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今日も他人事

212年 益州平定




昨年末、成都より二万の軍勢を率いて北上し、梓潼を攻略した劉備。

そこへ、諸葛亮が建寧を占拠したものの、予想以上の被害を被り侵攻を中断しているという報告が届きました。

劉備は軍師の徐庶に、梓潼の開発と軍備の再編を指示すると共に、自ら建寧に赴き、遠征軍が三分の一の兵力を失い、装備にも事欠く状態であることを知ります。

諸葛亮は、責任は自分にあると言い、何らかの処罰を求めますが、劉備は『君は建寧攻略という大任を果たした。どうして、その功を否定し、罪を問うことができるだろうか』と否定します。

そして、劉ショウの亡命先である雲南へと僅かな供を連れて訪問すると、劉備は、憔悴しきっている劉ショウに対して、降伏の勧告を行います。

劉備の大胆不敵な行動に、居並ぶ劉ショウの幕僚達は色めき立って反発。

しかし、劉ショウは憔悴しきった様子で劉備に答えます。

『父から譲り受けた成都はなく、また建寧も落ちた。既に益州は誰の目から見ても劉備殿の物であある。これ以上、益州の民を戦火によって苦しめることを私は望まない』

こうして、二年に渡る歳月の末に、益州攻略を完了した劉備軍は直ちに二十五万にのぼる軍勢を再編。

軍団は、梓潼を拠点とする劉備率いる本隊、新野を拠点とする関羽率いる荊州北軍、上庸を拠点とする趙雲率いる遊軍、それに江陵を拠点とするカク峻率いる荊州南軍と、成都を拠点とする黄権率いる益州軍の五軍に大きく分けられます。

この頃、曹操が馬騰軍を追い払って長安を奪還することに成功しますが、その隙を突いて孫権が寿春を再び占拠。

こうした各勢力の動きを知った諸葛亮は、ホウ統や徐庶に加えて、法正や張松といった新たな軍師達を加えた参謀本部を設立し、中原に攻め入り、漢王朝を復興する為の方策を練り上げます。

秋頃、朝廷から大将軍に任命された劉備は、関羽に汝南攻略を指示。



関平に新野の守備と後方支援を任せた関羽は、自ら四万の精兵を率いて汝南を攻撃し、これを占拠します。

一方、劉備は六万の大軍を率いて、梓潼を出発。

漢中へと北上すると同時に、上庸の趙雲に、二万の軍勢を率いて漢水沿いに漢中へと向かわせます。

当時の漢中は馬騰率いる関中十部軍が占領し、主力部隊六万を駐屯させていました。

この時、馬騰自ら四万の兵を率いて趙雲を迎撃しますが、逆に趙雲は騎馬一万騎を率いて獅子奮迅の働きをし、馬騰軍を散々に打ち破ります。

逆方向から漢中へと向かっていた劉備軍本隊もまた、剣閣を守るホウトク、馬岱を次々と撃破。

馬騰軍は漢中に立て篭もりますが、諸葛亮の率いる攻城部隊の一斉攻撃によって漢中は陥落し、大将である馬騰もまた捕われの身となってしまいました。

しかし、西涼軍閥を味方に引き入れたいと考えていた劉備は、その縄を解き、馬騰の身柄を解放するのでした。


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