カテゴリ:旅行・山関係
二本松と言えば、まず日本三大菊人形(大阪枚方、福井武生、福島二本松)の一つとして有名ですが、ほかにも、日本で3指に数えられるちょうちん祭り(秋田竿灯、愛知一色、二本松)、高村光太郎の妻智恵子の生家なども外せない観光地。かつては奥州街道の宿場町であり、二本松藩丹羽氏10万石の城下町としても栄えた町です。
安達ヶ原から15分ほどで二本松市街。その中心に二本松城址があり、春は桜、秋はちょうちん祭り、菊人形の会場として市民が集う公園になっています。再建された箕輪門から城壁にかかる桜は風情たっぷり。満開には少し早かったようで3分咲きです。 二本松城が落城し灰燼に帰したのは明治維新にまつわる戊辰戦争のとき。新政府軍に反旗を翻した奥羽越列藩同盟のなかでも、二本松藩の悲劇的奮戦は会津や長岡と並び称されますが、あまり知られていません。なかでも、会津白虎隊より前に散華した二本松少年隊の悲劇は地元の人以外ほとんど知る人がありません。 <戊辰戦争・二本松少年隊> 明治元年、江戸を攻略した新政府軍は関東平野を席巻し、徳川幕府京都守護職であった会津藩松平氏を最大の敵として、日光から会津田島へ、宇都宮から白河へ、新潟から会津へなど多方面から一斉に進撃。5月には東北の入り口に当たる白河城で旧幕軍と激突します。白河攻防戦に出動した二本松藩の主力は、新政府軍の圧倒的な武力の前に後退に次ぐ後退を余儀なくされていました。 板垣退助の率いる部隊は、二本松に隣接する三春藩の裏切りを誘い、三春藩兵を道案内に立てて一気に本宮を占領、二本松藩主力の帰路を封鎖しました。因みに、今でも二本松では三春との縁組をしないと聞いたことがあります。 新政府軍の二本松攻撃は目前に迫っています。霞ヶ城に残る者は、藩主と老幼婦女子と老臣のみ。 藩は、主力分断による兵力不足を補うために、プラス2歳の「年齢詐称」を黙認し、数え年12~17歳の少年たちにまで出陣を認めました。『二本松少年隊』とは没後50年も経過して命名されたもので、当時は各部隊に分散配備されたため名称など付けられませんでした。総勢は62名。会津白虎隊は正式編成の少年部隊で16~17歳、総勢340名余。それに比べ二本松少年隊はあまりにもささやかな兵力でした。 大壇口での奮戦ぶりを表した群像 7月28日、城南の要衝・大壇口では、迫り来る敵の攻撃に緊張が高まっていました。隊長・木村銃太郎(西洋砲術指南)、副隊長・二階堂衛守に率いられた少年隊25名も出陣しました。 29日未明に本宮を出発した新政府軍は二本松軍への攻撃を開始。少年たちは古畳で胸壁を築き、銃や大砲で応戦しましたが、新政府軍の圧倒的戦力と近代戦法の前に少年隊は二時間ばかりで敗退します。 大壇口では、隊長・副隊長のほか少年8名が戦死、負傷5名。他の戦線でも少年6名が戦死、2名が負傷しています。62名中14名が戦死しており、会津白虎隊343名中戦死33名、自刃20名(城が燃えていると勘違いして飯盛山で19名、市中で1名)と比較しても、いかに二本松少年隊が悲劇的であったか分かります。 もとより、戦死者数の問題ではなく、少年まで戦争に参加しなくてはならない状況こそが問題なのですが! 二本松落城ののち、新政府軍は総力で会津へ進撃。8月20日戊辰戦争最大の悲劇といわれる会津城攻防戦が開始されたのです。 大燐寺の桜。左奥に少年隊の供養塔があります バスは霞ヶ城からほど近い大燐寺へ移動。境内には少年隊戦死者16名の供養塔と戊辰戦争殉難者群霊塔が建立され、今も香花が手向けられていました。そして、満開を前にした見事な枝垂桜が少年たちを包み込むように枝を広げていました。 おわり お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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