テーマ:歴史(46)
カテゴリ:歴史 傳統 文化
旧暦一月六日、六日年越、良寛忌。睦月、うぐいす鳴く。 打倒された邪馬台国(続き) ■五、天孫族と邪馬台国の冷戦■ そもそも卑弥呼が倭国連合の象徴的元首の地位についたのも、天孫族の東征が発端となっていたようだ。 《その国、もとまた男子を以て王となす。住まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して王となす。名は卑弥呼という。》 「男王」がいた確実な時期として、西暦百七年の伊都国王の師升とするなら、その七八十年後の西暦百八十年前後に「倭国 の大乱」があり、その後に推戴されたのが卑弥呼であった。 この「倭国の大乱」こそ、後に「神武東征」と呼ばれる戦乱であったと八木氏は推測している。「神武東征」を架空の神話と考える向きが多いが、それにまつわる伝承や考古学的物証が各地に遺されており、その神話のもととなった何らかの歴史的事件があったと考えられるのは、[A、B]に述べた通りである。 これが正しければ、天孫族は西暦百八十年頃、天下統一を目指して、奈良盆地の南半分に進出して熊野国を打ち立てたが、それに対抗して共立された卑弥呼率いる倭国連合に阻まれ、西暦二百四十年の頃には冷戦状態にあった、ということになる。 ■六、邪馬台国が魏に救援を求める■ 梯儁は邪馬台国に着き、皇帝からの金印や銅鏡を下げ渡し た。その答礼として、西暦二百四十三年には再び、邪馬台国の使者一行が洛陽を訪れている。 しかし、難升米の懸念はその後、すぐに現実のものとなった。西暦二百四十五年に狗奴国が邪馬台国に攻撃を仕掛けたのである。難升米は直ちに魏の救援を求める使者を、帯方郡に送った。 急を知った梯儁は、邪馬台国からの使者を連れて洛陽に赴き、司馬仲達に奏上した。軍略家だった仲達の決断は早かった。難升米に対して、皇帝の黄幢(軍旗)を授ける、という公式の詔書を発した。邪馬台国の軍は魏皇帝の軍である、という大義名分を明らかにして、敵を威圧しようとしたのである。蜀や呉と対峙していた魏には、とうてい軍隊を倭国に送る余裕はなかった。 梯儁と邪馬台国の使者が再び帯方郡に戻った頃、第二の使者 が駆けつけてきた。狗奴国の攻勢が熾烈を極め、邪馬台国の軍は後退を続けているという。「一刻も早く救援を。無理であれば、大国(魏)の仲介をお願いいたしたい」と難升米は要請してきた。 古事記、日本書紀には、このあたりの記録が欠落してるが、皇室系譜などは残されている。それを頼りに、八木氏は北伐に乗り出したのは、第五代孝昭天皇ではないか、と推察している。孝昭天皇は南大和の地元の豪族の娘二人を妃としていたが、即位後二十九年も経ってから、尾張の豪族の妹を正妃に迎えている。ここから大和王権は倭国連合に属していない東国と結び、背後の安全を確保してから、北に攻め込んだ可能性が考えられるのである。 ■七、卑弥呼倒れる■ 魏志倭人伝は、 《張政ら、詔書と黄幢をもたらし、難升米にさずけ、檄をつくって告諭す。》 と伝える。帯方郡の武官・張政が西暦二百四十七年に皇帝の詔書と黄幢を持って邪馬台国に赴き、軍事顧問として狗奴国の攻勢をはね返すべく檄をとばした、というのである。 た。争乱に乗じて、邪馬台国を乗っ取るような事をすれば、倭国連合各国が再び結束して、狗奴国に攻め込んで来るかもしれない。それよりも今しばらくは各国が相争う事態を静観しながら、国力の充実に努めた方が良い。狗奴国の指導者は天下統一の望みを秘めながらも、そうした冷徹な計算のできる人物だったようだ。 ■八、新しい女王のもとでの治安回復■ 結局、邪馬台国が男王を引っ込め、代わりに卑弥呼の一族の少女・壱与を新たな女王として立てると、倭国連合各国は納得して、争乱は収まった。 た。 西暦二百六十六年、司馬仲達の孫の司馬炎が魏の皇帝から帝位を奪い、晋の王朝を開くと、邪馬台国はすぐに晋の成立を祝う使者を送った。 《晋の起居(皇帝の公的日誌)の注にいう、武帝の泰初二年十月に倭の女王、訳を重ねて貢献すると。》 日本書紀が「起居」から引用した記録である。「倭の女王」が文献に姿を見せるのは、これが最後であった。 ■九、歴代天皇が継承した国家統一の志■ 一方、古事記、日本書紀では、邪馬台国の消滅に符合する事実が記録されている。第八代孝元天皇は河内(大阪府)の豪族の娘を妃に迎えており、天孫族の勢力が女王国の元領地であっ た河内に広がった事を窺わせる。 第九代開花天皇に至って、宮殿は初めて南大和を離れ、奈良盆地の北端に移った。そして丹波(兵庫県)の豪族から妃を迎えた。 第十代崇神天皇の時代になると、妃の出身地は、近江(滋賀県)、山背(京都府)、紀国(和歌山県)に広がっている。こうして邪馬台国が領有していた近畿一円の地は、大和の王権に吸収された。中国に臣従し、その権威を借りて国内を治めようとした邪馬台国は、自主独立の精神を持つ大和王権に屈したのである。 初代神武天皇は、日向の地を発つときに、こう言われたと伝えられている。 《東方はまだ国神と称する酋長が勢力を争ってさわがしいと 聞きます。四方を青い山に囲まれた大和が大八島(=日本)の中心です。天照大神の思し召しである、この国のすべての人々を安らいで、ゆたかにくらせるようにするには、みやこを大和におくのがよいと思います。[A、二、十頁] 驚くべきは、この初代天皇の志が第十代崇神天皇に至るまで脈々と受け継がれ、着々と実行されていったことである。(文責 伊勢雅臣) 平成二十年二月十日国際派日本人養成講座五百三十五号 平成廿年 二月十二日 ジミヘンドリクス「ラヂオ壹」を聴きながら 愛子内親王殿下は男系女子なので、民間男子との間に設けられた御子様は「女系」でも「男系」でもない。 男┌女…雑系女子 ├┤ ┌女└男…雑系男子 男 ┌女…雑系女子 │ ├────┤ (神武天皇) 女│女┌女…男系女子=愛子内親王└男…雑系男子 ├┤├┤ 神倭伊波礼毘古命┌男└男└男…男系男子=悠仁親王 ┌女…男系女子 │ │ │ ├────┤ │ │ │┌男…双系男子 女 └男…男系男子 ├────┤ ├┤ │ │ │└女…双系女子 │ │ │ 多多良伊須気余理└女┌女┌女…女系女子 ├┤├┤ 男│男└男…女系男子 │ └男┌女…雑系女子 ├┤ 女└男…雑系男子 従って今次の皇室典範改正問題の論点は「女系天皇を容認するか否か」ではなく「男系天皇を放棄するか否か」である。 コメント・トラックバックは予告無しに削除する場合があります。あらかじめご了承下さい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月12日 22時48分30秒
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