脱原発デモに参加できなかった日には!
3月18日開催の脱原発みやぎ金曜デモに参加できなかった。3日前にパソコンワークを終えて立ち上がろうと椅子から腰を浮かしたとき、ぎっくり腰になってしまった。二週間ほど前にはトイレを終えて立ち上がろうとしたときに同じことが起きていた。どちらも軽いぎっくり腰なのだが、2回も続いたので、腰痛対策用なるパソコン椅子を慌てて注文した。 ぎっくり腰そのものは日常的な動きには差し支えない程度の軽いもので、2日後にはかなり回復していたのだが、16日夜の地震(仙台市青葉区は震度5強)で、町内の高齢者の安否確認や被害点検で午前2時くらいまで動き回って、その後は余震に備えて夜明けを待つことになった。おかげでぎっくり腰の回復は後戻りのようになって、18日の金デモは休まざるをえなかった。 ぎっくり腰で金デモを休むことはほとんどなかった(はず)だが、最近はけっこうデモを休むことが多くなった。3回に1回、下手をすると2回に1回ぐらいの頻度で休むことがある。用事があって休むこともあるのだが、どちらかと言えば用事が重なって疲れて休むことが多い。老人は疲労の回復が遅いのである。 休んだ金デモの翌日、腰痛対策用のパソコン椅子が届いた。その二日後、椅子に座ってパソコンを操作し続けられるほどに腰は(十分に)回復した。それで、原発に関する昔のブログの再確認の作業を再開した。たいした内容のないもの(ほとんどはそうなのだが)は飛ばし、確認しておきたい部分を抜き出すのである。 今日、抜き出しておきたいと思ったもの一つは、「「6月14日 脱原発みやぎ金曜デモ」 ~~東一番町 ブラザー軒~~」というブログの一部である。 5月17日の朝日新聞・朝日歌壇に次の歌が選ばれていた(選者:高野公彦)。 下北の原燃原発見下ろして安全無限の風車が回る (東京都)宮田礼子 風力発電の風車の支柱が折れるという事故のニュースがあって、風力発電にもそれなりのリスクはある。しかし、無人の野に建てられる風車では真下に人がいる確率はほとんどゼロに等しく、仮に人身事故が起こったにせよ、東電福島第1原発のリスクとは比べようがない。 風車のリスクを基準にすれば、原発1基のリスクは無限大であることは〈フクシマ〉によって事実として証明されている。原発を基準にすれば、風力発電の風車の「安全性」は無限大である。 原子力や放射線医学の専門家はしばしば「リスクコミュニケーション」が大事だという。しかし、彼らのリスクコミュニケーションとは口八丁、手八丁、加えて札びらの威力で「無知な大衆」に「安全である、危険はない」と信じ込ませる作業であるらしい。少なくとも、東大教授の島薗進先生の『つくられた放射線「安全」論』 [1] をよむかぎり、そうとしか思えない。 専門家の「安全信仰」と比べれば、上の歌に詠まれた「安全無限の風車」という歌詠みの眼差しがいかに正しく、信頼できるかは言うまでもない。(2013年6月14日) いま、国(環境省)は1F事故による汚染水を「処理水」と言いたてて、福島の子どもたちへの一方的な洗脳活動を行い始めている。これが、彼らのリスクコミュニケーションなのである。 もう一つは、「「7月19日 脱原発みやぎ金曜デモ」 参議院選挙を前に。」の中の次のような一文を抜き出してみた。https://plaza.rakuten.co.jp/kawamaecho/diary/201307190000/ 原発ゼロを望むのは国民のマジョリティの意見である。憲法改正反対もマジョリティの意見である。少なくともマスコミの調査ではそのような結果が出ている。つまり、その2点に関して言えば、私はマジョリティの側に属している。 今までだってそのようなことはあった。最大の争点と思われることがらでマジョリティの側として投票したのに、それが結果に反映されないのだ。日本のマジョリティは、政治的争点ということを考慮して投票しているわけではないらしい。 そのことを自民党は知悉していて、今回の選挙での最大の争点のはずの「憲法改悪」、「原発」、「TPP」、「嘉手納基地」を完全に隠してしまった。首相は選挙を福島から始めながら「原発」に触れようともしない。そんな卑怯な方法も、経験的には有効であることを自民党はよく知っているらしい。 何よりも不思議なのは、争点を隠されたら国民から見えなくなるらしいということで、ほんとうに理解するのが難しい。たかだか2週間ちょっとの間、政治家が口にしなかったら、原発やTPPの問題はないものだと考えるらしいということが理解できない。 一番気になるのは、「政治は大所・高所から判断するべきだ。原発だけが日本の問題ではない。憲法以外にも緊急の政治課題があるのだ。全体を勘案して投票すべきである」としたり顔で語る「高所・大所シンドローム」患者が意外に多いことである。そんな言説で政治的争点がグズグズにされてしまう。 そんな患者は、町会議員や市会議員、その取り巻きでいっぱしの政治家気取りの人間、あるいは職場や町内の政治通らしき人間に多いように思う。たぶん、新聞、雑誌、本、ネットなどのマルチメディアから政治問題を積極的に集めようとしないマジョリティは、そんなクズな言説にしてやられるのかも知れない。 ましてや、テレビだけが情報源だということになったら最悪である。テレビに出てくる解説者、評論家などというのは、純正な高所・大所シンドローム患者そのものなのだから。(2013年7月12日) 1F事故から11年、自公政権は今でも選挙では原発問題を争点から徹底的に見えないように画策している。それに、「原発問題だけでは政治は語れない」などとしたり顔で応じる輩が輩出する。原発問題を解決できない政治が、ほかの問題を解決で来るはずがないのだが………。 ブログを書いたときの金デモの写真も選んでみたが、いい写真は1枚もない。このころは、まだ3台あったコンパクトデジカメのどれか一つで写していたのだが、ただ被写体にレンズを向けてシャッターを押すというだけの作業で、何か工夫するなどということもなかった。 そういえば、あのデジカメたちがどうなってしまったのだろう? ブログの再点検は遅々として進まない。「デモに参加できなかった週はせめて再点検を」などと考えてみるが、疲れていたりぎっくり腰でデモを休むのにそれが可能だという保証は何もないのである。 まあ、「できるときはやりましょう」という程度で進んでいくしかないようだ。読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也)