【ホームページを閉じるにあたり、2011年3月4日に掲載したものを転載した】
午前中は南西部を歩いたので、午後は北東へ歩くことにする。それでも、先ほどは急ぎ足であった教育資料館前をもう1度歩くことからはじめる。
「遠山之里」前の県道36号(Photo A)の舗道脇に大きな「句碑案内板」なる看板がある。文字どおり登米町内の句碑の場所を示したものである。9基の句碑があるらしいが、私が知っている俳人は松尾芭蕉と高浜虚子だけであった。虚子の句は、
遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子 [1]
がとられている。私の中では、この句は虚子の句中、2番目くらいに好きな句である。ここで初めて気づいたのだが、 「遠山之里」はこの句に準拠しているのではないか。とすれば、これは「当たり」だと思う。良いセンスである。句碑案内板から登米町は俳句の盛んなところらしいことがうかがわれる。
Photo A 登米観光物産センター「遠山之里」前から教育資料館方向を見る道
(県道36号線)。
虚子は定型俳句、写生俳句の神様のような俳人であるが、無季自由俳句にも同じような光景を詠んだ句がある。
とほく山なみの雪のひかるさへ 種田山頭火 [2]
山の雪も別れてしまつた人も 種田山頭火 [3]
加えて、短歌を1首。
山の向ふの山をし見むと去りゆけばひとりきたりて野の石の上
中野菊夫 [4]
中野菊夫の短歌は、カール・ブッセの詩を思い浮かべさせる雰囲気もあるが、遠い山を見るとき、虚子では空間の美へ、山頭火や中野菊夫では空間から積み重ねた時間へ情が広がってゆくようである。
【左】Photo Aa 教育資料館南の桜古木。【右】Photo Ab 教育資料館西の松。
教育資料館の前には、かつての小学校を囲んでいたであろう桜の古木が残っている(Photo Aa)。樹皮の感じからいえば「ソメイヨシノ」だろう。
明治期から始まる日本の公教育制度は、どこでもソメイヨシノを伴って歩んできたのである。桜としては寿命の短いソメイヨシノは、木造校舎の寿命と期を一にするのであろう。
私が通った小学校も(この登米尋常小学校ほど古くはなかったが)、 大きなソメイヨシノの並木坂を上ったところにあり、校庭は校舎をのぞく南面と東面が大きなソメイヨシノに囲まれていたのである。私が卒業した後に校舎は建て替えられ、ソメイヨシノもすでにないのである。
団体客でもあろうか、さっきよりも観光客の増えた教育資料館をゆっくりと眺め、敷地を回るように西沿いの道へ右折する。その舗道には松の木が生えており、舗道は松の木を迂回するように造られている(Photo Ab)。
日本では道路を造るといえば、ひたすらまっすぐに邪魔なものは取り払ってしまうのが普通である。それを日本では「合理的」「経済的」と言って、どうもある種の人たちには美徳の一種であるらしい。この松は舗道部分であったことが幸いしたのであろう。ミシェル・フーコーのいう「ホモ・エコノミクス」の理想型である日本人(アメリカ合衆国の白人エスタブリッシュメントほどでもないかもしれないが)には珍しい行いではある。
教育資料館の裏手は、現在の登米小学校である。道は、登米小学校敷地の南西端にかかるあたりで北西に曲がっている。道なりに進むと広い道路に出て、それを右折すると右手は、登米高校である(Photo B)。
Photo
B 登米高校南側の道を北西へ。
町歩きMAP 青線、黒字は午前に歩いたコースと写真のおおよその撮影地点。
赤線、赤字は午後のコースである。矢印はと撮影方向を示している。
地図のベースは、「プロアトラスSV4」、 歩行軌跡は、「GARMIN
GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータによる。
本当によい天気である。こんな見通しの良いところに出ると、天気の良いことをあらためて知る。登米高校の体育館は道路向かいにあり、校舎と体育館の間を進んで、高校の敷地に沿って右に曲がる。校庭(グランド)が尽きるところで道は分かれ、左折して山辺の方に向かう。 目標は「森舞台」である。
Photo C 登米高校北橋付近を左折した道。
Photo D 「森舞台」へのアプローチ。
小さな木製の行先案内にしたがって山の麓に沿って歩いて行くと、「森舞台」の施設が見えてくる。
「森舞台」という優雅な呼び名は、伝統芸能伝承館の能舞台に当てられている。森舞台の前の道は人通りもほとんどなく、道向かいは広場になっていて、犬を繋いでも支障がないと思われたので、ここは中に入って見ることにした。
私が生まれた町の八幡神社にも、能や神楽のための舞台があったが、私はそこで舞われる能は見たことがない。祭の時に神楽が奉納された記憶がうっすらとあるから、もう50年以上も前にそのような祭の行事は途絶えたのではないかと思う。
能舞台の正面には広い縁のある総ガラス戸の建物が向かいあい、稽古場らしいのだが、能上演のさいには良い客席となるのだろう。左手の野天の客席は、緩やかな段になっていて、玉砂利が敷き詰められている。そこから見る能舞台の背景は、孟宗竹の林の斜面でケヤキらしい大木(落葉していてよく分からなかったのだが)が混じっていて、文字どおりの森舞台である。
印象的だったのは、舞台床下の音響用の大甕である。舞台上の鼓に合わせて踏む足音に共鳴するのであろう。能や神楽のことはあまり知らないが、この甕たちが創り出す共鳴音を聞いてみたいと思う。
このような甕を使って水琴窟を造ることを生業とする知人がいて、何度かその音色を聴かせてもらったことがある。しかし、商売としては不調のようであった。水琴窟があるような日本庭園などというのは、私などにとっては入場料を払って見る(聴く)のがせいぜいで、個人の庭で造る人がいるとしても、私とは無縁の人であろうと思っていた。
Photo Da 「森舞台」床下の音響効果用の大甕。
Photo E 「森舞台」から南への道。
「森舞台」からまっすぐに出る道(Photo E)を歩くが、この道は一回りしてもとの道に戻ってしまう。左に行く道があったのでそちらに進む。小さな谷に出来たような坂の道(Photo F)である。坂道と曲り角は、散歩道の必須要件である。
登ってゆくと、右手の人家の奥からこちらをみている犬がいる。毛色も体型も大きさも、イオと似ている犬である。母屋のずっと奥、広い裏庭から見ているのである。犬は近眼なので、私たちをどのように認識したかは分からない。イオもその犬を見ていたが、イオもまたその犬を認識したかどうか分からない。遠くのものの場合は、犬はその動きから何ものかを判断するのだと思う。多分、2匹とも互いを景色に1部として、すぐに忘れてしまうのである。写真に撮って忘れないための手続きをする人間だけが、だんだん重くなるのである。
Photo F Photo E の道を左折、東へ上る坂道。
Photo Fa 奥庭から見つめている。
道は地図には記されていない延長を通って、丘の尾根を走る道に出る。そのT字路を右折して少し行って、地図に記載された神社の方へ左折しようと思ったのだが、その道が見つからないのである。
さっきは記載されていない道を通ったが、今度は記載されている道がないのである。町歩きMAPには、「森舞台」でその内部を行きつ戻りつした様子がGPSトラックに示されているが、この付近のトラックが太くなっているのは同じ道を何度も往復して道を探したためである。
通りかかった婦人に尋ねると、知らないと言う。代わりに、近くにある「高台院霊屋」への道を丁寧に教えてくれた。
Photo G Photo F の突き当たりのT字路を右折した道。
道探しは諦めて、ご婦人のお薦めにしたがって高台院霊屋へ行く枝道に入った(Photo H)。両脇に石が並べられている土の道である。この道の突き当たりを右に曲がるのだが、それは下の本道からまっすぐに上がってくる細道から続く道でもある。ただし、その細道はあまり利用されていないらしいことは、下草、落葉の様子からうかがわれた。
町歩きだというのに、土の道、落葉の細道、その山道らしさにほっとしてしまうのである。
Photo H Photo G の道の下り始めで分岐、右、覚乗寺高台院霊屋への道。
登米伊達家の霊屋は、「方三間」のごく質素なものである。印象に残ったのは不揃いの自然石を敷き詰めた参道である。どう表現していいのか分からないが、えもいわれぬ雰囲気がある。霊屋に向かう石畳の両脇には4基ずつの石灯籠が並べられていて、何となく藩主と家臣の関係をイメージさせるものがある。
Photo I 覚乗寺高台院霊屋。
高台院霊屋からの帰りは、使われていないらしい薮道を突っ切って本道に下りた。近道でもあったし、なによりもイオも私もそんな道が好きなのである。
[1] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 4。
[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 25。
[3] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年) p. 45。
[4] 『現代日本文學大系95 現代歌集』(筑摩書房 昭和48年) p. 437。
[5] 『日本の古典55 芭蕉文集 去来抄』(小学館 昭和60年) p. 68。
[6] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 354。
[7] 『現代日本文學大系19 高浜虚子・河東碧梧桐集』(筑摩書房 昭和43年) p. 359。
【続く】