テーマ:教育(24)
カテゴリ:教育
天保暦八月廿七日 葉月 菊の花咲く お師匠様はボランティア 当時の江戸には千五百余りの寺子屋や塾があった。幕末の全国では一万五千にものぼる。僧侶や神官武家農民などが運営していたもので幕府は直接的には一切関与していなかった。これらの人々が自宅などに十人から大きいところでは百人程度の生徒を集め読み書き算術地理さらには農業用語や漢文まで教えていたという。現在で言えば正規の小中学校がなくすべて町中の書道教室や学習塾のようなものだけだったと想像すれば良い。 達がやっているので授業料などは生活の足し程度でしかなかったという点だ。生徒はお志として都市部では多少の金品や菓子折り農村部ではとれた野菜などを届ける程度であったという。現在なら年金だけで食べていける定年後のお年寄りが地域への奉仕として子供達を教えるというような形である。今流に言えば、ボランティア活動であった。 それではなぜ全国で一万五千もの塾ができる程大勢のボランティアの先生がいたのだろうか。それは先生になるとたとえ身分は町人でも人別帳には手跡指南など知的職業人として登録され生徒にはお師匠様と尊称で呼ばれ地域でも知識人有徳者として尊敬された。優秀なお師匠様は将軍に直接拝謁してお褒めの言葉をもらうこともあったという。 お師匠様たちは物質的には豊かでなくとも近隣の人々に感謝 され尊敬されるという精神的な価値で十分満足できたのである 理想のマンツーマン教育 もちろん実力や人格に問題のある先生もいたであろう。しかし狭い地域内に幾人かのお師匠様がおり生徒は自由に選べるのである。現在でも町内でどこの塾が良いというようなことは評判ですぐ分かる。つまらない人間が金目当てに塾を開業しても生徒は集まらない。生徒とその親から見れば選択の自由そして塾どうしで見れば競争があったのである。 子供の個性や能力がよく見えたであろう。それぞれの生徒に応じた指導ができたはずである。 七千種もの教科書 お師匠様たちの教育にかける熱意は当時の教科書に窺う事が出来る。江戸時代に作られた教科書は実物が残っているものだけで七千種類以上もある。大まかに二百五十年で平均してみれば年間三十種類も出ていたことになる。 紙なども真っ黒になってもその上から書く。新しく書いた所は光ってそれと分かるので支障はなかった。 教科書にしろ半紙にしろ限られた資源を最大限に活用してその中で十二分に知恵と情熱を盛り込んで教育に向かっていた様子が窺われる。 平成十年三月廿八日 國際派日本人養成講座 女性天皇と女系天皇の違ひ 愛子内親王殿下は男系女子なれば民間男子との間に設けられし御子様は「女系」にも「男系」にもあらず
男┌女…雜系女子 ├┤ ┌女└男…雜系男子 男 ┌女…雜系女子 │ ├────┤ (神武天皇) 女│女┌女…男系女子=愛子内親王└男…雜系男子 ├┤├┤ 神倭伊波禮毘古命┌男└男└男…男系男子=悠仁親王 ┌女…男系女子 │ │ │ ├────┤ │ │ │┌男…雙系男子 女 └男…男系男子 ├────┤ ├┤ │ │ │└女…雙系女子 │ │ │ 多多良伊須氣餘理└女┌女┌女…女系女子 ├┤├┤ 男│男└男…女系男子 │ └男┌女…雜系女子 ├┤ 女└男…雜系男子 從ひて今次の皇室典範改正問題の論點は「女系天皇を容認するや否や」にはあらず「男系天皇を放棄するや否や」なり お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年10月16日 00時48分02秒
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