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風と散策

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2009.07.01
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カテゴリ:映画
剣岳



「剣岳 点の記」を観た。
正直映画の4分の3辺り迄は、期待した割りには肩すかしを喰った印象を持った。
事前の宣伝が、当時の測量官、荷役達が体験したルート、装備を
そのまま体現して、CGを一切無くして撮影したとあったから、
そんなに凄いなら是非観てみようじゃないかと
期待過剰の精だったかと思う。

人は何でも期待し過ぎるとアカンもんです。
監督は、制作日数2年、山篭り計200日、趣旨に賛同してくれる者のみを
キャストに選び、そのキャスト達も次第に美しい顔へと変じ、、、
とプロモートする。
それはそれでむべなるかな、製作者としては当然のプロモーション
なのだが、要は私の様な偏屈な観客も居るというのが、
いけないのでして・・・

私は映画を観る場合、非常に点を辛くして観る癖が有る。
滅多な事では感動しやしないゾ、と臨む訳です。
世の中「映画評論家」なる者が居て、有名な人も過去物故しましたが、
彼らに問うてみたかった事がある。
”下らない映画が一杯有りますよね、仕事とは云え、それらを
一々観る事の苦痛は無いのですか?” と。

以上辛口を先に述べました。
映画とは、事ほど左様にハードルが高い総合芸術なのであります。
製作者側の艱難、辛苦は成る程事前に言って置かなければ、
観客には分って貰えません。  過去、極地俳優として西田敏行が居り、
極地映画なる物が複数制作された時期がありました。
その極地映画より凄いのか、と比べて観られるからです。

この後は、最終的にはやはり涙の一しずくも流した場面を紹介します。

いよいよ誰もが(?)成し得なかった剣岳頂上への制覇を目指して
主人公達がキッと目指す方向を見つめやる場面です。
この前に、山の案内人(香川照之)が、先陣を切るのを測量官(浅野忠信)
に譲ろうとするシーンが有ります。
これを測量官は断ります。 ”あなたが居なければ僕達は此処には
辿り着けなかった” として。

そして幾ら実際に忠実であろうとした映画姿勢も、ここは辿れなかった
であろう頂上登頂は流石に再現されてなくて、次のシーン。
ライバルの「日本山岳隊」の中村トオルとの手旗信号のやり取り・・・
ここがこの映画最大の見せ場でしたね。 
誰もがこれに異論は無いと思います。 やや使い古された陳腐な
手法との見解も有ろうかと思いますが(手旗信号ってのが
グッと来るんですよね)。

そして次の場面、1000年前の、修験僧の錫杖がそこに有った、
つまり、1000年前に初登頂されていた、という事実・・・
俄然これで、測量官達のやった功績が、その頂上は
4等三角点の設置だった事も相まって、霞む事になる訳ですが・・・

いや、そうではないでしょ、1000年前の修験僧は地図を作りは
しなかったでしょ、明治40年それ迄日本地図で唯一残されていた
未完成の部分、剣岳、これを完成させた功績を何故当時の
「陸軍陸地測量部」のお歴々が認めなかったのか、
この事が、この映画を観る上で一番引っ掛かる疑問点なのでありますが、
まあー 事実なんでしょうから、この事は映画を作る上で
ひっくり返す事は出来なかったのでしょう。

(閑話休題。 原作者の新田次郎氏に聞いてみたい。
1000年前の修験僧の錫杖、、、風雨で良く飛ばされずにそこに
有りましたね、と。 これって実話なんですか、と)

ここで「地図を作る」とは、日本の中で、世界の中で自分の立ち位置を知る事、
自分が何者で有るのかを知る事なのだ
と、解説されます。
深く考えさせられる言葉です。

あと、映像の素晴らしい事は云うまでもないのですが、
日本海側に在る立山連峰から、太平洋側の富士山が見渡せるシーンは
特に印象に残っています。


富士が見える


私が一番感動したのは、実は最期のキャスト、スタッフ達の名前が
「配役」「測量官 浅野忠信」「山の案内人 香川照之」、、、
「スタッフ」「カメラ ○○」「照明 ○○」「音声 ○○」、、、と
普通書き記されるものですが、 ここではただ単に浅野忠信 香川照之 
中村トオル 役所広司、、、と続き、仁科貴との俳優名も有り、あ、やっぱりね、
あの名優川谷拓三のご子息だったかと(荷役の一人が川谷拓三に
そっくりで、彼が生きているのかと目を疑った)・・・

真ん中辺りで池辺晋一郎(作曲家)の知った名前も有り、
後は全然勿論知らない名前の羅列で、ひっくるめて冒頭「なかまたち」と
して、監督木村大作氏は掲げたのです。
彼は長い事カメラマンとして映画に携わっていたのですが、
69歳にして初めての監督作品がこれで、これで死んでもいい、と
命掛けで制作した、そしてそれに賛同、協力して貰った全ての人達を
「なかまたち」として謝意を表したかったというものです。

この最期の謂わばテロップが流れる場面、普通の映画なら先を急ぐ観客が
席を立つかも知れない場面に、私は一番感動したのであります。

人は、或る情熱の並々ならぬ人に魅せられて、
追いて行きたくなるものです。 
69歳にして、若者の様に瑞々しい情熱を滾らせた木村大作氏に、乾杯!






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最終更新日  2009.07.02 12:36:06
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