7.巨星の失墜<200年5月 宛の戦い> ■董卓軍 ![]() 指揮:董白 兵力:三万 ■袁術軍 ![]() 指揮:孫策 兵力:二万 上庸の董白が騎馬隊一万を率いて宛へと進出し、兵舎を襲撃し始めました。 宛からは二万ほどの軍勢が迎撃に現れ、逃走する董白を追って上庸へと攻め上がっていきます。 その隙を突く形で、長安から高順の攻城部隊一万、馬超の騎馬隊一万が急行し、宛の攻略を果たすのでした。 事態に気付いた袁術軍の上庸攻撃部隊は慌てて新野へと撤退を始めますが、そこへ董白、張遼らの騎馬隊が背後から襲いかかり、散々に蹴散らすことに成功します。 宛の占領を果たした頃から、病を発して江陵に滞在していた董卓は軍勢の再編に着手します。 時を同じくして、袁紹軍二万が洛陽から袁術軍を追い払って占拠し、南蛮に逃れた劉璋は四万の将兵を集めて益州奪還を画策していました。 董卓は後方の兵站基地である西涼の監督を娘婿の牛輔に任せるとともに、劉璋軍と対する成都には紀霊やカク峻を、袁紹軍と対する長安にはカク、張遼らを派遣し、防備を固めさせます。 さらに戦火から遠く離れていた荊州南部に兵を送り込んで制圧し、江南で勢力を拡大していた蒋幹に使者を立てて同盟を結ばせました。 そして、董卓は要衝の地である宛の太守に董白を指名し、副相国として朝廷に認めさせ、軍功著しい馬超と夫婦にさせます。 これは西涼の民に強い影響力を持つ馬騰の子、馬超を一族に取り込むことで、董卓の支配を安定させようとした政略結婚でした。 董白はこの突然の縁談に憤りを示しますが、何時になく厳しい態度を崩さない祖父に抗えず、渋々、馬超を夫に迎え入れるのでした。 <202年5月 新野の戦い> ■董卓軍 ![]() 指揮:董白 兵力:三万 ■袁術軍 ![]() 指揮:孫策 兵力:三万 宛の防備を固めた董白は騎馬隊三万を動員して袁術軍最後の拠点である新野へと南下を始めます。 対する袁術も復讐に燃える孫策を総大将に三万の歩兵を迎撃に向かわせます。 両軍は新野の森林部にて衝突し、激しい押し合いを繰り広げます。 森林部では騎馬隊がその衝撃力を発揮できず、ともすれば董卓軍が押され気味になりますが、乱戦の中、呂布が孫策を一騎討ちで討ち取る働きを見せます。 同じ頃、襄陽を出発した高順の攻城部隊一万が長江沿いの港を陥落させ、反対側から新野への攻撃を開始。 高順は主力が出払った新野を占拠すると、袁術の首を刎ねて袁術軍との戦いに終止符を打ちました。 董白は甘寧、周瑜、司馬懿、徐晃といった袁術軍配下の中でも優れた人材を吸収して宛へと帰還します。 さらに、袁紹が病没して長男の袁譚が後継となるなど、名門袁家はその勢力を大きく衰えさせることとなります。 203年、公に登った董卓は、李儒の献策を受けて呂布、高順、ホウ徳、黄忠、張遼らを五虎将軍に任命するなど、栄華の絶頂を極めんとしていました。 同年4月。劉表の根拠地である江夏を攻囲中の董白の下へ火急の知らせが舞い込みます。 それは江陵に滞在している董卓の急逝と、董白をその後継とするというものでした。 突然の悲報に打ちのめされながらも、董白は江夏を攻め落として劉表の一族を誅殺。 早馬を走らせて長安に到着した董白は、祖父の遺言に従って後継となったことを朝廷に上奏するとともに全軍に告知。 引退を申し出た李儒の推挙により、新たにカクを軍師とし、軍勢の再編に着手します。 まだ若い董白が後継となったことで、数名が陣営を去っていきましたが、呂布を筆頭とする主だった武将は残存していました。 董白はその軍事力を後ろ盾とし、朝廷を掌握することで混乱を最小限に食い止めることに成功し、同年9月には朝廷から正式に王と認められます。 平伏する董白の心中では、しかしいずれは皇帝に登り、祖父に代わって董王朝を作り上げんと野心が燃え盛っていました。 ジャンル別一覧
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