ほぼ一か月半、家事のすべてを一人でやってきて、だいぶその生活リズムに慣れてきた。妻が左手橈骨骨折で入院、手術をしたのだが、その骨折は順調に治ったものの、整形外科的な不具合がいくつか見つかって通院治療ということになった。115歳まで生きた母の介護を在宅で続けてきたことが妻の体に無理を強いたのだろう。
そんな妻の事情を知っている主治医がとても熱心に治療にあたってくれていて、どこか妻は張り切って通院しているように見える。その妻の送迎と家事全般をやることがずっと続いているのである。これがいつまで続くのか、まだ先は見えない。
肉体的にはたいした労働ではないのだが、当初の二週間ぐらいはとても疲れた。それで先々週は金デモに出たもののブログを書くまでには至らなかったし、先週の金デモは休んでしまった。それでもようやくそんな毎日が普通の一日の感じになって来た。ただ、朝早い私が作る朝食はそれまでより一時間半ほど早くなって、妻は何も言わないがいくぶん不満らしい危険な気配を漂わせている。
肴町公園から一番町へ。(2020/9/11 18:13~18:38)
朝晩はようやく涼しくなってきた。今日は久しぶりの肴町公園である。しかし、午後6時過ぎればすっかり日が暮れて、街灯の少ない肴町公園は、露出優先のオートフォーカスではシャッターが切れないのだった。
フリースピーチは、女川町議会が女川原発2号機の再稼働を容認したこと、石巻市議会、宮城県議会の動きなどが中心的話題だった。それに対して、多くの市民団体の抗議や、要請行動がなされている。
9月26日には県民大集会を開催し、6割以上の県民が再稼働に反対していることをアピール行進で締めそうという予定している。
宮城県の新型コロナ感染者もじわじわ増えていて、その先行きが心配されるが、何とか集会が実施できればいいのだが………。
集会を終えて30人のデモ人は薄暗い肴町公園を出発したが、今日のデモコースはいつもの半分くらいである。肴町公園から一番町に出て、一番町を南進してすぐに青葉通りを左折して流れ解散の仙都会館前の向かうのである。
明るい一番町はあっという間に通り過ぎるので、けっこう忙しくシャッターを切ったが、やはりとても雑な感じの写真になってしまった。
一番町。(2020/9/11 18:40~18:43)
「原発事故から 故郷へ帰還できず 死去2600人余 福島」(9月9日付けNHK NEWS WEB)という哀切な事実を伝えるニュースがあった。
福島県の「帰還困難区域」から避難した住民のうち、ふるさとへの帰還がかなわぬまま亡くなった人が少なくとも2600人余りに上っていることを伝えるニュースである。このニュースでは触れていないが、政府が定めた「帰還困難区域」以外からも多くの人々が避難して、その中にも帰還できないまま亡くなった方も多くいるだろう。
帰還困難区域は7市町村にまたがっていて、事故当時は2万6500人余りがすんでいて、その1割に相当する2670人が亡くなったという。
原発事故が起きたとき、あるいはこのようなニュースが流れたとき、福島県大熊町に原発建設を認めた当時の首長や議員たち、そして積極的に賛成した住民たちも、激しく心が痛むのではないか、とずっと想像してきた。自分の隣人、友人、親戚を故郷から追い出す結果になる原発誘致を積極的に推し進めたことを後悔しないはずがないとずっと思ってきた。
苦しむのは被害者ばかりではない。被害を生み出し要因に加担した人々も苦しむことになるだろう。地方の首長や議員たちが、心に痛みを感じない人非人ばかりとはとうてい思えない。
しかし、女川町議会は大熊町と同じ道に足を踏み入れた。石巻市の市長や市会議員、宮城県知事、県会議員たちが死ぬほどつらい思いをする未来が来ないことを祈るしかない。
青葉通り。(2020/9/11 18:47~18:50)
私は、夕食前に風呂に入り、食事時に少しのアルコールを摂取する。もともと酒好きなのだが、職業人であったとき、ストレスで声が出なくなり夕方には喉から出血するという日が続いたとき、風呂と晩酌後には喉も声もすっかり恢復するのを経験してから、ますます欠かせない習慣になった。
しかし、今日はそれも無理だろう。帰宅したらただちに夕食の準備をしなければならない。白米だけは電気釜が自動的に炊き上げてくれているはずだが、三人分のおかずを用意しなければならない。何よりも帰路の間にメニューを決定しなければならない。それがもっとも厄介なのである。