2024/06/13(木)21:20
ぷるぷるぼくわるいデウス・エクス・マキナじゃないよ、という話
A「えーマジー デウス・エクス・マキナ!? ダサーイ」
B「デウス・エクス・マキナが許されるのは古代ギリシャまでだよねー」
A・B「キャハハハハハ」
なお、古代ギリシャでも批判されていた模様。まあ、観客の感性なんて、そう変わらんわな。。。
デウス・エクス・マキナ(deus ex machina、羅: deus ex māchinā デウス・エクス・マーキナー[注 1])とは、演出技法の一つである。古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導き、物語を収束させるという手法を指した。(wiki より抜粋)
何故、デウス・エクス・マキナが忌避されるかといえば、答えは単純。ご都合主義が目立ち、陳腐に感じられてしまい、観客に「は?ふざけんな。金返せ!(==#」と石を投げつけられてしまう(現代で言えば、SNSで燃やされる)からである。
そんな訳で、駄作の常套句みたいなデウス・エクス・マキナだけど、現実にはデウス・エクス・マキナが、つまり、超常の奇跡によって、幕を下ろしている作品は少なくない。
例えば、私の好きな洋画だと『インディ=ジョーンズ』第一作である『レイダース』。
終盤、アークから解き放たれた神の力によってナチスは全滅し、インディ達は絶体絶命の窮地を潜り抜ける。第三作である『最後の聖戦』も聖杯の力によって瀕死の父ヘンリーは蘇生し、聖杯を十字架圏から持ち出そうとした結果、やっぱりナチスは全滅している。
アニメも同じ。『ドラゴンボール』で悟空が超サイヤ人に覚醒してフリーザに逆転勝利したり、キレた少年悟飯がセルに逆転勝利した。『機動戦士ガンダム』ではニュータイプの思念がホワイトベースのクルー達を無事にア・バオア・クーから脱出させたし、『逆襲のシャア』ではサイコフレームの共振によって発せられた謎の発光現象によって、アクシズの地球落下は阻止された。『まどかマギカ』ではアルティメットまどかの力によって全ての魔女は消滅、魔法少女は救済され、『ラピュタ』ではバルス(滅びの呪文)によってムスカに逆転した。
これらの物語に共通するのは、どれも奇跡、つまりデウス・エクス・マキナによって幕が下ろされていること。同時に、それらにきちんと伏線が示されていること。
『レイダース』のアークには神の力が宿っていることは途中から示唆されていた。『最後の聖戦』の聖杯も同様。
『ドラゴンボール』の超サイヤ人の存在や悟飯の潜在能力の高さは何度も劇中で示されてきていたし、『機動戦士ガンダム』ではアムロとララァによってニュータイプによる意思疎通が可能であることが明確に示されていた。公開当時、批判もあったと聞く『逆襲のシャア』のアクシズショックに関しても、劇中、何度もサイコフレームによって、おかしな挙動(αアジールのビームが弾かれる等)が示されている。
『まどかマギカ』のアルティメットまどかも、その前に、まどかが特別視されていること、そして、ほむらの時間遡行によって、まどかに因果律が収束し、彼女が「最大最悪の魔女(最大最強の魔法少女)」になることが示唆されている。
そして、『ラピュタ』では中盤で「勇気の出るおまじない」によってラピュタ製のロボットが起動することが示され、もう一つ「滅びの呪文」があることも中盤で示唆されていた。
つまるところ、これらの作品群に共通しているのは、終盤、物語をひっくり返す奇跡(デウス・エクス・マキナ)のために、必ず、どこかで伏線が張られていた、ということである。時に、さりげなく。時に、劇的に。
要は、デウス・エクス・マキナが悪いのではない。伏線も張られてなければ脈絡もない唐突なデウス・エクス・マキナによって物語が逆転され、そのまま、幕が下りてしまうのが不味いのだ。ちゃんと伏線が張られてる限り、デウス・エクス・マキナは今でもなお有効手段、足りえる。
ちなみに、お話の導入や中盤で不可思議な現象(奇跡)が起きること自体は、何の問題もない。寧ろ、現実で起こりえないことこそ、物語の導入として極めて有効な引力を持っていると思う。『デスノート』然り。『反逆のルルーシュ』然り。『君の名は。』も。というか、なろうお得意の転生物って全部、これよね。皆、ファンタジーが好きなのだ。昔から。