カテゴリ:政治 政治史 行政
イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガル・スペイン・イタリア・オランダ。 奴隷貿易の後ヨーロッパ諸国はアフリカ全土を植民地にしてしまった。人をさらい、物を奪い、土地を分捕り、部族闘争を生み出し、飢餓と貧困をもたらした。 彼らは何の謝罪もせず、自分の罪を認めず、今「正義」の名のもと日本・アメリカ・カナダにアフリカ支援を呼びかけている。 ライブ8はイギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガル・スペイン・イタリア・オランダの八カ国に、過去の罪を認め、謝罪し、支援を約束させるためにこそ行われるべきである。 現在のアフリカの諸問題の根源は、すべてヨーロッパにあるそもそもアフリカは、人類誕生の地である。アフリカ東部で発見されたホモ・ハビリスの化石は、一五〇万年から二〇〇万年以前のものだそうである。 この大陸は、海岸線がきわめて単調で屈曲に乏しく、しかも沿岸台地が海に迫り、直接外洋の波浪が打ちつけるため、湾や入り江のある良港に恵まれていない。だから外洋から船が河川を遡って内陸奥深くまで舟航することが不可能で(ナイル川は例外)、このためアフリカの外界との交流は阻害されてきた。 さらに気候条件も恵まれない。北部と南部の回帰線あたりには、サハラ砂漠とカラハリ砂漠の大乾燥地帯が横たわる。 アフリカ大陸の中央を赤道が通り、コンゴを中心とする熱帯雨林地帯が広がり、これを取りまいて草原のサバンナ地帯や乾燥疎林地帯が続いている。このような不健康な気候のため、疾病や飢饉が襲って死亡率も高く、全アフリカで人口は約六億七〇〇〇万(一九九二年)程度と、世界の諸大陸中、最も稀薄である。 その原因は、この酷しい自然環境のほかに、白人がもたらした人為的なものである。つまり、十六世紀から十九世紀に展開された奴隷貿易で、働き手である大量の青年男女が奪い去られたからである。 また、アフリカ諸国の国境が、今日においても、定規で線を引いたような直線的な様相を呈しているのは、白人本国の都合で住民、人種を無視して勝手に分割統治したからである。 同一民族が二つに分離されたり、対立民族が同じグループに一まとめにされたりした。このような民族の歴史、文化、生活を全く無視した不合理な分割統治が、今日のルワンダをはじめとするアフリカにおける地域紛争や不幸の根源になっている。 また、労働力がゴムやコーヒーなどのプランテーションへの強制労働に駆り出されることによって起こる飢饉や、白人がもたらした文明病による疾病、さらにソ連からの共産イデオロギーによる紛争など、現在アフリカがかかえる悲惨な問題の根源は、突きつめるとすべてヨーロッパに起因していることがわかるのである。 ボーア戦争と、南アの「アパルトヘイト政策」の起源アフリカの南端、現在の南アに今から二五〇年はど前に最初に入植した白人は、オランダ人であった。彼ら入植白人は、自分たちこそ真のアフリカ人だとして、アフリカーナーと自称した。 これはちょうど英国からの難民のピューリタンが北米大陸にわたってきて、土着のインディアンを排除して、自分たちこそ真のアメリカ人だと言い張ったのと似ている。 イギリス人はアフリカーナーを、ボーア人と呼んでいた。オランダ語で「百姓」という意味だ。本国オランダから見捨てられた棄民である。 このオランダのケープ植民地は、一七九五年にあとからやってきた英国人によって武力で奪い取られてしまった。英国の支配を嫌ったオランダ人は、北上してアフリカ人のズール国やマタベレ国を占領し、トランスバール共和国とオレンジ自由国を樹立した。 その後、これらの国からダイヤモンドや金が発見された。それに目がくらんだ英国は、自国民をどしどし送り込み、乗っ取りをはかった。こうして起こったのがボーア戦争である。オランダ人は逆に英国戦争と呼んでいる。 ボーア人は一八九九年から一九〇二年まで三年にわたって善戦したが、物量に勝る英軍に降伏し、英国の自治領・南アフリカ連邦に併合されてしまった。 その結果、アフリカーナーの多くはプアー・ホワイトと呼ばれる極貧層に転落したが、今度は彼らは仇敵の英国人と協調して、アフリカ黒人の徹底的な収奪による貧困からの脱出をはかった。これが悪名高い「アパルトヘイト」である。白人は、結局白人だったのである。血は水よりも濃いということである。 アパルトヘイトとは、アフリカーンス語で「分かれている状態」の意味である。白人と黒人を完全に隔離するということだ。もともと黒人の住んでいた土地に入り込み、今度は別々に住もうというのだから勝手である。それなら最初から来なければよかったのである。 アパルトヘイトが制度として南ア共和国に確立したのは一九五〇年代だ。 現在、南アの黒人は二五〇〇万人、白人は五分の一の五〇〇万人、そのうちアフリカーナーは六〇パーセントの三〇〇万人を占めている。平均賃金は白人一〇〇に対して黒人二五で四分の一。また南アの土地の九〇パーセントが白人の所有。わずか五分の一の白人が九〇パーセントの土地を押さえ、四分の一の賃金で五分の四の黒人を働かせることができれば、白人だけが儲かるのは当たり前である。 第二次大戦後、アフリカ諸民族は深刻な民族紛争をかかえながら、次々に独立を果たした。その中にあって、南アのみは、人種差別のアパルトヘイト政策を確立した。しかし、時代の趨勢による国際世論の厳しい反発があり、デクラーク白人政権は、一九九〇年、長年投獄していたマンデラを釈放して、アパルトヘイトの廃止に踏み切った。 そして一九九四年、初めて黒人政権としてのマンデラ政権が成立した。 最後にアフリカについて、きわめて大事な点を一つ指摘しておきたい。アフリカは人類発祥の地でありながら、現代までほとんど世界史に登場せず、真実の歴史が伝わらなかったのは、アフリカは《文字のない文化》だったからだ。話し言葉は各民族にたくさん生まれているが、文字がないため、歴史が伝わらなかった。アフリカは「歴史のない大陸」だったということができる。 アフリカの歴史は史料がないので、研究者は聴き取り調査するしかない。G・ヴェイヤールはかつて「アフリカで一人の古老が死ねば一つの図書館が焼けたようなものだ」といった。語り部として老人だけが過去を知っているからだ。 ヨーロッパ白人がこの大陸で犯した種々の収奪、分割支配、奴隷狩り、奴隷貿易などを記録した数字は、どれも白人側からみたものばかりで、その数字は、きわめて控えめのものである。原住民の古老や識者が文字で書いた真実の歴史が残っていれば、白人侵略の事実は、もっと残酷悲惨なものであっただろう。これからは川田順造氏のような気鋭な文化人類学者の実地調査による真実のアフリカ史によって、空自を埋めてもらいたいものである。
六日にわたって書き続けてきた「ライブ8の深層」も明日でおしまい。明日はアフリカの真の復興のために何をすべきかと言うことについて触れてみたい。 平成十七年 六月二十五日 James Brown "Say it loud, I'm black and I'm proud" を聴きながら お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年07月15日 08時19分17秒
コメント(0) | コメントを書く
[政治 政治史 行政] カテゴリの最新記事
|
|