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今日も他人事

210年 ~天下動乱~



『小義を捨て、大義を取る』

その言葉と共に、劉備は自ら六万の軍勢を率いて益州に侵攻。

天険に守られ、戦乱から遠く離れた平穏の地へと戦火を投じます。

先鋒を務めるのは重騎兵部隊九千騎を指揮する張飛、同じく軽騎兵部隊九千騎を指揮する董白。

中軍は総大将である劉備と軍師の徐庶、それに李厳、孫尚香といった新参の武将達が指揮する歩兵二万二千。

その後方に、諸葛亮を総隊長とする重装備の攻城部隊一万五千と輸送部隊五千が続きます。

この時、江陵では「白眉」と名高い俊才の馬良が、襄陽では劉備を長らく補佐してきた糜竺が、それぞれ後方支援の体制を整えていました。

また、曹操軍の攻勢に対して、上庸に趙雲、新野に関羽とホウ統を配置。

磐石の体制を整えた劉備軍は後方を気にする事なく進撃し、年の暮れには長江の出入り口に当たる永安を占拠します。

劉備軍の捕虜となった文官の張松は、主である劉ショウから不遇の扱いを受けていることに常々、不満を抱いていました。

張松は劉備軍の登用に応じると、劉ショウ軍の軍事情報や益州の地理を劉備達に伝えます。


『我が主・劉ショウは凡庸な人物で、この乱世で一国を統べる器量はありません。曹操や西涼の軍閥の脅威から益州の民を守る為にも、どうか劉備殿に益州を奪って頂きたい。その為なら、私は益州の民や武将達が劉備様に従うように、粉骨砕身する所存です』

こうして張松を迎えた劉備軍が永安に拠って進軍の準備を整えている頃、各地では激しい戦いが繰り返されていました。



当時の最大勢力は五十万の大軍を率い、許都に天子を擁する曹操でした。



しかし、揚州の孫権軍は二十五万の兵力を持ち、寿春を巡って曹操と激しくぶつかり合っていました。



また、西涼では馬騰や韓遂ら関中十部軍が十万の騎馬軍団を率いて暴れ回っていました。



特に馬騰の長男である馬超の勢いは凄まじく、曹操軍を破って長安を占拠すると、そのまま漢中の五斗米道軍をも殲滅。

五斗米道の教祖・張魯は馬超に下りますが、弟の張衛はこれに反発し、劉ショウ軍に身を投じます。

この頃、劉表の長子・劉キは荊州南郡の統治中に流行り病で病死し、補佐を勤めていたカク峻がその後任に就任。

建安十五年。天下に平穏が訪れる事はなく、また一年を迎えようとしていました……。


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