8月9日の金曜日、いつものように午後6時ころに家を出た。街にさしかかるころ、スマホを取り出して集会場所を確認しようとした。集会場所を間違えることがあった後の習慣である。
集会場所の確認のためのスマホの画面に出てきたのは、集会そのものが2日後の11日に変更されているという記事である。3・11の月命日にサイレントデモを行うということは確かに知っていたはずだが、なぜかすっぽり抜け落ちてていたのだ。「ボーっと生きて」いるのである(暑さのせいというわけではない)。
元鍛冶丁公園から一番町へ。(2019/8/11 15:58~16:29)
家を出るときには傘をさして出たのだが、元鍛冶丁公園のかなり手前で雨は上がった。雨を避けていたらしく、デモ人は屋根のあるステージの上に集まっている。
月命日の鎮魂のサイレントデモだが、いつもよりとくに参加者が多いというわけではない。
集会は黙祷から始まった。続いて3・11の後の発表された内池和子さんの「漂流する秋」という詩が朗読された。その詩は、次のような言葉で終えられている。
人はもう かつてのつつましい日々には もどれない
世界中の物事を瞬時に見うる映像や 音のない世界にはもどれない
体臭のしない互いの映像でつながりいやしあういまからは もうもどれない
いまを漂流するフクシマの大地で 私たちは なつかしい情緒の日々に別れを告げ
未来への水路をみつけなければならない
滅びようとしているたくさんの種と共生できる未来を 沈黙させてはならない
一番町(1)。(2019/8/11 16:32~16:36)
内池和子さんの詩で語られた言葉が、今日のデモの言葉のすべてである。ひそかに私はそう確信して、黙々と歩くデモ人を黙々と写すだけである。
一番町(2)。(2019/8/11 16:37~16:42)
いつものデモの大きな声のコール、語り掛けるメッセージはデモ人の列から放射されるエネルギーとすれば、沈黙のデモはあたかも周囲に引力を及ぼしているようだ。デモの脇を通り抜ける人々は、スピーカーからの情報が得られないまま、しばしの間吸い付けられるようにその視線をデモの列に向けているように見える。横断幕やプラカでデモの趣旨を理解するまで目が離せないのだろう。
青葉通り。(2019/8/11 16:43~16:53)
暗い曇天だったが、デモの間は降られずに済んだ。2年前の8月11日もサイレントデモで、小雨の中を歩いた。一昨年は55人のサイレントデモ、今年は30人のサイレントデモ。残念と言えば残念だが、サイレントデモには小さな集団がふさわしいような気がする。たとえば3000人ほどのデモが黙々と歩いているというのは、かえって不気味で異様に威圧的なのではないか。そう思って、今日のデモを良しとする。
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