カテゴリ:旅行・山関係
開校式が終了して、いよいよ出発地点の日本橋へ移動。
日本橋というのは「お江戸日本橋 七つだち~」で有名な橋。1603年に初めて架けられ、東海道・中山道などの五街道が確立されてからは日本の道路の中心となりました。明治時代、橋の中央が国内諸街道の起点と定められ、今も橋の中央に日本国道路元標が埋め込まれています。 橋の中央は車道のど真ん中なので、元標のレプリカが橋の袂の元標広場に据え付けられています。ここが出発点。 私の属するのは黒チーム。リーダーは若くてガタイのいい(おまけに顔まで良いからムカツク!?)男性社労士・Kさん、メンバーは若くてスリムな女性社労士・Yさん(きゃしゃな脚で歩き通せるか?)、若くて勢いのある民間企業の営業マンSさん、それに高齢者の私、計4名です。そのほかに赤、黄、本隊チーム、先導や救護を受け持つ実行委員集団に分かれて班ごとに歩きます。 とはいえ、昼食ポイント・浅草寺までは各チーム団子状態。チーム内でペアになり自己紹介ワークをしながらの移動です。マイクはないけれど勝利者インタビューのように相手のことを聞き出し、その後チーム全員に紹介していくという趣向です。 今回は第1回ということで不十分感は拭えません。歩きながらですからメモは取りづらいし、国道沿いなので聞こえづらい。それでも、ワイガヤと質疑応答、昼飯のときにいろいろ話せましたから互いのことが少しはわかったかな。 現在、国道4号線は日本橋からまっすぐ北上して上野を経由していきますが、今回は南千住あたりまでは旧街道を経由します。 最初の集結ポイントは小伝馬町牢屋敷跡、今は十思公園と言われているところ。出発から15分くらいで到着です。 公園内には吉田松陰が処刑された終焉之地碑があり、死刑執行時に打たれた鐘もあります。隣接する大安楽寺は境内が処刑場だったとのことで「江戸伝馬町処刑場跡」の碑が建てられ、延命地蔵が祀られていました(皮肉な命名!)。牢屋敷は明治になって間もなく市ヶ谷刑務所に移されて廃止されています。 ここでのワークは、自分の墓碑銘を考える。園内にある吉田松陰の辞世を刻んだ「終焉之地碑」に因んで考えられたワークです。 周知のように、吉田松陰は長州藩出身の思想家・教育者で、安政の大獄で死刑になった人物。彼の松下村塾から輩出した青年たちが回天の志をもって明治維新を断行していきました。処刑にあたって松陰が詠んだ辞世は「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも とどめおかまし大和魂」。この歌が当時の志士たちに与えた影響は計り知れません。 ワークでは、自分が死んだら墓石にどんな言葉を刻んでほしいか、裏を返せばこんな人間になりたいか言葉にする、つまり自分軸を明確に表現するということが求められます。 実行委員の説明を受けて実際に作業したのは私くらいでしょうか、時間が短かったように思います。 私が書いてほしい墓碑銘案は、 思いとおこないを分かち難く 自他共の幸せを追い続けた人 ここに眠る 自分軸として、 私の喜びは自他共に笑顔で生きていけること 私の楽しみは自他共に心豊かに成長できること 私の願いは人間が人間として尊重される社会をつくること 公園を出発した私たちが次に目指すのは、浅草寺雷門。ここに到着すれば昼ごはんにありつけます。徒歩行軍の幟を掲げて「GO! GO!」。ニンジンがぶら下がって勢いが出始めたのか、このあたりから各チームのスピードに差が出始めました。 若手が集まる我が黒チームはさすが早いです。 人気アニメのフィギアが並ぶBANDAI新本社 国道6号線、通称水戸街道に沿った浅草橋・蔵前周辺は雛人形や玩具、店装品を扱う会社がズラリと並んでいます。ドジョウ料理で知られた「駒形ごぜう」本店は開店早々で外にも来店者。「食べたい!」とかわめきながら、写真をパチリ。でも、写真では腹は膨らみません。ハラヘラシの我がチームは、どこで昼食をとるか歩きながら相談。3代目の父親と4代目で元経営コンサルだった息子の、「店舗経営バトル」がテレビで紹介された、雷門脇の老舗「ときわ食堂」が面白そうということで早々に決定してしまいました。 食欲をそそる「駒形どぜう」本店のたたずまい 先導の実行委チームに次いで雷門に到着です。「各チーム自由に昼食をとって、14時25分までに南千住・回向院に集結してください」との指示。あらかじめ食事場所を決めてあった我がチームは一目散に「ときわ食堂」へ。ラッキーなことにテーブルが1つ空いていました。 広くもない店内は満席。数分後くらいから店の外に列が出来始めました。「先んずれば人を制す」とは、まさにこのことです。 テレビで紹介されたとおり、「ときわ食堂」のメニューは新旧入り混じっています。昔ながらの丼物や定食があり「たこのカルパッチョ」があるという具合。番組によると「3代目と4代目が注文の多寡を競い合っている」のだとか。全体として、4代目の新メニューは値が高く設定されています。私たちは好みが揃って「ネギトロ丼定食」を注文しました。 洗面所を借りたついでに厨房をのぞきこみました。4代目らしき人が奥で調理しています。戦場のような厨房に声をかけるわけにはいかないので、チラ見で席に戻りました。 観光客で込む浅草寺雷門と「ときわ食堂」(写真左) 込み合っているので、のんびりするわけにもいかず、食事を終えてすぐに出発しました。とはいえ、集合までまだ1時間以上あり、移動距離は2.5キロほど。「食べたすぐだから、おなか痛くならないようにゆっくり行こう」と決めて歩行開始です。 東武線浅草駅前で6号線とはお別れ。都道464号線、通称吉野通りへ。この道路沿いには皮革関係の会社が多く、良質の靴や鞄などが安く入手できます。皮革産業は台東区の地場産業として全国に名をはせています。 今戸を抜けると、いわゆる「山谷のドヤ街」になります。江戸時代から木賃宿(素泊まり専門の安宿)が密集していました。現在も「ドヤ」と隠語で呼ばれる簡易宿泊所が多くあって、日雇い労働者などが集まってくる場所。今は地名変更で「山谷」という住所はありませんが、南は東浅草から北は南千住、東は橋場から西は千束までに及び、大阪・西成のあいりん地区(釜ヶ崎)に次ぐ規模です。 建て替えが進み、町並みはずいぶんきれいになりました。その代わり、昔のように200~300円で泊まれる宿は無くなりました。歩きながら見た看板では、鉄筋建ての個室で素泊まり2000円台、LANケーブルなど完備でも3500円以下、古い雑居部屋なら1000~1500円くらいの料金設定です。 アパートのような簡易宿泊所。室内設備はビジネスホテル並みという 町は小ぎれいになり一見しただけでは分かりませんが、山谷に集まる日雇い労働者は、相変わらずピンハネ・賭博など暴力団などに食い物にされています。現在もキリスト教会などの炊き出し等が行われ、救済活動が続いています。 聞いたところによると、最近はコミックマーケット(同人誌のイベント)で上京した若い人たちが、節約のためこのあたりの簡易宿泊所を利用しているそうです。時代の変化を感じます。 足立区に住み、馬齢を重ねている私は周辺の道案内役。このあたりから草加までは詳しいのです。歩きながらニート・フリーターの問題も話し合いました。日雇い派遣をやめる必要があること、彼らに安定した職場を提供すること、あるいは「社内ニート」の声を取り上げ、仕事を通じて生きがいを見つける援助をすること、そのためにESクレドが有効だということ…泪橋交差点を過ぎるまで議論は続きました。 地下鉄日比谷線・南千住駅下の陸橋を越えると、もう集結ポイント回向院です。予定より30分も早く到着しました。 (また、長くなりました。回向院から草加までは次回へ) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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