kazesan 2

2007/03/12(月)22:48

春の夢

こころの森(54)

  遥かな明日まで   春の夢よ   輝く風を浴びて育て     ひとり生きて行く   強く生きて行く   悲しみにも口づけて眠ろう   どんなに辛くても   雲は流れ   新しい明日へ君を運ぶ   ひとり生きて行く   惑い生きて行く   永遠をくれた愛しい人   どんなに離れても   ぬくもりたどり   いつの日かまた君と出会う   生まれ変わり   また君と出会う  「春の夢」。広い宇宙の隅々まで広がるような澄んだ声で、森山良子が歌っている。歌謡曲を深く味わったことのないぼくだから、この歌の存在もつい最近まで知らなかった。でも、歌。時々の心模様と共にそばにいて、静かで深いやすらぎを与えてくれるもののようだ。  ユコタンがまだ地上にいた頃、今の私の気持ちだよ、聴いてみてと言って、森山良子のある歌を教えてくれたことがあった。ぼくはその知らせを聞き流してしまった。亡くなって、それを思い出し、それならとインターネットで探した。流れるメロディと歌詞を聴きながら、ユコタンから届くメッセージだとさえ感じたものだ。もしも生前にこの歌を聴いていたら、などと考えるのはやめよう。今ではもうどうしようもない。これが、ぼくの選んだ人生だった。  それ以来しばらく森山良子を聴いた。こんなにも豊かな世界があったとは。うれしくなった。どこかの賢人が講話や文字で諭す世界より、彼女の歌の世界に触れ、自分の中に生まれた感情や心の動きをヒントにたどる道に、より開かれたものを感じてしまう。  歌は世につれ、世は歌につれ。子どもの頃流れていたテレビの歌謡番組の司会者が、毎度毎度そう切り出していた。その紋切型の口上の意味を考えることもなかったが、歌は本当に世間という人の心にも寄り添うのだと、しみじみと感じ入ってしまう。  「春の夢」。文字にして並んでしまうと、残念ながら、なんということもない、と感じてしまう。歌は、メロディに乗って歌われてこその世界のようだ。歌詞という言葉を持っているが、その奥にある、人間で言えば魂のようなものが歌の深い世界を創り出しているのかも知れない。  もしかすると、表現する世界には、その深い底からにじみ出るような、遥かな、新しい明日へのエネルギーが潜んでいなければもうなんの価値もない、とさえ思ってしまう。ぼくのちっぽけな人生と写真だが、そんな思いに至っただけでもなぜかとても幸せだ。  表現は手段があるから表現なのでは、決してないだろう。五感だけでなく、さらには魂にまでも響きそうなものを、これからは表現と呼ぼう。手段は、重要だが、二の次だ。魂と魂の響き合いこそが表現だと想像するとき、そこには悲しみや喜びという、人のどんな感情も越えた深くやすらぐ世界があるような気がする。きっと、だから、表現は人生の四六時中のことだ。  「春の夢」を聴きながら、表現という世界へのぼくの想像の幅はどんどんと広がり、創作への道は意欲というちっぽけさからまたひとつ遠ざかって行く。魂が表現する主体なら、もはや人としてのどんな力もただの手段として楽しめるし、それに表現の場に、天と地の境界線を引く必要もないかも知れない。天と地をひとつのものとして自分の中に感じた時にはじめて、表現が表現になる。そんな楽しい想像をめぐらしながら、創造する人を暮らそう。  春の夢。もしも生まれ変わることがあるなら、また君と出会い、ぼくは歌を歌う人になろうかな。  

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