2009年01月04日

国まさに滅びんとす 一、古代ローマの温泉ブーム

テーマ:教育(24)
カテゴリ:教育

 旧暦十二月九日、上弦の月、平治の乱。師走、雪下りて麦出ずる。

国まさに滅びんとす

一、衰亡の「不吉な前兆」

 二十世紀初頭、大英帝国で「我々は衰退し始めたのか」と問う論争が持ち上がった。当時のイギリスの大衆の異常な「イベント好き」や「旅行ブーム」の風潮が、ローマ帝国の末期とそっくりだったからである。

《遊覧に熱心な群衆は毎日、朝早くからよい場所を取るために押しかけ、中には、まだ夜が明けないうちから入り口にならび、眠らずに場所をとるため待っている者も多い》




 というギボンの「ローマ帝国衰亡史」の一節が引用され、今日のイギリスはローマ末期にそっくりだ、と評された。
 当時のイギリスでは豊かになった中産階級の人々が競って「海外旅行」に出かけ始めていた。前代未聞の「健康ブーム」が起こり、新聞や雑誌は健康食品や薬品の広告で一杯だった。さらに高い教育を受けた青年たちがイラスト入りの雑誌(つまりマンガ)しか読まなくなったり、「聞いたこともない」新興宗教が若者や女性の間で蔓延した。きわめつけはローマ時代に一大流行した「温泉ブーム」が、ついにイギリスにも到来した事だった。ローマ帝国の末期症状に余りにも酷似した社会現象が、大英帝国の衰亡を示す「不吉な前兆」と感じられたのである。
 上記は京都大学・中西輝政教授の著書「国まさに滅びんとす」の一節であるが、現代日本とのあまりの類似に驚かされ



る。今後の日本の行く末を考えるにも、こういう歴史の前例を知っておくことは重要だろう。

二、大英帝国の繁栄と衰退

 大英帝国の繁栄の頂点は、千八百四十~五十年代と考えられる。千八百四十~四十二年のアヘン戦争において、英国は大艦隊を中国に派遣して、その沿岸を攻撃し、香港を植民地化した。同時にオスマン・トルコの支配圏をフランス、ロシアと争い、両国を軍事力で威嚇していた。さらに植民地カナダではアメリカとの国境争いで、もし米陸軍がカナダに侵攻したら、海からボストンとニューヨークを一瞬にして灰にすると脅して屈服させた。この時代の大英帝国は、ロシア、フランス、アメリカ、中国を同時に敵に回して、一国で押し切ってしまうという軍事力を持っていたのである。




 軍事力だけではない。千八百五十一年のロンドン万国博覧会では「水晶宮」という総ガラス張りの巨大なパビリオンを建て、その技術と文明で世界中を驚嘆させた。
 しかし千八百八十~九十年代には、基幹産業であった繊維や鉄鋼分野でアメリカに急速に追い上げられた。アメリカ製品は品質はいま一つだったが、安い価格でヨーロッパへの輸出を急速に伸ばしていった。また先端産業である電気や化学工業においても、ドイツやアメリカとの競争で、英国のリーダーシップが取れるかどうか、疑わしくなってきた。
 このような雰囲気の中で、上述のようなローマ帝国末期とそっくりな現象が現れたのである。「改革」の大論争が巻き起こった。



三、改革を挫折させた「市民派」

 英国の経済力をどう再生するかという問題で、製造業の競争力を重視する「守旧派」と、それよりも世界の金融・情報を握って新しい地位を築こうという「改革派」が対立し、政界や財界を二分する論争が巻き起こった。
 しかし、その過程で「国際競争力を維持するよりも、結局、市民、大衆の生活がよくなるかどうかが一番の問題だ」という「市民派」の主張が大衆にアピールして、急激に勢力を伸ばした。すでにマルクス主義や無政府主義という過激な左翼思想は影を潜めていたが、その後釜として「市民派」が大衆層の支持を得たのである。
 その中心となったのが「福祉社会」のビジョンを掲げ、貧しい人民のために粉骨砕身、奮闘努力する「人民の友」ロイド・




ジョージであった。しかし、彼は首相になってから、多くの愛人を官邸に住まわせたり、マルコーニ事件という有名な疑獄事件で追及されたりして、政治のモラルを一挙に低下させた張本人であった。その在任中に、英国の政界は二枚舌、三枚舌の風潮が当たり前になっていく。
 ロイド・ジョージは、それまでの改革論議を「上流階級の紳士達が、我々を無視してイギリスという国を独占して運営していくためのまやかしだ」と誹謗した。千九百六年の総選挙では圧倒的多数の庶民有権者たちに「保守党に入れると高いパンを買わされてしまう」と訴え、改革論を唱えていた保守党を大敗させた。
 国家をどう改革して衰退を防ぐか、という議論は、これら「市民派」によって「国か、市民か」という議論にすり替えられてしまい、結局、英国は衰亡への道を歩み続けたのである。



四、「平和主義」が招いた第一次大戦

 もう一つ「市民派」が利用した世論操作術は、国際関係への意識が低く、平和を求める一般大衆の心情におもねる形で、当時の緊迫しつつあった対外危機から目を背けさせた事である。
 「政治家たちはいろいろ言っているけれども、実はドイツの脅威など存在せず、これ以上の軍備は必要ないのだ」という「市民派」の論理は、ドイツの脅威に対抗して英仏の軍事協力を進めようとする軍部や外務省の手を厳しく縛ることとなった。
 「市民派」は「戦争は起こるまい、起こらないはずだ」という見方を浸透させて、軍事予算増大に反対し、当時の大陸諸国がみな採用していた徴兵制を退けさせた。
 こうした英国内世論での平和主義の台頭を見て、ドイツ参謀




本部は「ドイツ軍が大挙してフランスに攻め込んでも、イギリスは国内世論の反対で介入できないだろう」という見通しを抱き、「一気にフランスを打倒して、大陸の覇権を握ろう」と戦争に乗り出していった。
 こうして英国は「市民派」によって、すべての改革プログラムは「ドブへ捨てられた」まま、その「平和主義」が招いた第一次大戦の大波に飲み込まれていったのである。

五、「悲しみの大戦」で失われたエリート層

 第一次大戦での英軍の死者は九十万人に上ると推定されている。英国の歴史始まって以来の未曾有の大量戦死であり、第二次大戦の約四十万人に比べても二倍以上であった。フランス北部ソンムの戦いでは、九十マイルにわたる前線に全長一万キロにわたる塹壕が掘られ、英国軍の数百万の若者が泥水と死臭の




中で、敵襲に怯えながら、何年も暮らさねばならなかった。
 オックスフォードやケンブリッジから出征していった学徒兵たちは訓練もなしに下級将校とされ、貴族的なエリート意識から常に白兵戦の先頭に立って戦った。三人に一人は帰らぬ人となったという。その戦死率は大東亜戦争で学徒出陣した帝大生と比べても格段に高い。
 一途な愛国心と熱烈な自己犠牲の精神に燃えた多くの有能な青年たちが死んでいった。帰ってきた青年達もその心に深い傷を負い、帝国を支えようと言う意志を失ってしまった。大英帝国はここにその繁栄を築いてきたエリート階級を失ったのである。
 「悲しみの大戦」の後、千九百二十四年にロンドン郊外で大英帝国博覧会が開かれた。ともすれば失われがちになる帝国体制への国民の関心を高めるため、政府・財界の肝いりで開かれ



た英国史上最大の大会だった。しかし、それは七十年前に「水晶宮」で英国の技術と文明を謳歌したロンドン万博とは似ても似つかぬものだった。
 英国の人口の過半数、実に二千七百万人に及んだ入場者は、「帝国の理念」や「進歩する未来社会」を描いた展示には見向きもせず、ジェット・コースターやアミューズメント・センターのゲームに夢中になった。この時期にロンドンを訪れた若きアメリカ人評論家・ウォルター・リップマンは、次のような言葉を残している。

《人類の歴史上どのような帝国も、その中心に、確信に支えられて統治を担うエリートをなくして長く生きのびた例はない》(続く)

平成十四年十二月一日 国際派日本人養成講座 二百六十九号



平成廿一年 一月四日
フェネル「イギリス民謡組曲」を聽き乍ら


女性天皇と女系天皇の違ひ
 愛子内親王殿下は男系女子なので、民間男子との間に設けられた御子様は「女系」でも「男系」でもない。

           男┌女…雜系女子
           ├┤
          ┌女└男…雜系男子 男    ┌女…雜系女子
                   ├────┤
(神武天皇)   女┌女…男系女子=愛子内親王└男…雜系男子
         ├┤├┤
神倭伊波禮毘古命┌男└男└男…男系男子=悠仁親王 ┌女…男系女子
   │    │  │        ├────┤
   │    │  │┌男…雙系男子 女    └男…男系男子
   ├────┤  ├┤
   │    │  │└女…雙系女子
   │    │  │
多多良伊須氣餘理└女┌女┌女…女系女子
         ├┤├┤
         男└男…女系男子
          
          └男┌女…雜系女子
           ├┤
           女└男…雜系男子

 從つて今次の皇室典範改正問題の論點は「女系天皇を容認するか否か」ではなく「男系天皇を放棄するか否か」である。


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最終更新日  2009年01月05日 08時56分50秒
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