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ふらりかずたま ひとり言 

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2010年11月12日
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2005年11月12日、長野県佐久市のH君が自らの生命を絶ちました。今日は彼の命日です。将来教師になることを夢見て県内屈指の有名校NK高校に入学してから、わずか7カ月後の出来事でした。携帯電話に保存された悲惨なメールから、卓球部での陰湿な「シカト」と「言葉の暴力」が明るみに出ました。詳しくは2006年11月7日8日12日のブログを見てください。
ちなみに、H君は、私のブログにも登場してくれる長野の友人(長野のダンナ)家族の長男です。写真はH君の携帯電話に保存されていた校舎からの風景

群馬県桐生市で小学6年生の上村明子さんが「いじめ」を苦に自殺して半月以上がたちました。学校側は当初の「いじめがあったとは認識していない」という見解を覆し「いじめ」があったことを認めました。しかし、「いじめと自殺の因果関係は不明」として責任を回避しています。

上村さんとH君の縊死に共通する問題について考えてみました。

自殺の数日前に何が…

H君の場合、部活動の中で1年生全員から日常的に「いじめ」を受けていました。「へたくそ」「キモい」「ウザい」などと嘲笑され、練習相手にもなってもらえない日々を送っていました。また後片付けも1人でやっていました。
2年生が修学旅行に出かけていた期間中(1年生だけの部活)、徹底的に「シカト」され「ハブ」られ、執拗な「辞めろ」攻撃を受けつづけます。11月11日(死の前日)、中学時代の友人たちに「完璧ハブられた」「卓球辞めようか」と訴えています。
いつも1人きりで練習し、1人で後片付けをしていた彼の姿を、顧問教師たちは何度も目撃し、事態の異常さに気付いていました。でも何の手も打たなかったのです。12日の朝、中学校の後輩とメール交換して部活に行くと伝えていますが、その数時間後に縊死したのでした。

上村さんの場合。08年名古屋から転校。09年、5年生になると一部の同級生に「臭い。あっち行け」と言われたり、外国人である母親のことでもからかわれ、無視されるようになりました。今秋から給食は決められた席でなく、好きな者同士で食べるようになって、彼女は1人だけで食べざるを得なくなり、学校を欠席しがちになったと言います。登校できなくなっていた彼女に、10月21日(死の2日前)は校外学習だから「参加するように」と担任から連絡がきます。彼女が意を決して当日登校すると、同級生から「こんな時だけ学校くるな」と言われ泣き帰ったのです。10月23日の土曜日、父親にジュースを買ってきてもらい、その数時間後、母親のために編んでいたマフラーで縊死しました。

2人に共通しているのは、それまでの「いじめ」に耐え続けた心が、数日前の出来事で折れてしまったということ。死の直前まで「頑張ろう」「辛抱しよう」と自分に言い聞かせ、家族には健気にふるまっていたこと。さらに、全身から発せられていたはずの絶体絶命のSOSを学校が見落としていた、もしくは過小評価していたこと。
  
「イジリ」は「いじめ」につながる

H君の場合、加害者Aは「イジリの領域」と主張、「Hは心が異常に弱い人間」とうそぶき、自殺にまで追い込んだ自分たちの行為に罪はないと私に強弁しました。
そもそも、「イジリ」とはお笑い芸人が、ステージや番組を盛り上げるために後輩芸人などに心身両面でのイタブリをかけることであって、いじられた方は「出世」の糸口となるとの黙契を前提として「イジリ」に協力するのである。テレビのバラエティ番組で垂れ流されている「イジリ」あるいは「罰ゲーム」などは、一般社会の概念では「いじめ」「虐待」「パワハラ」「セクハラ」にほかなりません。
そのような社会的風潮の中、いじめる側にとっては「別にどうってことない」行為が、被害者にとっては耐え難い「暴力」となる可能性があります。上村さんの場合も同様です。

「横並び」の「村社会」

ある研究者は、「日本は村社会」であり、「村」という共同体を維持してきたものは『第3項排除』の論理であると述べています。集団の中の1人を排除し、その『秘密』を共有することで共同体の結束を強める手法です。他と違った生活パターン、行動や主張はタブーとされ、なにごとも横並び。この「横並び文化」は、会社でも学校でも町内会でも生き続けています。
H君の場合も、上村さんの場合も、この『第3項排除』が継続的に行われ、本人としては排除される理由も分からないまま事態はエスカレートし、存在さえ否定されてしまったのです。

研究者によると「スケープゴートになりやすい傾向」を持つ人はいるそうです。他とはほんの少し異なった性質、身体能力、身体的特徴・・・を持っている人がターゲットになりやすいと言います。運動能力がわずかに劣っている、髪の毛が人よりも細い、ちじれがきつい、障害がある、母子(父子)家庭である、洋服が流行おくれ、上手く話せない、吹き出物・アトピーが酷い・・・取るに足りない自分たちとの相違点を見つけ出し、さらには事実を歪曲し「いじめ」の対象とするのです。その点では、子どもたちは限りなく残酷で悪魔的ですらあります。

当然「いじめ」の対象者は抵抗します。返事をしないで無視する。逆に口答えする。身体に加えられる暴力に対しては時として立ち向かう。その結果、いじめた側は自分の罪を棚に上げて「あいつは暴力的だ」「むかつく態度をとる」など言いふらし、さらに激しい「いじめ」を展開するのです。そして問題が表面化すると曰く「あの子にも問題があった」と。
いじめられている者がいじめている者に対して反抗し、時に牙をむくことがあったとしても、それは非難されるべきものではありません。1個の人格として当然の抵抗権、正当防衛権の行使に他ならないのです。被害者の人格を貶めた側にこそ責任があるのは言うまでもありません。

自分以外の人間との関わりの中で自己の確立を

「横並び文化」「村社会」が、民主主義の後進性、差別と選別の社会制度に依存していることは紛れもありません。これらは同時に自分勝手、強い者勝ちの価値観を生み出しています。
わが国では、自我に目覚め確立すべき幼年~少年時代に基本的人権、自由、民主主義の概念を学習し、体得する機会を持ちません。幼少期から勝ち組・負け組の価値観を植え付けられ、他人を蹴落とすことが自分の幸福という格差構造に身をゆだね成長していきます。加えて、全体主義的な教育を吹聴する連中も少なくありません。
全体主義と弱肉強食教育は一見異なるように見えますが、実際は軌を一にするものです。そこには人権も民主主義も自由も、他者への思いやりも存在しません。

いま、教育が取り戻すべき課題は、地域・家庭・学校が一体になった子育てであり、自分以外の人間(家族も)と深くかかわり、互いに理解し合うことの中で自分という存在を発見し、自己を確立させていく教育の推進ではないでしょうか。「他者の自由を脅かし、権利を踏みにじっても痛痒すら感じない」ようになっている現状を打破し、1人1人の自由と権利が擁護され、個々の人格が何よりも大切にされる社会になるよう、子どもたちを育てなくてはなりません。

「死人に口なし」 学校の責任逃れ

上村さんとH君のケースも、否どんなケースでも、最初に学校が発する言葉は「いじめがあったとは認識していない」。原因となった「いじめ」自体を否定するのです。

上村さんの場合、両親がマスコミに訴え、次々と彼女の手記など公表しました。そのため、学校も黙殺できず徐々に態度を変え、いじめの事実を認めました。もっとも、いまだに「いじめと自殺の因果関係は不明」などと責任を回避していますが…。

H君の場合、両親が「これからも地元で住み続けるのだし、弟もいるから…それに、いじめをやっていた生徒たちにも将来があるのだから、マスコミに訴えたりしたくない」と決めていたため、『信濃毎日』ほか新聞各社からの再三に亘る取材要請にも応じませんでした。
学校ははじめ「そのような事実はない」としていました。メールなどの資料を突き付けられ「1年生の中で問題があった」ことを認めたものの、両親がマスコミに通報していないことを知るや態度を変え「H君が人気取りのため1人で片づけをしていた」「性格的に問題がある」あげくに「家庭に問題があったのではないか」とまで発言しはじめました。その後、何度も話し合い、教育委員会も動き出して、「謝罪」と「再発防止」の言質を得たのですが、その間、はらわたの煮えくり返るような思いを何度もさせられました。

「いじめ自殺」に関わる民事訴訟では、その点がはっきりと現れます。
過去の事例をみると因果関係の立証は極めて困難で、棄却されるケースが目立ちます。
「いじめ」が原因で自殺をしたのかどうか、自殺した本人は証言できませんから、証明は状況証拠(ノートとか他への相談とか)に依存するしかありません。訴えを起こした側に立証責任がある以上、学校側なり行政側なりは因果関係に「疑義」を差し挟めばいいだけですから、裁判では圧倒的に有利なのです。
裁判に至らない場合でも、いじめた側と「いじめ」を見過ごした側は、どのようにでも言い逃れられるのです。まさに「死人に口なし」です。それをいいことに、責任逃れに終始する学校の姿勢こそが、「いじめ根絶」を阻害しているのではないでしょうか?

教員評価制度が「いじめ」を隠ぺいさせる

学校が「いじめ」の事実を認めず、認めたとしても「自殺の原因」であると認めないのにはわけがあります。
教員に対する評価制度です。能力の低い教師をなくするという名目でスタートしたのですが、低く評価されると「待遇」が下がり、「出世」の道が閉ざされるという代物で、教育現場は牙を抜かれたような状態です(少なくない教師たちが、子どもを大切にし、熱心に教育研究を行っていることも忘れてはいけませんが…)。

教育委員会の方針は絶対。校長や教頭(副校長)の指示に従わない教師は×(ペケ)教師の烙印を押されるのです。だから、教師たちはトラブルを起こさないように腐心します。結局、学校の教育力は低下し続け、聖職者としての自覚がない「サラリーマン」教師が教育現場にはびこっていくのです。
問題が発生すれば評価点は下がるので、隠ぺいするしかありません。教師の問題は校長の問題ですから、学校全体が不祥事御法度の体質に変貌していくのです。
特に、「いじめ」問題が表面化すれば大失点になります。だから「いじめ」の事実があったことさえ否定し、自殺者が出てしまうと因果関係は絶対認めたくないわけです。

H君の場合、日参して「気付いてあげられなくて申し訳ない」と謝罪しつつ、その舌の根も乾かないうちに「H君の方にも問題があった」と発言し続け、早々とH君の私物を箱詰めにして持参し、退学届の提出を迫まり、一方的に幕を引こうとしました。
上村さんの場合も同様の動きがあったようですが、マスコミが鵜の目鷹の目で張り付いているため記者会見を開き、正式に謝罪して見せました。それでも「因果関係は不明」と体をかわし、親を抑え込もうとしています。

評価制度が教師の自主性を委縮させていることはさておいて、今大切なことは、「いじめ」の発生をもって教員評価するのではなく、「いじめ」をどのように克服したのか、または克服へ努力しているのか、を評価基準にすべきではないかと思います。
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H君がなくなって早や5年。生きていれば、今頃は念願の信州大学に通っていたかもしれません。加害者たちもほとんどが大学生として青春を謳歌しているでしょう。願わくば、自分たちが犯した過ちを教訓として、人にやさしく思いやりを持って接し、より良い生き方をしてほしいものです。





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最終更新日  2010年11月13日 02時56分03秒
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