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カテゴリ:死亡遊戯
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こんばんは、永世さんの ……いやまぁ、原作の時点でも割と大きかったんですけどね。改めて、ねこめたる先生がそういう風に描き直してる感はある。構図とか。需要をよく分かってらっしゃる(笑
永世さん、自分では知性派ぶってるし、実際、頭は回るんだろうけど、ゆえに、というか、だからこそ、頭が回り過ぎっていうか「私は騙す側であって、騙される側ではない」ってニュートラルに「自分>他人」って考えに陥りがちなタイプ。 だから、原作だと蜜羽に××××されかけてたし、海雲の小細工にも出し抜かれ、しまいには幽鬼にも……という。日澄ちゃんは……ほら、根がどじっこだから、あの子。 その癖、「は、××が私よりも上……?」と内心でムカムカしたり、割と感情的な可愛いお姉さんという印象自体は原作読んでた頃と大して変わんないかなって。アニメは、それを××への嫉妬や師匠への愛憎にまで明確に昇華してたけど。まぁ、分からんでもないけどね……うん……
あ、念のため、原作3巻も読み直しました。 前は計3日かけて読み終えた作品だったけど既に一度、既読済みってこともあり、1時間半、つまり映画と同じぐらいの時間で読了。
やっぱ、アニメとは全然、違うね。原作の幽鬼はクラウディビーチでも普通にゲームプレイヤーとして嬉々としてるし、きちんと応対してるんだよね。萌黄のことなんてサラッと話題になった時に「そんなの、いたなー」で済ませてるし。なにが"羨ましかった"だ、バカヤロー(苦笑)
改めて思ったけど……アニメ『死亡遊戯』の改変コンセプトは「デスゲームプレイヤー(職業的人殺し)である前に一人の美少女」なんだろうなって。それも一人、二人じゃなくて、ほぼ全員。 だから、原作では精神的にも実力的にも隙の無かった――空虚さや嫉妬心はあったが――蜜羽や永世がああいう改変をされたんでしょう。日澄ちゃんは原作の時点で大概、どじっ子だったからね。ドジの意味合いが少し変わっただけで(苦笑 今回、映画で真熊さんの出番が削られたのも割と納得できる。単に弱くする余地(隙間)、味の出る出番(演出)をひり出せなかったから。結果、出番そのものが削られるという罠。流石に、存在までは削られなかったけど。
一応、原作だと、ちゃんと地味ながらも良いやり取りもあるんだけどね……これから刊行される予定の漫画版では残ってることに期待しとこう。
実際の所、そういう改変――原作では隠し味程度に描かれていた登場人物の情緒面を拡大解釈し、その為に登場人物の言動や物語すらも再構成する描き方――を「改善」「美しい」と感じる観客もいれば、「改悪」「弱弱しい」と感じる人もいるでしょう。 そこはもう作品の良し悪しというより、観る人の好みの差――登場人物達に何を見て、何を求めるか――に依るので私には何とも言えない。私自身、二次創作は読むのも書くのも好きだし、弱弱しい美少女好きとしても、このアニメ版の手法を認めざるを得ない所はあるしね。商業的な有効性という意味でも。 しかし、原作の「美少女である前に一人のデスゲームプレイヤー(職業的人殺し)」としての描き方にこそ最大の魅力を感じていた身としては、それらを捻じ曲げるような改変は、やはり受け入れ難いものがある。まさしく、このアニメ版で描かれたナイーブさ……一般的に"美少女"に期待されがちな繊細さや女々しさ……をかなぐり捨てて来たからこそ、原作小説は唯一無二の存在感を発揮できていたのに「強がったり悪ぶったりしてるけど、実際は繊細な美少女なんです」という改変は本末転倒な気も否めず。 勿論、据わりが良いとは思いますけどね……なんせ、登場人物達が軒並み、世間一般的な"美少女"像に近づいてる訳ですから。その分だけ、デスゲームプレイヤー(職業的人殺し)として生きることを自発的に受け入れているという本来、一番大事な根幹の設定が限りなく薄れていくだけで。
……いや、美少女なら、ええんか? 美少女が苦悩して、メソメソ泣き言もらすのが、そんなにええんか? 凄いよね、美少女って。生きる為に必須でもなく、誰かに強要された訳でもなく、"赤の他人(ここ重要!)"の命を奪うことに躊躇も後悔もない命知らずのキラージャンキーでも"美少女"だっただけで、ここまで同情的・情緒的に美化して描けちゃうんだもん。 もし、この子たちが美少女(あるいは美少年)じゃなかったら誰も納得しないでしょうよ、アニメ版の改変。「は、何、言ってんの?」って冷笑されるのが目に見えてる。そうならず、受け入れられるのは結局の所、対象が文句なしの美少女だから。 いや、そもそも、美少女じゃなかったら、こんな風に改変しようとさえされんでしょう。改変するのは、やる側に「そういう風に改変した方が効果的」という目算が立つからでして。
結局ね、"美少女"なんですよ。原作の登場人物達が軒並み"美少女"であることが、このアニメ版の改変における最大の動機というか要因なんだと思います。 "美少女"だから、制作側がこういう改変をしようと考えちゃうし、原作を知らない、あるいは原作を知っていても変に拘りのない観客側も受け入れる。つまり、アニメはアニメで、きちんと作り手と読み手のキャッチボールが成立できてるんです。そうそう、"美少女"って、こういうものだよねって。 寧ろ、劇中の美少女達が軒並み"美少女"然としていない原作小説の方がキャッチボールできる層は少ないまであるかもしんない……まぁ、原作小説も主人公が美少女じゃなかったら読んでないけどな、私(ぉぃ そう、本来、原作にとってはあくまで華(客寄せとしての武器、撒き餌にして免罪符)に過ぎなかった"美少女"であるという点を、アニメ版は逆手に取ったんです。"美少女なのに"ではなく、"美少女なので"より一般的に受け入れやすい、期待されやすい形に改変する根拠として。人は"美少女"に弱いですから。弱々しく、可哀想で、健気な……ええ、私も好きですよ、"美少女"。 でも、「弱弱しくて可哀想な"美少女"だと思った? ちげーよ、外面に騙されてんじゃねえ!」で駆け抜けて来た原作を「すみません、やっぱり、本当の本当は弱弱しくて可哀想な"美少女"なんです、私。ごめんなさい、ごめんなさい……」に変えちゃったのは……なんていうか凄いなって。いや、物語って、こんな風に作り替えちゃっていいんだネ……キャラクターとストーリーは不可分。そう思ってた時代が私にもありました、ハイ(==
実際、凄いと思いますよ、アニメ版。 まず1点目は原作改変、すなわち 正直、本作を初日に映画館で視聴した時、度肝を抜かれましたよ、ええ……思いつくか?"あの"反町友樹に柏木耕一や遠野志貴の役回りをやらせようなんて、普通。 しかも、その為に「アニメ幽鬼はキャンドルウッズから、ずっと伽羅を引き摺っててー……自分も同類かもしれないって思いこんでてー……」なんて原作では一ミリも描写されてない設定にして、そのアイデアに併せて物語まで作り変えるとか狂気の沙汰過ぎて、「やべーよ、やべーよ……」ってなった。本当、劇場から出る時も顔、引きつってたもん。いや、マスクしててよかったぜ……へへ、うへへ(白目 おまけに、そのメンタルケアを藍里にさせるというオマケ付き。多分、藍里の活躍が後半少ないから、ヒーラーとしてのシナリオロールを付与したんでしょうね。 あれだね、原作幽鬼と原作藍里に一緒に映画を視聴させて「「……」」って気まずい空気になって欲しい。「……えーっと。その、藍里?」「……はい」「歌、上手いね」「そう、みたいです」「で、さ……なんで、歌い出したの?」「さぁ……歌った方が<観客>受けが良いと判断した、とか?」「ミュージカルかよ……」
他にも蜜羽なんかね。あの改変は正直、舌を巻きました。
映画での顛末が強引とか唐突ではあるんだけど、原作で彼女の持つ"空虚さ"とそれを埋めてくれることを他者に期待する部分や特典小説で「あー、苦しみながら生きるのは辛いですよね。
2点目は、物語を"善い話"に仕立て上げてる能力。美化スキルとでもいうんだろうか。 確かに、原作にもちょこちょこあるんですよ。幽鬼の葛藤とか、永世の苛立ちとか、etc。 でも、それがどの程度のものか、はっきりと明言されてはいない。 それは、ある意味で"隙"なんです。物語における空白、読み手の想像が膨らむ余地。そして、その"隙"を最大限に活用して、別物に作り替えてみせたのが本作。 ……いや、私も好きだよ、二次創作。でも、初めて、その残酷さというかグロテスクさを理解できたかもしれない。バランパパの言うとおりだ、他人がしているのを見てはじめて分かる…… 繰り返しになりますけど、原作って"一人の美少女である前にデスゲームのプレイヤー(人殺し)"って言う風にきちんと描いてる作品なんですよね。「普通の人間なら持つよね、恐怖感とか罪悪感」っていう当然の疑問や発送に対して、「じゃあ、仮にそれを持たない(あるいは、薄い)人間がいたら? そういう人間が主役で、他の主要キャラもそうだったら?」っていう想定で描いてる節がある。だからこそ、味が出てるし、成り立ってるし、独自性を発揮できているとも言える訳で。 逆に、アニメはそういう風に作り上げられた作品を"デスゲームのプレイヤー(人殺し)である前に一人の人間(美少女)"として再構成してる。
それ自体は試みとして面白いし、理解もできるのですけど、それを同じ世界観、ストーリー、キャラクターで実現しようとした結果、一部で無理な改変を余儀なくされてる感は否めない。「原作における幽鬼の発言や内面描写、あれは全部、良心の呵責に耐えかねた言い訳で……」という解釈自体は唸らされるけど、台詞や行動を原作から弄ってしまったら、それはもう"改変の為の言い訳"にしか聞こえない。 そして、その改変の結果、「金銭や生き甲斐の為、自分達の意思で殺し合いに参加し続けている」という登場人物達の身勝手さや加害性は曖昧模糊なものとなり、まるで全員が全員、"哀れで可哀想な同情すべき存在"のような錯覚さえ覚えるような作りになっている。何も考えずに眺めていれば、皆、可哀想な被害者のように見えてくるのは正直、巧いと思ったよ。催眠術みたいで。実際は「美少女のガワを被った人殺しの集まり」でしかないんだけどねぇ、本作。
それをあそこまで「可哀想なヒロイン達の美しくも儚い殺し合い」みたいにまで昇華できたのは凄いよ、本当。 ……まぁ、それでも、アニメ幽鬼ちゃんがgdgd苦悩してる姿には、ちょっと思うところありますけどね。お前、本当(以下略
でも、悲しいかな、そういう上野監督が描くアニメ版メソメソ幽鬼ちゃんの物語の方が好みの人はいる筈なんだよね。人でなしな原作幽鬼の物語よりも。実際、SNSを見てると映画版には好意的で、二期も楽しみって意見もチラホラ見えるし。アニメ版の描き方そのものが好みなのか、上野監督の独特のアレンジが見たいのかは不明ですけど。 そして、おそらくは、これからも分裂は進んでいく。丁度、今、原作準拠の新作アニメが放映中の『攻殻機動隊』が有名な押井版とで評価が割れているように。結局、皆、自分が見たいもの、自分にとって都合がよいものが一番なんだ……私自身がそうであるように。
しかし、まぁ、結局の所、これらも全て制作側の壮大な仕掛け、なのかもしれない。 本作のお話を原作通りの"人でなし"として見たい層。 原作とは違う哀れで可哀想な"美少女"として見たい層。 異なる顧客要望に応じた商品展開で集金しつつ、炎上によるSNS上での話題性の維持をも狙った壮大かつ迂遠な商業的なマルチメディア戦略。 そして、おそらく、その根底にあるのは「まぁ大筋、原作に沿ってれば原作ファンは最後まで見るやろうし、原作と違ってたら話題にするやろうし、特典小説と原作絵のブックレット付ければBDも売れるやろ」という
……そう、間違いなく、作ってる側は分かってるのだ。原作の内容も、改変の効果も。全部、分かってて、やってる。 でなきゃ、1話の試写会で監督が「原作ファンの反応が気になる」とか言ったりせんかったやろ。畜生、確信犯め……おまんらとはもう遊んじゃらん!!
余談ですが、今回の劇場版まで見届けて、「ドラクエ5 ユアストーリー」を思い出しました。原作および原作ファンに対する本心が透けて見える、という意味でね。わざわざ、"愛"なんて言葉まで使ってさ……満足だろうなガトー、でもそれは(以下略 ※補足:各媒体毎の"美少女"性の違い これまで『死亡遊戯』が各媒体で描き方や味わいが異なるのは散々、語ってきた訳ですけども。 特に顕著なのが、上述した"美少女"性……美少女なるものに一般的に期待されがちなイメージ、俗に言う女らしさ……に対する差でして。 まず、原作小説。これは、あんまりないです。勿論、ゼロではないし、端々のリアクションとか会話ではちょこちょこ出るんですけど、内面の記載に踏み込んだ瞬間、そういうのは全部、吹き飛びます。やべーぜ、こいつら……という印象しか残んないw
……これは、ちょくちょく思うことですけど、ねこめたる先生の挿絵とかキャラデザが無かったら、本文だけ読んでても、これが「美少女達のお話」とはあんまり思わないと思う、私。女を連想させるエピソードが基本的に無いからね、皆。後、内面が殺伐としてんだよな、どいつもこいつも……紫苑とかボクっ子だから、地の文だけだと男か女かすら混乱しかねない。
でも、それは鵜飼先生が"美少女"を筆で表現できてない、というよりも、どちらかと言うと、そういう所に拘らずにキャラとストーリーを構成しているだけだと思うんですよね。だって、読んでて面白いから。 そして、そこに、ねこめたる先生の挿絵とかキャラデザが添えられた結果、手に取りたくなるし、読んでる方の脳がバグり始めるだけで。要するに、絵と文章の組み合わせによる相乗効果だと思うんですよね、これ。
……この作品がMF文庫の新人賞で審査された時、当然、挿絵もキャラデザも無くて、あの鵜飼先生の文章だけが原石としてある訳で、そこから出版するまでに、今の形にまで仕上げていったのは正直、凄いなぁと思う。大変だな、商売って。それだけ「原作が面白い」または「商品としての価値(将来性)がある」と判断されたんだとは思うんだけど。あるいは、その両方か。
要するに、原作にそれほど"美少女"性は存在してなくて、寧ろ、ギャップとして活用しているという話。それは別にリアリティの放棄ではなく、フィクション(虚構)における一つの確固とした戦略だと思いますね。実際、それで原作はファンが付いてる訳ですから。あと、リアルとリアリティは別物ですし。 なお、漫画版はどうかというと、原作の枠内(ストーリーやキャラクター設定)で美少女であるという設定を活かそうとしてるな、という印象ですね。
原作に比べて結構、感情豊かだったりするんですけど、そもそも原作は"美少女"性が薄いだけで、感情や人間性を一切合切、放棄しているという訳ではないので、漫画版の誇張的な描き方にそこまで違和感や不満は無かったですね。アニメ版は、その枠すら軽々と超えちゃったから「えー……」となっちゃっただけで。 勿論、そのアニメ版の「原作の枠内に留まらず、"美少女"性に寄せる」という大胆なやり方も戦略としては有効ですし、やっぱ認めざるを得んよなぁ……という気持ちも無くは無いんですよ。幽鬼の言動も内面も、あそこまで変えちゃうのは気に入らないけどね、本当。
後、余談ですが、この原作、漫画、アニメの幽鬼を三姉妹に例えてるツイートが巧くて。
年齢が同じなので三姉妹というよりは三つ子かなー……とは思いますけど、無理に同一人物として統合的に受け入れるより、それぞれ似て非なる別人として見なす方が健康的かな、と思います。結局の所、作り手は全員、違う訳ですから。 例えば、『Fate』のセイバーやギルも、描くのが奈須さんとそれ以外(虚淵先生とか)でやっぱ違う訳でして。まぁ、こっちは声優さんが同じだから、ややこしいけど(苦笑) ※8月13日追記 Xで流れて来て思わず、フフって。 目頭敦さんの三幽鬼 差異を分かりやすくするために多少、漫画幽鬼が盛られてる感はありますけど、概ねイメージ通りかなって。よく特徴を表現できてると思う。 一応、フォローしとくと、原作幽鬼(当然、漫画幽鬼も)の中にアニメ幽鬼的な要素が全くない訳じゃないと思うんですよ。それこそ1%……ひょっとすると、1割ぐらいは。 でも、それは本当に色んな条件が絡まない限り、顔を出すことは無いと思うんですよね。少なくともアニメの範疇(原作1~3巻の内容)"程度"で出していい要素では無かったよなって。師匠――"赤の他人"ではない――である白士以外の死を引き摺るのは違和感だったし、それで気に病むのなら、もはや別人。例え、その方が"美少女"らしい、としても。その一部分に沿って、物語を再構成しちゃったら、そりゃもう別物ですよね。そもそも、幽鬼の「殺人に対する罪悪感」は後で、ちゃんと(以下略 ※8月18日追記 念のため、補足しとくと、私は原作の幽鬼や御城達は人でなしだから悪だ嫌いだ死ね殺せと言ってるんじゃないぜ。寧ろ、逆だ。 全員、人でなしの、もういつ殺されてもしょうがない連中……でも、だからこそ好きなのよ。勿論、それは彼女達がとびっきりの二次元美少女である点も大きいけれど。 極端な話、善悪がどうとか、人間性がどうとかこうとかはフィクション、つまり、物語の中ではどうでもいいのだ。物語の中で、キャラとして輝きを放っているか。その過去はどうだったのか、内面はどうで、これから、どんな物語を描いてくれるのか。見たいのはそれ、ただそれ。以上でも以下でもない。 自分自身の意思でデスゲームを続けてる幽鬼が本当は罪悪感でいっぱいっぱいのメンタルぐらぐらで……なんていう、お決まりの型にはまって欲しくなかったよ。なんか急に冷めたな、あそこで。すんって。いや、はらわたは煮え繰り返ってたけどね。アニメ幽鬼に、ではなく、この方向性に改変しようと決めたアニメの作り手側に。『まほあこ』でアズールにマジギレしてたマジアベーゼ、こんな気持ちだったのかもしれんね……解 釈 違 い に も 程 が あ る
……まぁ、なんだ。某ハルヒの言葉を借りるなら、こういうことです。「ただの美少女には興味ありません」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年08月19日 01時12分27秒
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