ある」と妻が心配そうに言うので、さっそく酸素溶存量をはかったら85しかない。肺炎で救急入院というシナリオを二人で覚悟したが、酸素溶存量は安静時には低めに出ることがあるということを思い出した。
 まずは痰を吸引してみたが、きれいなものだった。それから義母を起こし、トイレに座らせて計りなおしたら97になった。義母の正常値である。差し当たって肺炎のおそれはないと判断して、訪問医への電話は取りやめ、様子を見ることにした。
 朝食後には熱も6度台に落ち着いた。ときどき酸素量も計ったが正常で変わりない。昼食後4時間ほど寝ていた後に計っても90だったので、少し安心して金デモに出かけた。






勾当台公園から一番町へ。(2018/3/2 18:21~18:42)


 寒い。勾当台公園の集会のあいだ立ち続けていたのだが、吹き続く風が異様に冷たいのだ。朝には暴風雪警報が出ていてものの昼過ぎに暴風警報に変わって、夕方には落ち着くだろうと期待していたのだが、少し風は弱まったものの冷たい空気が流れ込んでいる。
 北海道、日本海側は大荒れだというニュースが流れていて、宮城県はずっとましらしいが、それが慰めにならないくらい冷え込んできた。
 今年の冬は寒い。朝の散歩で地域猫観察をしている人が、老猫など馴染みの数匹が寒さで死んだと話していた。冬を乗り越えられない地域猫は毎年いるに違いないが、今年の冬は多かっただろうと想像はつく。

 遅刻して参加したので、集会のスピーチで話題になったかどうかわからないが、悲しいニュースがあった。毎日新聞2月20日付け電子版「​柏崎刈羽原発アンケ 「大事故起こらない」近い住民に多く」​というニュースで、次のような記述がある。


​​ 柏崎刈羽原発が再稼働した場合、福島第1原発並みの事故が起こる可能性について、5キロ圏では「起こらない」「たぶん起こらない」は53%で、「起こる」「たぶん起こる」は44%だった。これに対して5~30キロ圏では、「起こる」「たぶん起こる」が63%に上り、「起こらない」「たぶん起こらない」の36%を大きく上回った。​​


 これは宮城県で行った河北新報の世論調査と同じ傾向を示している。女川原発の再稼働に賛成する割合が多かったのは、 立地自治体である女川町だけだった。ここでも、その地域で生きるには、原発事故は起こらないという福島事故で打ち砕かれた幻想を抱き続け、信じるしかない住民の姿が見える。 
 科学的根拠もない。政治や行政による安全の保証も信じがたい。おそらく、そのことはよく知っていることだろう。それでも、「原発事故は起こらない」と自らに信じ込ませるしか生きるすべはないのだ。もともと経済的不振にあえぐ地方に原発は作られ、電源三法による交付金でがんじがらめにされ、住民の多くが原発ないしはその関連企業に生計依存せざるをえなくなっている。虚妄の安全神話にしがみつくしか生きるすべはないということなのだろう。
 彼らもまた、福島の人たちと同じく、政府や行政そしてこの日本の社会システムによって「可傷性」に曝されたまま生きている。いや、すでにその生を深く傷つけられているうえにさらに過酷な可傷性に曝されているというべきだろう。原発の安全神話を信じ、再稼働に賛成しつつも、原発がもたらす悲劇そのものを生きているのである。





一番町(1)。(2018/2/25 18:42~18:46)


 朝から吹き続く強い寒風のせいか、一番町の人出はいつものようには多くない。飲み会の集合場所になっている広瀬通り一番町角もほんのわずかな待ち人だけだった。
 とはいえ、脱原発を訴える私たちもわずか25人のデモなのである。午前中には暴風雪警報が出ていたこともあって、メーリングリストを使って「デモ中止の可能性があるかもしれないのでご注意を」という案内が流れていたということもあったし、朝のうちに不参加の知らせを送ってきた遠くからの参加者もあった。
 けっこう高齢の参加者(私もだが)もいるので、主催スタッフの心配は尽きないのである。





一番町(2)。(2018/3/2 18:46~18:54)


 私はカメラを持参して、脱原発デモに参加する。デモの列に加わることもあるが、たいていはデモの周囲を徘徊しつつ、デモの写真を撮る。帰宅後、写真を取捨選択し、RAWファイルに必要な修正を施して、JPEGファイルに変化して保存する。
 JPEGファイルから適当な枚数を選び出してサイズ調整をしたうえでフェイスブックのアルバムとして30枚前後を投稿し、ツイッターにも流す。20枚ほどの写真を使ってブログを書き、それもフェイスブックやツイッターで告知する。最後に、動画を編集してこれもフェイスブックとツイッターで流す。
 もともとブログに張り付ける写真を撮ろうと始めたのだが、首相官邸前の抗議行動(金官デモ)に参加するうち、SNSでのデモ情報が大切なことに気づいたのだ。首相官邸前ではプロカメラマンを含め、たくさんの人が熱心に集会の写真を撮ってSNSに投稿している。
 仙台に比べれば、圧倒的に大勢の人が参加する官邸前でも少しずつ参加者が減っていくのを心細く思っていると、官邸前で知り合った人たちが話していた。だから、仙台から参加した私を歓迎してくれるし、仙台でも金デモが継続していることを喜んでくれ、励みになると言ってくれるのだった。
 そんなことから、どんな少人数のデモであっても、地方で、全国で、反原発の運動が継続していることをお互いが知ることはとても重要だということに気づいたのだ。だから、仙台のデモのことを発信するばかりではなく、全国のデモの記事を拾い集めるように努めてもいる。

 プロカメラマンであれば、たった1枚の写真がジャーナリスティックに重要な1枚になることもあろうが、私の写真は仙台のデモ人の記録に過ぎない。腕の悪さは枚数で稼ぐ。そんなものである。
 今日もジュディス・バトラーの引用になるが、街頭のデモや集会の写真(視覚的表象)について次のように述べている。


​ 視覚的表象に関するこの論点が重要な一つの理由は、すべての人々が街頭に、あるいは少なくとも同じ街頭に集合する力を持つわけではないとき、いかなる群衆の写真も人民を表象することはできない、という点にある。ズームインすることもズームアウトすることも、ここで私たちの助けにはならないだろう。というのも、これらはまさしく、何が、誰が重要であるかを編集し、選択する方法に他ならないからだ。それが意味するのは、私たちは人民とは誰かという問いを、どの人々が人民として重要かを画定する技術から切り離すことはできない、ということだ。恐らく「人民」とは、人々を把握しようとするあらゆる、どんな視覚的枠組みも超えた呼称である。よりデモクラシー的な枠組みとは、その多孔的性格を編成する(オーケストレート)ことができるそれであり、そのとき枠組みとは、封じ込めの戦略を直ちに再生産するのではなく、その戦略そのものを部分的に解体するのである。​ [1]​


 もちろん、私のカメラが映し出すのが、デモに参加している人の実在性の一部しか写し取ることしかできない。ましてや「人民」を表象することなど不可能だ。それでも、人々の実在性の切れ端を丹念に拾い集めるしかない。それが私のへたくそな写真が持つそれなりの意味になるだろう。
 私の写真のことはさておき、上のバトラーの文章の後半、映像に写し取ることのできない「人民」のデモクラシー的な枠組みは人民の多様性を編成(オーケストレート)することができるという文章に惹かれた。
 もっと端的に言えば、「編成」に「オーケストレート」というフリガナが添えられていたことに惹かれたのである。もともとはorchestrateという動詞を「編成する」と訳したものなのだが、普通は「組織する」とか「構造化する」というような表現になるように思えるが、orchestrateと表現しているのである。
 ちょっと使ってみたくなる表現ではある。ちなみに、私のスマホにインストールしているジーニアス英和辞典のスクリーンショットを撮ってみた。


​ もちろん、特に変わった意味はない。バトラーの使用法に感心したというだけのことだが……。​








青葉通り。(2018/3/2 18:55~19:01)


​ デモの周りを小走りは知ってみたりもしたが、すっかり冷え切ってしまった。急ぎ足で帰宅し、写真整理もそこそこに、義母の痰の吸引をした(1日に2回の吸引というのは滅多にない)。いつもより痰は少ないぐらいだったし、酸素量も平常だった。まずは一安心ということだ。​



[1] ジュディス・バトラー(佐藤嘉幸、清水知子訳)『アセンブリ――行為遂行性・複数性・政治』(青土社、2018年)p. 24。



 読書や絵画鑑賞のブログ
かわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)

小野寺秀也のホームページ





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2018.03.03 16:52:57
コメント(8) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.